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第69話 簪の佳人

第一話の敵を増量いたしました。

サービスです。

 日曜日の朝、端末に通知が来た。


 茜からだった。


「葵、今日一緒に勉強しない?」


 葵は少し考えてから返信した。


「いいよ。ちょうどセレンと勉強する予定があったんだ。一緒にどう?」


 送ってから数秒も経たないうちに、電話がかかってきた。


「……なんでセレンと?」


 茜の声だった。いつもより低く、間があった。


 葵は少し止まった。悪いことは何もしていないはずだった。


 ライラが胸元でかすかに震えた。


 葵は何故か一生懸命説明した。セレンが昨日ピアサポートに来たこと。体を動かすことは得意だが勉強が苦手なこと。このままではまずいと自分で言っていたこと。だから今日一緒に勉強することにしたこと。


 少し間があった。


「……わかった」


 茜の声が戻った。「私も行く」


「うん」と葵は言った。


 電話が切れた。ライラの震えが、少しだけ収まった。


 葵はセレンに連絡した。「茜も一緒でも大丈夫?」


 少し間があってから返信が来た。「……大丈夫」


 ーーーーーーーーーーーーーー


 待ち合わせの場所に少し早く着いた。


 セレンがいた。


 ただ、隣に見知らぬ人物が立っていた。

 長身で、腰の下まで届く漆黒のストレートヘアが、朝の光の中で艶やかに揺れていた。

 白い薄手のハイネックニットに、深い紺のロングスカート。羽織のように丈の長い墨色のカーディガンをさらりとかけていた。

 髪には細い簪が一本だけさしてある。

 華やかではなかった。ただ、鎖骨のラインと長い手足が、静かに目を引いた。


 葵が近づくと、セレンが気づいた。


「……来た」


 隣の人物が葵の方を向いた。切れ長の涼しげな目が、葵をじっと見た。


「……この子が、例の」


 低く、静かな声だった。それだけ言って、少し間を置いた。目がとろりと細くなった。


「話には聞いてたけど……ほんまにかわいらしいわねぇ。葵くん、言うてはった通りやわ」


 葵は少し止まった。「……あの、どちら様ですか」


 セレンが答える前に、その人物が口を開いた。


「御所柚葉、と言います。セレンとは親同士が知り合いでな……友人なんよ」


 柚葉が微笑んだ。上品だったが、葵から目を離さなかった。


 ライラが胸元でかすかに揺れた。悪意ではなかった。ただ——何かがあった。何かまでは、わからなかった。


 ーーーーーーーーーーーーーー


 しばらくして、茜が来た。


 セレンを見た瞬間、一秒だけ目が止まった。それからすぐに柚葉を見た。


 柚葉が茜を見た。上品に微笑んだ。


「……茜ちゃん、やね。セレンからよう聞いてるんよぉ」


 茜が微笑み返した。「はじめまして」


 声は穏やかだった。ただ、葵のそばに自然に寄った。


 葵は四人を見回した。全員が笑っていた。ただ、空気がどこか張っている気がした。何がそうさせているのかは、うまくわからなかった。


「……じゃあ、行こうか」


 葵が言った。三人が頷いた。


 ーーーーーーーーーーーーーー


 四人で中心街に向かった。


 アルカディア島の中央図書館は、中心部の高層ビル群の一角にあった。外壁は透明な強化ガラスで、内部に浮かぶ本棚が外からでも見えた。入口の自動扉をくぐると、魔法陣を組み込んだ検索端末が並んでいた。書名を思い浮かべるだけで場所を案内してくれると聞いたことがあったが、葵はまだ使ったことがなかった。


 吹き抜けの天井から自然光が差し込んでいた。本棚は宙に浮いていて、必要な本が手元まで降りてくる仕組みになっていた。静かだったが、人は多かった。


 窓際の席を取った。外には空中モノレールが静かに走っていた。


 柚葉が葵の隣に自然に座った。反対側に茜が座った。セレンは向かいに座り、少し困ったような顔をしていた。


「……葵くん、君のこと、セレンからよう聞いてるんよぉ」


 柚葉が葵の方を向いて言った。目が少し細くなった。


「はい」と葵は言った。「えっと、柚葉さんも勉強しに?」


「セレンに勉強教えるんやったら、私も手伝うわって。

 これでも日本の魔法学校、卒業してるんよぉ」


 茜が柚葉を見た。「……セレンから、葵のどんな話を聞いてるんですか」


 声は穏やかだった。ただ、目が笑っていなかった。


 柚葉が茜を見て、上品に微笑んだ。「セレンの友達の話よ。ほんまに、それだけやわねぇ」


 茜が少し間を置いた。「……そうですか」


 それ以上は聞かなかった。


 ーーーーーーーーーーーーーー


 葵はノートを開いた。昨日の続きから始めることにした。


 セレンが黙々とノートに向かった。昨日よりも手が止まる回数が少なかった。少しずつ身についているようだった。


 柚葉は葵の手元をちらちらと見ながら、自分のノートにも書き込んでいた。冷静だった。ただ、葵が説明するたびに少し顔を近づけてきた。


 茜は自分の勉強をしながら、時々柚葉と葵の方に視線をやった。表には出さなかった。ただ、ノートのペンを持つ手が一度だけ止まった。


 ライラが胸元でかすかに揺れた。


 何かを感じているようだった。悪意ではなかった。ただ、この場の空気に何かが混じっていた。何かまでは、わからなかった。


 しばらくして、セレンが顔を上げた。「……ここ、わからない」


 葵はセレンのノートを覗き込んだ。説明を始めた。


 柚葉がそれを横から静かに見ていた。それから小さく口を開いた。


「葵くん、教え方上手なんやねぇ」


「……ありがとうございます」


「ふふっ......」と柚葉が笑った。「ほんまにかわいらしいわぁ」


 葵は少し止まった。何がかわいいのかよくわからなかった。


 茜のペンが、また一度止まった。


 ーーーーーーーーーーーーーー


 しばらくして、柚葉が荷物をまとめ始めた。


「そろそろ行かなあかんわねぇ」


 立ち上がった柚葉を見上げると、思っていたより背が高かった。


「葵くん、今日はありがとうねぇ」


 柚葉が葵の頭にそっと手を置いた。


「またねぇ、みんな」


 それだけ言って、柚葉は静かに去っていった。


 葵は少し止まった。


「……何だったんだろう」


 セレンが「……ごめん」と小さく言った。「すぐ帰ると思ってたんだけど」


「いや、いいよ」と葵は言った。


 茜が柚葉の去った方向をしばらく見ていた。それから視線を戻して、何も言わずにノートを開いた。


 ーーーーーーーーーーーーーー


 柚葉が去った後、三人で勉強を続けた。


 葵はセレンのわからない箇所をもう一度説明した。茜が横から補足することもあった。セレンが黙って二人の説明を聞いていた。昨日よりも手が止まる回数が少なかった。


 しばらくして、セレンが荷物をまとめながら「……用事がある」と言った。「また明日」


「うん、またね」と葵は言った。


 セレンが図書館を出ていった。


 三人が二人になった。


 少し二人で勉強をしたあと、茜と葵は並んで図書館を出た。モノレールの駅に向かって歩いた。


 しばらく無言だった。


「……葵」


 茜が口を開いた。


「うん」


「柚葉さんに、気に入られてたね」


 声は穏やかだった。ただ、穏やかすぎた。


 葵は少し止まった。悪いことは何もしていないはずだった。


 ライラが胸元でかすかに震えた。


「……そう、かな」


「そうだよ」と茜は言った。「頭、撫でてもらってたし」


「あれは……なんか、自然にされてしまって」


 茜が葵を見た。少し間があった。


「……葵って、なんでそういうことになるんだろうね」


 笑っていた。ただ、目が笑っていなかった。


 葵はどう返せばいいかわからなかった。ライラの震えが、なかなか収まらなかった。

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