第66話 先生の連絡先
お風呂から出て、タオルで髪を拭いた。
ドライヤーをかけながら、ぼんやりと壁を見ていた。
壁の向こう側が、明るくなった。
——帰ってきたんだ。
ドライヤーを止めた。静かになった部屋で、壁の向こうから微かに物音がした。
葵はキッチンに目をやった。
さっき作ったフラムクーヘンとスープが、まだ少し残っていた。明日の朝に温め直そうと思っていたものだった。
——オリビア先生に持っていってみようか。
ライラが胸元でかすかに揺れた。「……うん」と、それだけ言った。
葵は壁の穴をくぐった。
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「オリビア先生」
少し声をかけると、すぐに足音がした。
穴の向こうにオリビアが現れた。栗色の髪がゆるくまとめられていて、眼鏡が少しずれている。今日は薄いピンクのニットに白いスカートだった。
葵を見た瞬間、顔がほんのりと赤くなった。
「……今日も、来てくれたんですね」
「はい。あの——夕飯は、もう召し上がりましたか」
「食べました」
「そうですか」と葵は言った。
「さっきフラムクーヘン......玉ねぎとハムのドイツ風ピザです、それとスープを作ったんですが、少し余ってしまって……もしよかったらと思ったんですが」
「……食べます」
間髪入れなかった。声は上品なままだったが、返事だけが早かった。
「え、でもお夕飯を食べたんじゃ」
「……軽く食べただけだったので」
葵は少し止まった。
「……温め直してきます」
「……ありがとうございます、お願いします」
オリビアが微かに微笑んだ。
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少し待っていてもらって、キッチンに戻った。
鍋を火にかけて、フラムクーヘンをオーブンに入れた。温まるまでの間、ライラが胸元でかすかに揺れた。
「……嬉しそう」
葵は鍋をかき混ぜながら言った。「先生が?」
「……うん」
温め直したスープを器に注いで、フラムクーヘンを皿に乗せた。壁の穴をくぐって、オリビアの部屋に戻った。
「お待たせしました」
「……ありがとうございます」
オリビアが両手で受け取った。椅子に座って、スープから口をつけた。
上品だった。音を立てない。姿勢が崩れない。ただ、目が少し細くなった。
フラムクーヘンを一口食べた。咀嚼しながら、薄いニットの裾がわずかに持ち上がった。丸みを帯びたお腹が、生地をやわらかく押し返している。
「……おいしいです」
オリビアが言った。
「……毎日食べたいくらい」
「ありがとうございます」と葵は言った。「そこまで喜んでもらえると、作り甲斐があります」
オリビアがまた一口食べた。目が、また細くなった。
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「あの」と葵は言った。
オリビアが顔を上げた。
「明日以降も、作るかもしれないので……その時に連絡できるように、先生の連絡先をいただいてもよろしいでしょうか」
少し間があった。
オリビアの頬が、ほんのりと赤くなった。さっきとは違う赤さだった。
「……いいですよ」
端末を取り出して、少し操作した。葵の端末に通知が届いた。
「……ありがとうございます」
「……こちらこそ」
オリビアが小さく言った。また一口、スープを飲んだ。耳の先まで赤くなっていた。
ライラが胸元でかすかに揺れた。葵だけにわかる揺れ方だった。
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食べ終わった皿を葵が受け取って、自分の部屋に持って行った。洗い終えてから、また穴をくぐった。
オリビアはもう眼鏡を直して、ノートを開いていた。さっきまでの赤みが薄れて、目の色が落ち着いている。
「……答え合わせ、しましょうか」
葵は昨日の予想問題を取り出した。オリビアが受け取って、ペンを走らせた。
しばらく無言だった。
「……ここまでは、全部合っています」
葵が蒼玲に教わった範囲だった。
「……ここから先は」
オリビアがペンで二箇所に丸をつけた。
「この変形と、この式の展開。……どう考えましたか」
葵は手元を見た。「……こう、だと思ったんですが」
「……惜しいです。考え方の方向は合っています。ただ、この部分で——」
説明が始まった。途切れ途切れだったが、どこで止まったかを毎回確かめながら進んだ。
一通り終わると、オリビアが新しい問題をノートに書いた。
「……もう一度、やってみてもらえますか」
葵はペンを持った。今度は手が止まらなかった。
「……できました」
オリビアが覗き込んだ。少し間があった。
「……合っています」
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「……次は、世界史をやりましょう」
オリビアがノートのページをめくった。
「……今回の試験範囲は、古代文明からローマ帝国の崩壊、それからサラーム教の台頭あたりまでです」
「……広いですね」
「……そうですね」とオリビアは言った。「ただ、流れさえ掴めれば、そこまで難しくはないので」
ペンを持って、ノートに図を描き始めた。
「……ローマ帝国が崩壊したのは、なぜだと思いますか」
「……広がりすぎた、からでしょうか」
「……正解です。ただ、もう少し正確に言うと——」
オリビアが図に線を引いた。
「……帝国というのは、大きくなればなるほど、端まで目が届かなくなります。たとえば——」
少し間があった。
「……この学校で、先生が廊下の端から端まで全員の生徒を一人で管理しようとしたら、どうなると思いますか」
「……無理だと思います」
「……そうですね。ローマも、同じです。広げすぎて、守れなくなった」
葵はノートを見た。さっきまで複雑に見えた流れが、急に単純になった気がした。
「……それから」とオリビアは続けた。「この時代に忘れてはいけない人物が何人かいます」
「……名もなき救済者と、アフマドですか」
オリビアが顔を上げた。
「……その通りです。それから、コンスタンティヌス帝も押さえておいてください。救済者の教えがローマ帝国に広まった理由と繋がるので」
「……なるほど」
「……そこを理解しておくと、ローマ崩壊後の流れも自然に見えてきます」
ペンがノートの上を走った。途切れ途切れに、しかし確かな順序で言葉が並んでいった。
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一通り終わって、葵はノートを閉じた。
オリビアが伸びをした。薄いニットの裾がまた少し持ち上がった。
「……今日はここまでにしましょう」
「はい」と葵は言った。「ありがとうございました」
「……こちらこそ」
オリビアが小さく言った。眼鏡を外して、目を細めた。
「……フラムクーヘン、本当においしかったです」
「また作ったときは、連絡します」
「……楽しみにしています」
オリビアが微かに微笑んだ。葵は立ち上がって、穴に向かった。
「おやすみなさい、先生」
「……おやすみなさい」
壁の穴をくぐって、自分の部屋に戻った。机の上に今日のノートを置いた。
ライラが胸元でかすかに揺れた。
「……嬉しそうだったね」
葵は電気を消しながら言った。「そうだね」
ベッドに倒れ込み、目を閉じた。
世界史の流れが、まだ頭の中で動いていた。




