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第68話 悪くない夜

 ピアサポートが終わって教員寮に戻ると、夕方の光が廊下に伸びていた。


 部屋に入って荷物を置いた。少し疲れた気がしたが、悪い疲れではなかった。


 キッチンを見ながら、ふとオリビアのことを思い出した。


 ——今から作れば、オリビア先生も食べてくれるかもしれない。


 端末を開いてメッセージを送った。


「今日夕食を作ろうと思っているんですが、よかったら食べますか」


 既読がついた。返ってくるまで、ほとんど間がなかった。


「食べます」


 葵は少し止まった。それから端末を持ったまま考えた。


 ——昨日はアーデル先生の国の料理を作った。せっかくなら今日はオリビア先生の国の料理を調べてみようか。


 検索した。イギリスの家庭料理。いくつか出てきた。コテージパイというものが目に入った。ひき肉とマッシュポテトをオーブンで焼く料理だった。


 ——これにしよう。


 ライラが胸元から顔を出した。「……何作るの」


「コテージパイ。イギリスの料理」


「……知ってる」


「知ってるの」


「……やっぱ知らない」


 葵は少し可笑しくなった。天龍集団のネットスーパーを開いて材料を注文した。ひき肉、玉ねぎ、にんじん、じゃがいも。栄養バランスを考えて、キャロットのグラッセ用のバターとグリーンサラダの葉野菜も一緒に頼んだ。


 ーーーーーーーーーーーーーー


 材料が届くまでの間、葵は廊下に出た。


 アーデルの部屋の扉をノックした。


 少し間があってから扉が開いた。アーデルが顔を出した。


「何だ」


「今日から、時間が合えば一緒に食事しませんか」


 アーデルが少し葵を見た。


「……オリビア先生も一緒です」


 また少し間があった。


「……そうするか」


 それだけ言った。扉が閉まった。


 葵は部屋に戻った。


 ーーーーーーーーーーーーーー


 材料が届いた。


 ライラが胸元から出てきて、キッチンカウンターの端に座った。


「……私が指示する」


「先生みたいだね」


「……うん」


 満更でもなさそうだった。


 じゃがいもを茹で始めた。玉ねぎとにんじんを刻んで、ひき肉と一緒に炒めた。ライラが「……火が強い」「……もう少し混ぜて」と短く言った。葵はその通りにした。


 マッシュポテトを作った。茹で上がったじゃがいもをつぶして、バターと牛乳を加えた。ライラが「……もっとなめらかに」と言った。葵は黙って続けた。


 耐熱皿にひき肉の炒め物を敷いて、上からマッシュポテトをのせた。オーブンに入れた。


 その間にキャロットのグラッセを作った。にんじんをバターと砂糖で艶が出るまで煮た。グリーンサラダは葉野菜をちぎって皿に盛るだけだった。


 オーブンから焼き上がったコテージパイを取り出した。表面がこんがりとした焼き色になっていた。


 ライラが鼻をひくつかせた。「……いいにおい」


「食べる?」


「……少しだけ」


 ーーーーーーーーーーーーーー


 三人分の皿を用意した。


 壁の穴をくぐってオリビアの部屋に顔を出した。


「できました。アーデル先生の部屋で食べませんか」


「……はい」


 オリビアがすぐに立ち上がった。


 アーデルの部屋に三人が集まった。狭くはなかったが、広くもなかった。アーデルが机を少し動かして、椅子を三つ並べた。


 葵がコテージパイとキャロットのグラッセとグリーンサラダを並べた。


 三人が席に着いた。


 しばらく無言だった。


 オリビアがコテージパイを一口食べた。少し間があった。


「……葵くん、これ」


「イギリスの料理を調べて作ってみました」


 オリビアが葵を見た。目が少し細くなった。「……故郷の料理を、作ってくれたんですね」


「口に合いましたか」


「……おいしいです」


 小さな声だったが、はっきりしていた。


 アーデルが「悪くない」と言った。それだけだったが、葵には十分だった。


 しばらく食べていると、オリビアがアーデルに話しかけた。契約説法の話だった。葵には難しくてよくわからない内容だったが、アーデルが少しずつ言葉を返した。オリビアが身を乗り出した。アーデルの口数が増えた。


 気づけば二人の会話が続いていた。契約の解釈について、神魔と人間の関係性について。葵には半分も理解できなかった。


 ただ、二人が楽しそうだった。


 ——よかった、と思った。


 一段落したところで、アーデルが本棚に目をやった。


「私の部屋にある本なら、自由に借りていっていい」


 オリビアが本棚を見た。少し間があった。


「……ありがとうございます。その時はお借りしますね」


 アーデルが小さく頷いた。


 三人でまた食べ始めた。


 ーーーーーーーーーーーーーー


 食事が終わった。アーデルが「ごちそうさま」と言った。


 アーデルが立ち上がって皿を重ねた。「皿は洗っておく」


「いえ、後片付けまでが料理ですから」と葵は言った。


「いい。役割分担だ」


 それだけ言って、アーデルはキッチンに向かった。


 葵は少し止まった。オリビアと顔を見合わせた。オリビアが小さく笑った。


 葵とオリビアは壁の穴をくぐった。


 ーーーーーーーーーーーーーー


 オリビアが眼鏡を直して、ノートを開いた。目の色が落ち着いた。


「……今日はリンガをやりましょう」


「はい」


「今回の試験範囲は、古典文学の読解・基本的な修辞法・それからラテン語語源の基礎です」


 葵はノートを開いた。


「……学校で初級魔法のラテン語を少し習ったかもしれませんが、それは今回の試験範囲の外になります。ただ——」


 オリビアがペンを持った。


「……語源の理解としては繋がるので、知っていると有利ではあります」


「……なるほど」と葵は言った。


「まず修辞法から始めましょう。比喩・象徴・対比——この三つが基礎になります」


 説明が始まった。途切れ途切れだったが、どこで止まったかを毎回確かめながら進んだ。


 しばらくして、オリビアがノートに例文を書いた。


「……これはどの修辞法だと思いますか」


 葵は少し考えた。「……比喩、ですか」


「……正解です。もう少し正確に言うと、暗喩になります」


 説明が続いた。葵はノートに書き込んだ。昨日の数学とは違う頭の使い方だったが、オリビアの説明は同じように丁寧だった。


 一通り終わると、オリビアが予想問題を一枚渡した。


「……明日までに解いてきてもらえますか」


「はい」と葵は言った。


 オリビアが微かに微笑んだ。「……今日もありがとうございました」


「こちらこそ」


 葵は立ち上がって穴に向かった。


「おやすみなさい、先生」


「……おやすみなさい」


 壁の穴をくぐって自分の部屋に戻った。机の上に予想問題を置いた。


 明日はセレンと勉強する予定だった。


 ライラが胸元でかすかに揺れた。「……今日も、いい日だったね」


 葵は電気を消しながら言った。「うん」


 目を閉じた。

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