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第65話 フラムクーヘン

 蒼玲の膝の上で数学の問題を解いていると、蒼玲が葵の肩に手を置いた。


「……あなた、とっても軽いわね」


「そうですか?」


「ちゃんと食べているの?」


 葵は少し間を置いた。最近は忙しくて、食堂に寄る時間も惜しくなっていた。缶詰で済ませた日もあった気がする。


「……ちゃんと食べていないかもしれないです」


 蒼玲が端末を操作した。画面が葵の目の前に差し出された。


「天龍集団のネットスーパーよ。品質は保証するわ。注文したらすぐに届く」


 画面には整然と並んだ食材の一覧があった。野菜・肉・乳製品。どれも見栄えがいい。


「半額クーポンも使いなさい」


 蒼玲がクーポンを転送してきた。


「せめてちゃんと食べなさい。あなたが栄養不足で倒れたら、私の顔に泥を塗ることになるわ」


「……はい」


 ーーーーーーーーーーーーーー


 寮に戻る道すがら、葵はふと思った。せっかく作るなら、アーデル先生にも食べてもらいたい。

 あの缶詰の食生活を見ていると、ちゃんとしたものを食べてほしいという気になる。


 アーデル先生はドイツ系だと聞いたことがある——ならドイツ料理にしよう。


 葵は端末を開いた。検索欄に「ドイツ料理 家庭向け 簡単」と打ち込む。いくつか候補が出てきた。シュニッツェル、ジャガイモのスープ、フラムクーヘン——。


 フラムクーヘンの画像を開いた。薄い生地にサワークリームの1種であるクレームフレーシュを塗り、玉ねぎとハムとチーズを乗せて焼く料理だった。材料が少なく、手順もそれほど複雑ではない。


 アーデル先生にも分けてあげられるくらい作れそうだった。


「これにしよう」


 胸元からライラが顔を出した。


「何?」


「夕ご飯。作ろうと思って」


 ライラが画面を覗き込んだ。じっと見てから「いい」と言った。


 葵はネットスーパーを開いた。フラムクーヘンの材料を一つずつ確認しながら追加していく。ライラが画面を覗き込んで口を出し始めた。


「これも」


「ハム以外にも?」


「これもおいしそう」


「それはチーズの別の種類だよ」


「いい」


 葵はカートに入れた。ライラが次々と指差すものを葵が追加していった。フラムクーヘンの材料だけでなく、明日以降の食材も気づけばカートに収まっていた。野菜、卵、果物。ライラが選ぶものは、なんとなく色鮮やかなものが多かった。


「ライラ、これ全部使える?」


「使う」


「……わかった」


 葵は注文した。


「アーデル先生の家に来る前みたいだね」


 ライラが「うん」と答えた。少し間があって、また「うん」と言った。同じ言葉だったが、今度の方が嬉しそうだった。


 ーーーーーーーーーーーーーー


 食材は思ったより早く届いた。


 葵は端末でレシピを確認しながら、ライラに言った。


「じゃあ、作ろうか」


「作る」


 ライラが即答した。


 まず薄力粉と水と塩を合わせて生地を作る。ライラが葵の手元を覗き込んで「もっと混ぜて」と言った。


 しばらく混ぜると「もういい」と言った。


 生地を伸ばす段階になって、葵は少し手こずった。うまく薄くならない。端が厚くなる。


「もっと薄く」とライラが言った。


「わかってる」


「わかってない」


 葵は黙って伸ばし直した。ライラが「そう」と言った。合格らしかった。


 クレームフレーシュを塗り、薄切りにした玉ねぎとハムとチーズを並べていく。ライラが具材の位置を細かく修正した。葵が置くたびに、ライラが少しずらした。


「……ライラ、僕が置いてるんだけど」


「こっちの方がいい」


「そう?」


「そう」


 葵は従った。


 オーブンで焼いている間、栄養バランスを考え、野菜のスープを作った。


 スープを煮込んでいると、オーブンから部屋にいい匂いが広がってきた。ライラが鼻をひくひくさせた。


「おいしそう」


「まだ焼いてる途中だよ」


「おいしそう」


 葵は笑った。


 焼き上がったフラムクーヘンは、思ったより形になっていた。薄い生地の上に具材が均等に並んでいる。


 ライラの細かい修正のおかげかもしれなかった。


 ーーーーーーーーーーーーーー


 葵はアーデルの部屋のドアをノックした。


 少し間があって、ドアが開いた。アーデルが葵を見て、次に葵の手元のフラムクーヘンとスープを見た。


「作ったので、よければ」


 アーデルはしばらく何も言わなかった。葵はドア越しに部屋の中が少し見えた。部屋の隅に缶詰の段ボールが積まれていた。いくつか開封済みのものもあった。


 葵は何も言わなかった。アーデルも何も言わなかった。


「……ありがとう」


 アーデルが受け取った。


 返事を待つつもりはなかったが、なんとなく足が動かなかった。葵はその場で待った。アーデルが一切れ取って、口に運んだ。


 静かだった。


 アーデルの表情が、いつもより柔らかくなった。淡々とした目元が、ほんのわずかだけ緩んだ。気づいたように元に戻そうとしたが、完全には戻らなかった。


「……おいしい」


 短く言った。


 少し間があった。


「……毎日これを作れるわけではないだろう。無理をするな」


 葵は「はい」と答えた。アーデルの表情が柔らかくなったような気がした。


 胸元でライラがわずかに揺れた。


「食べ終わったら、食器を流しに置いておいてください」


「……ああ」


 ドアが静かに閉まった。


 自分の部屋に戻ると、葵は残ったフラムクーヘンをテーブルに置いた。ライラが飛び出してきた。


「葵、一緒に食べる」


「食べよう」


 二人で向き合って食べた。ライラが「おいしい」と言った。葵も「うん」と言った。


「また作ろう」


 ライラが「うん」と答えた。

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