第59話 家庭教師
剣術部から帰ると、腕が重かった。
スラッシュ。魔力を刃に乗せるという感覚は、白羽に手を添えてもらって初めて少しわかった気がした。
一人でやると、どこかずれる。形は真似できても、魔力の流し方がまだわかっていない。
夕食を食べてから、お風呂に入り、髪を乾かした。
壁の穴を見た。向こうの電気が点いている。
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「オリビア先生」
少し声をかけると、すぐに足音がした。
穴の向こうにオリビアが現れた。栗色の髪がゆるくまとめられていて、眼鏡が少しずれている。白いカーディガンに薄いグレーのパンツ。
葵を見た瞬間、顔がほんのりと赤くなった。
「……来てくれたんですね」
部屋に入ると、本が多かった。壁際に参考書と見慣れない言語の文献が並んでいる。机の上にはノートが広げてあった。
「座って、ください」
オリビアが椅子を引いた。そして、自分の膝を軽く叩いた。
葵は一瞬止まった。
——そういう教え方、流行っているのだろうか。
「……はい」
腰を下ろした。
次の瞬間、オリビアが深く息を吸った。
静かに。しかし確かに。
葵は気づかなかったふりをした。もう一度吸われた。今度はゆっくりと。
しばらく間があった。
授業が始まらない。
「あの」と葵は言った。「先生、これでは」
「……何?」
「見る角度的に授業が難しい気が」
「あ……」
オリビアがはっとした。葵は立ち上がり、向かいに椅子を引いた。
「す、すみません……。初回だから、緊張をほぐそうと思って……」
「なるほど」と葵は言った。「ありがとうございます」
「…………」
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気を取り直して、オリビアが参考書を机に置いた。
眼鏡を直して、ノートを開いて、ペンを持つ。その動作で、何かが変わった。顔の赤みが薄れて、目の色が落ち着いた。
「……葵くんの目標は、何ですか」
「次の中間試験で、Sクラスの上位十位に入ることです」
「……わかりました」
ノートに何かを書いた。少し間があった。
「……絶対に、入らせてみせます」
断言だった。さっきまでの「す、すみません」と同じ人とは思えない声だった。
「葵くんは、試験対策に、......何を勉強しようと思っていましたか」
「......やはり、魔法でしょうか」
オリビアは少し間を置いた。
「……それだと、難しいと思います」
「……難しい、ですか」
「この学校の魔法の試験は実技が四割、学科が六割で……。魔法の学科で満点を取っても、それだけでは六十点にしかならないので」
「……そうなんですか」
「他のSクラスの子たちも、他の科目はできます。
ただ……家庭教師は魔法を主に教えているはずなので、他で差をつけた方が早いと思います」
葵はノートを見た。
——魔法の学科を頑張っても六十点が上限。
「……なるほど」
「……数学と世界史とリンガを、やりましょう」
少し間があった。
「魔法工学の学科も、対象になります」
葵は顔を上げた。「……魔法工学も学科があるんですか」
「あります。……前の先生の授業、どのくらい理解できていましたか」
「……モロー先生になってからはあまり」
「……そう、ですか」
それだけ言って、ノートに何かを書き足した。
「そちらも後でやります。……今日は数学から始めましょう」
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「まず今どこまでわかるか、見せてもらえますか」
基本的な式を書かれた。葵は解いてみた。途中で手が止まった。
「……ここまでですね」
オリビアは葵の手元をさっと確認した。
「この変形、授業でやりましたか?」
「……やったような」
「……では、ここから、やりましょう」
説明が始まった。
モローの授業とは、まったく違った。
オリビアは一つ説明するたびに、葵が追いついているかどうかを確かめた。追いついていれば次へ。止まっていれば戻る。それだけだった。
一時間が経った頃、オリビアがノートを一枚破いて葵の前に置いた。
「……予想問題です。明日までに解いてきてもらえますか」
葵はその紙を見た。今日やった型に似ていた。
「……明日も来るんですか」
「……毎日来てほしいんですが。試験まで二週間しかないので」
「先生」
「何?」
「テスト対策なら……授業の先生に聞いた方が、正確では」
「……テストはアービターが作るので」
葵は少し間を置いた。「……アービター、ですか」
「外部機関が作るから、担任でも内容は事前にわからなくて……。漏洩も不正もできないんです」
——モローが教えたことがそのまま出るわけじゃない。
「……でも、アービターの出題傾向は、読めるので……。
それに合わせて作ってあります」
「……なるほど」
「明日は答え合わせと復習をして、魔法工学の理論に入ります。……リンガと世界史はその後で、契約説法はアーデル先生に教わっている分があると思うので、最後にしようと思います」
二週間の話が、途切れ途切れに終わった。
葵は問題用紙をノートに挟んだ。
——点数は点数。今まで考えたことのない方向だった。
葵が立ち上がって穴に向かいかけたとき、オリビアが小さな声で言った。
「……また来てくれますか」
振り返ると、オリビアはノートを閉じながら、葵から目を逸らしていた。
「はい」と葵は言った。
壁の穴を抜けて自分の部屋に戻った。机の上に問題用紙を置いた。
明日までに全部解けるかどうかは、わからない。ベッドに倒れ込んだ。ライラが胸元でかすかに揺れた。
明日また、体が重い朝が来るんだろうか。そう思いながら目を閉じた。




