第6話 剣と体の記憶
五日目、午前中は魔法工学と契約説法だった。
魔法工学は前回の続きで、魔法陣の構造をAIの演算と比較する内容だった。リースは相変わらず飄々と話し、オルタが補足を入れる。葵はノートを取りながら、昨日の質問のことをふと思い出した。
——珍しい、とリースは言った。
契約説法はアーデルの授業だった。今日は「象徴の原則」——名前と実在の繋がりについて。詠唱文に使われるラテン語の言葉が、なぜ魔法の発動に有効なのかを理論的に説明する内容だった。葵はその話を聞きながら、言語・リンガで覚えたばかりの単語の意味を頭の中で照らし合わせた。
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午後、仮クラスの生徒たちは屋外の演習場に集められた。
魔法の練習場とは別の、広い砂地の空間だ。中央に木製の打ち込み台がいくつか並んでいる。壁際には木剣と模擬剣がずらりと掛けられていた。
生徒たちがざわつく中、演習場の端から一人の男が歩いてきた。
大柄だった。肩幅が広く、歩くたびに地面が沈むような重さがある。四十代か、それ以上か——刻まれた皺と、首から腕にかけてのいくつかの傷跡が、この男がどういう場所を生き抜いてきたかを静かに語っていた。
男は生徒たちの前に立ち、一度だけ全体を見渡した。
教室がしんと静まった。アーデルの静けさとは違う。圧力のある静けさだった。
「まず準備運動だ、その後、走れ。演習場を二十周。女子は十周でいい」
誰かが「え」と呟いた。ハルトマンはその方向を一瞥した。それだけで、その生徒は黙った。
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走り始めてすぐ、葵は気づいた。
ペースが、自然に決まる。息の整え方、腕の振り方、足の着き方——考えていないのに体が動く。隣を走る颯はすでに少し息が上がっていたが、葵は不思議なほど楽だった。
——また、これだ。
胸元でライラが揺れた。
十周を終えた女子たちが端で休んでいる。茜は肩を上げて呼吸していた。額に汗が光っている。葵はその横顔を一瞬見て、なんとなく目を逸らした。
二十周が終わった。颯はその場に膝をついた。
「死ぬかと思った……」
「腕立て五十回。女子は二十回」
颯の顔が青ざめた。
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腕立て、腹筋、スクワット——ハルトマンは次々と課題を出した。男子には容赦がない。少しでも姿勢が崩れると「やり直せ」という声が飛んだ。
女子への指示は同じ内容でも回数が少なく、声のトーンもわずかに違った。厳しさは変わらないが、どこか——守るような、そういう気配があった。
颯は腹筋の途中で一度止まった。その瞬間、ハルトマンの視線が飛んだ。颯は慌てて再開した。
葵はすべてをこなした。きつくないわけではない。でも体が動き方を知っている。どこで力を抜いてどこで踏ん張るか、なんとなくわかる。
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ひと通りのトレーニングが終わると、ハルトマンが口を開いた。
「木剣を一本取れ。利き手で持て」
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葵は壁際から木剣を一本手に取った。
持った瞬間、手のひらに馴染む感触があった。
——あれ。
葵はしばらく木剣を見つめた。
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「基礎の型を教える。見ていろ」
ハルトマンが前に出た。木剣を一本手に取り、肩の上に高く構えた——フォム・タークだ。
構えただけで、空気が変わった。
葵は思わず息を詰めた。ハルトマンが動いていないのに、その場にいるだけで場の重心が変わるような——そういう感覚だった。
ハルトマンはゆっくりと振り下ろした。フォム・タークの構えから真っ直ぐに——オーバーハウ。どこまでも単純な動作だったが、ハルトマンがやると一つひとつに重みがあった。
「まずこれだけ繰り返せ。構えと振り下ろし。それだけでいい」
葵は構えを取った。
フォム・タークの構え——肩の上に剣を乗せる。
オーバーハウ。
振った。
体が、自然に動いた。重心の乗せ方、踏み込みのタイミング、振り抜きの角度——考えていない。でも体が知っている。まるで何度もやってきたかのように。
もう一度。また、迷いなく動いた。
葵は少し戸惑いながら、もう一度繰り返した。やはり体が動く。
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ハルトマンが演習場を巡回していた。
生徒の動きを見ながら、短い言葉で修正を入れていく。「肘が開いている」「足幅が狭い」「力みすぎだ」——言葉に無駄がない。
葵のそばを通りかかったとき、足が止まった。
ハルトマンは少しの間、葵を見た。何も言わなかった。葵はもう一度オーバーハウを振った。
ハルトマンが口を開いた。
「剣を振ったことがあるか」
「……ないです」
短い沈黙があった。
「そうか」
それだけだった。ハルトマンはまた歩き始めた。
葵はその背中を見ながら、なんとなく落ち着かない気分になった。褒められたわけでも、咎められたわけでもない。ただ——見られた、という感覚だけが残った。
リースのときと、似ていた。
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演習が終わり、四人で廊下を歩いた。
「ハルトマン先生、やっぱり怖くない?」と颯が言った。「俺、最初に見たとき心臓止まるかと思った」
「厳しいけど、優しい人だよ」と葵は言った。
「わかるの?」
「なんとなく」
颯は少し考えてから「確かに」と頷いた。
茜は何も言わなかった。
セレンも黙って歩いていた。でも葵は、セレンが演習中ずっと周囲をよく見ていたことに気づいていた。
葵はそっと胸元に手を当てた。
手のひらに、木剣の感触がまだ残っている気がした。
——なんで体が動いたんだろう。
ライラから答えは、返ってこなかった。




