第7話 土曜日と茜
六日目の朝も、体が重かった。腕が重い。肩が張っている。
葵は少し考えてから、教本を引き寄せた。
昨日の契約説法で習った内容——象徴の原則。言葉が実在と繋がっている。詠唱は意図を構造化する。
光属性の初級回復魔法の詠唱文を開いた。
——光よ、満ちよ。サナティオ・ルクス。
声に出した。指先に温かさが集まる。それを自分の体に向けて、流した。
じんわりと、肩の重さが和らいだ。腕の疲れが少し、薄れた気がした。
完全には取れない。でも——違う。
「……使えるんだ」
葵はしばらく自分の手を見つめた。
——今度からこうしよう。
胸元でライラが、温かく揺れた。賛成するように。
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土曜は午前二コマで終わる。
一限は剣技だった。
ハルトマンは今日も無駄口を叩かなかった。基礎トレーニングから始まり——走り、腕立て、腹筋。男子には容赦がない。颯は腹筋の途中で一度止まりかけ、ハルトマンの視線を感じて慌てて再開した。
トレーニングが終わると、木剣を持つよう指示が出た。
「今日は応用に入る」
ハルトマンが前に出た。フォム・タークの構えを取る。肩の上に剣を高く乗せた、あの構えだ。
「昨日教えたオーバーハウは、同じ背丈の相手に対する基本だ。だが実戦では、自分より遥かに大きい相手と戦うことがある。魔物、巨人、あるいは強化された敵——そういう相手に対して、同じ振り方では届かない」
ハルトマンは構えを少し変えた。足を広く開き、重心を低く落とす。剣を肩ではなく頭上高く掲げる。
「狙うのは関節、首、脇——装甲の隙間だ。上から叩くのではなく、潜り込んで斬り上げる。あるいは足元を崩す。大きい相手ほど、足元が弱い」
ハルトマンはゆっくりと動いた。巨大な何かを相手にしているように——大きく踏み込み、低く潜り、剣を斜めに斬り上げる。続けて反転し、膝の裏を狙うように横に薙ぐ。
生徒たちは黙って見ていた。
「やれ」
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二限は魔法実戦演習だった。
演習場にアーデルが立っていた。いつもの静かな目で、全員が揃うのを待った。
「始める前に、これを渡す」
アーデルが箱を開けた。中に、穏やかな光を放つブレスレットが並んでいた。細い金属の輪に、小さな石が一つ埋め込まれている。石の中で光が揺れていた。
「着けろ。今日から演習中は必ず着用すること」
生徒たちが一本ずつ取り、手首に嵌めた。葵も嵌めた。手首に触れた瞬間、かすかな温もりがあった。
「これは保護魔法具だ。致命傷を受けた場合、内部の状態を固定し、外界からの干渉を拒む結界を自動で張る。死なないための最後の砦だと思え」
教室が少しざわついた。
「ただし」
アーデルの声が、一段低くなった。
「故意にこれを発動させた場合——つまり、相手を意図的に致命傷に近い状態にした場合——学園はそれを記録する。悪質と判断されれば、被害者への直接賠償を命じる。この記録は消えない。わかったか」
誰も声を出さなかった。
「わかったなら始める。今日は打ち込み台への攻撃魔法の練習だ。自分の属性に合った初級攻撃魔法を一つ選べ。教本の該当ページを開け」
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葵は光属性の初級攻撃魔法を開いた。
——光よ、射よ。ルクス•サギタ。
光の矢を放つ魔法だ。防御魔法とは違い、指先から光を凝縮して飛ばす。
葵は打ち込み台の前に立ち、詠唱した。
指先に光が集まり——弾けた。光の矢が台に当たり、表面に焦げ跡を残した。
「……出た」
もう一度やった。また出た。今度は詠唱なしで試した。出た。
葵はその焦げ跡を見つめた。防御魔法と違い、攻撃魔法は跡が残る。それがなんとなく——少し、重かった。
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午前の授業が終わり、生徒たちが校舎を出始めた。
葵が鞄を持って廊下に出ると、茜が待っていた。
「葵」
「うん?」
「午後、空いてる?」
葵は少し驚いた。茜から誘ってくることは珍しくはないが、こういう聞き方は珍しかった。
「空いてるけど」
「中心街、行こう」
それだけだった。理由も説明もない。でも葵は「うん」と答えた。
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制服のままモノレールに乗った。
二人並んで座る。窓の外を島が流れていく。オールドクォーターの馴染みの街並みが、中心部に近づくにつれて高層ビルに変わっていく。
茜は窓の外を見ていた。葵もなんとなく窓の外を見た。
「制服だと」と葵は言った。「中心部でも普通に見てもらえるね」
「そう」
茜は短く答えた。でも葵には、茜がその言葉の意味をちゃんと受け取ったように感じた。
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中心街は賑やかだった。
ホログラム広告が建物の壁面に流れ、空中モノレールが頭上を走っている。魔法と科学が融合した近未来的な街並み。オールドクォーターとは全然違う。
茜は迷わず歩いた。目的地があるような足取りだった。
葵はその隣を歩きながら、ふと茜の横顔を見た。
——きれいだな、と思った。葵は少し目を逸らした。
茜が立ち止まった。
「ここ」
小さな雑貨店だった。魔法陣が印刷された小物や、魔力石を使ったアクセサリーが並んでいる。
二人で中に入った。茜は棚を静かに眺め始めた。葵も隣で眺めた。
茜が立ち止まった棚に、ブレスレットが二本並んでいた。細い金属の輪に、淡い青白い光を放つ小さな石が埋め込まれている。
「これ」
茜が一本を手に取った。
「ライラの色に似てる」
葵は少し驚いた。茜がそういうことを言うのは珍しかった。
「……そうだね」
茜はそのブレスレットをしばらく見てから、葵を見た。
「つけてみて」
「え?」
葵は促されるままに手首に嵌めた。手のひらに、かすかな温もりが広がった。
「似合う」
茜が残った一本を自分の手首に嵌めた。
葵は少し間を置いてから、気づいた。
「……茜も買うの?」
「うん」
茜はそう言って視線を棚に戻した。でも——戻す前の一瞬、ブレスレットを嵌めた葵の手首を、もう一度だけ見た。
——でも葵は、ふと思った。
茜がここへ来ようと言ったのは今日だ。でもこの店を、茜は迷わず目指した。目的地があるような足取りだった。
最初からここに来るつもりで——このブレスレットを買うつもりで、今日誘ったのか。
聞こうとして、やめた。茜の横顔が、あまりにも静かだったから。
——聞いても、答えは変わらないような気がした。
「ありがとう」
茜は何も言わなかった。でも葵には、茜が少しだけ——ほんのわずかだけ、表情が和らいだように見えた。
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帰り道、モノレールの中で二人並んで座った。
葵の手首に、青白い光を放つブレスレットがある。茜の手首にも、同じものが。
茜は窓の外を見ていた。葵もなんとなく窓の外を見た。
オールドクォーターが近づいてくる。いつもの街並みが見えてくる。
「茜」
「なに」
「今日、誘ってくれてありがとう」
茜は少しの間、黙っていた。
「……うん」
窓の外を、島が静かに流れていった。




