第4話 静かな隣人
三日目の朝、教室に入って、葵はすぐに気づいた。
一つ、席が空いている。
窓際から二番目、後方の席。三日間、そこに座っていた生徒だ。名前は知らなかった。話したこともない。ただ、毎朝そこにいた——という事実だけを、葵は覚えていた。黒っぽい長髪で、いつも少し背を丸めて座っていた。
颯が葵の隣に腰を下ろした。
「なあ、あの席のやつ、今日いないな」
「うん」
「風邪かな」
葵は何も言わなかった。
風邪、という言葉が、なぜかすとんと落ちなかった。理由はない。ただ——落ちなかった。
授業が始まった。アーデルは出欠を確認したが、その席については何も言わなかった。
普通に授業が進んだ。周りの生徒たちも、特に気にしている様子はなかった。颯はすでに前を向いていた。
葵だけが、少し気になっていた。空席が妙に静かだった。あるべきものがそこにない、という静けさ。
胸元でライラが、ほんのわずかに揺れた。
葵はそっと手を当てた。
——ライラも、感じてる。
でも何を感じているのかは、わからなかった。
午前中は契約説法の座学だった。
アーデルが黒板に「均衡の原則」と書いた。
「等価交換なき魔法はない。何かを得るなら、何かを差し出す」
葵はノートにその言葉を書き留めた。
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午後の練習場では、今日も属性ごとの初級防御魔法の個人練習だった。
昨日は光属性の防御魔法を練習した。同じように練習すべきだろうと教本を開いた。
昨日の感覚がまだ体に残っている。魔力の流れがどこを通るか、体が覚えている——そういう感じだ。
葵はまず詠唱ありで防御魔法を出した。問題なく展開できた。
次のページをめくる。中級の防御魔法——「ムルス・ルクス」。光の壁を多層化して強度を増す技術で、説明文には「単一魔法陣の確実な制御ができた者が次に習得する」と書かれていた。仮クラスの一年生が一週間目に試みる内容ではない。
葵はその詠唱文を読んだ。
——光よ、重なれ。ムルス・ルクス。
声に出してみた。
指先が熱を帯びた。前回より重い感触。でも——体が、知っている。
光の壁が広がった。薄い単層ではなく、重なり合った複数の膜が。
葵はそれをしばらく眺めた。
静かにもう一枚めくった。上級の防御魔法——「フォルティス・ルクス」。複数属性の圧力にも耐える強化障壁。備考欄に「二年生以上を推奨」とあった。
葵はその詠唱文を読んだ。
——光よ、砦となれ。フォルティス・ルクス。
発動した。
今度は上から圧力がかかるような感触があった。でも崩れなかった。分厚い光の障壁が、葵の前に静かに立っている。
練習場が、少し静かになった。
隣の生徒が振り返った。その向こうの生徒も。いくつかの視線が葵の方に向いていた。誰も声を出さなかった。ただ、見ていた。
葵は少し考えて、障壁を解いた。今度は詠唱なしで、もう一度「フォルティス・ルクス」をやってみた。
出た。
誰かが小さく息を呑む音がした。
葵はその視線に気づかないふりをして、静かに教本を閉じた。
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昼休み、葵は茜と食堂の端に座った。
颯は知り合いを作るのが早く、すでに別のテーブルで数人と話し込んでいる。葵は窓際の席に茜と並んで、特に話すでもなく食事を始めた。
大きな窓から海が見える。青く広がる海と、その向こうの空。
「隣、いい?」
声がした。
葵は顔を上げた。
そこに立っていたのは、セレンだった。
葵は頷いた。セレンは葵の向かいに静かに腰を下ろした。
茜がちらりとセレンを見た。それだけだった。
——不思議だ、と葵はぼんやり思った。
この学校の食堂は広い。席が空いているところはいくらでもある。
にもかかわらずセレンは、葵のいるテーブルを選んだ。出会ってまだ三日の、しかも言葉もほとんど交わしていない相手のところへ。
理由を聞こうとして、やめた。
——ライラ。
胸元の光は、温かかった。悪意はない。それはわかる。
でも——何かが、すっと腹の奥に落ちない感じがした。まるで計算式の答えが合っているのに、途中の式が見えないような。
葵はその感覚を、うまく言葉にできなかった。
会話はしばらくなかった。三人とも黙々と食べた。不思議と、その沈黙は居心地が悪くなかった。
しばらくして、セレンが口を開いた。
「セレン。私の名前」
「葵」
短い沈黙があった。
「ピクシーと契約してるんだよね。名前は?」
「ライラ」
——契約した日に、自分でそう名乗った。あの夏のことは今でも覚えている。
「ライラと、いつから一緒にいるの?」
「八歳の頃から」
セレンの目が、わずかに動いた。
「八年。長いね」
「そうかな。当たり前になってるから」
葵はそっと胸元に手を当てた。ライラの温かさが、そこにある。
「大事にしてるんだね」
セレンが静かに言った。問いかけではなく、確認するような口調だった。
葵は少し考えた。大事に、という言葉が少しむずがゆかった。大事にしている、というより——ずっと一緒にいる、という感覚に近い。
「うん、まあ……一緒にいるのが当たり前だから」
セレンは何も言わなかった。ただ、小さく頷いた。
「ずっと見てたでしょ、葵のこと。初日から」
茜が静かに言った。トレーから視線を上げないまま。責めているわけではない——ただ、確認している、という口調だった。
セレンは少し間を置いた。
「見てた」
否定しなかった。
「なんで?」
「……気になったから」
それだけだった。理由を明かす気はないらしい。でも葵は、それ以上聞かなかった。
「日本人?」とセレンが聞いた。
「両親が。僕はここで生まれた。アルカディア島——オールドクォーター」
セレンの目が少し動いた。
「オールドクォーター出身がここに来るのは珍しいね」
「らしいね」と葵は言った。「茜と、向こうにいる颯も。同じオールドクォーター出身」
茜が顔を上げた。セレンと目が合った。
二人は少し見つめ合った。どちらも何も言わなかった。それから茜は視線をトレーに戻した。
「昨日の練習」と葵は言った。「風の防御魔法、一発で出してたね」
セレンは少し間を置いた。
「見てたんだ」
「うん。周りがまだ試行錯誤してるのに」
セレンは何も言わなかった。否定も肯定もしない。
「学園契約を狙ってるの?」
セレンは少し間を置いてから、静かに答えた。
「……どうかな」
はっきりしない答えだった。でも葵は、それが嘘ではないと感じた。本当に決めかねているのか、それとも別の理由があるのか——どちらかはわからない。
葵は胸元のライラの気配を確かめた。悪意はない。でも——何かを隠している。それだけはわかった。
ただ、胸元でライラの光が、ぽわりと温かく輝いた。
名前を呼ばれたのが、嬉しかったのかもしれない。
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午後の授業が終わり、三人で廊下を歩いた。
「セレンって、どこ出身なの?」と颯が聞いた。いつの間にか合流していた。
「ウェールズ」とセレンは答えた。それ以上は言わなかった。
「へえ。一人で来たの?」
「そう」
「すごいな。俺、葵と茜がいなかったら絶対不安だったと思う」
セレンは少し考えてから、静かに言った。
「一人の方が楽なこともある」
颯はそれを聞いて、少し黙った。それから「そっか」と言った。いつもの明るさが少しだけトーンを落とした声だった。
葵はその横顔を見た。颯は時々こういう顔をする。何かをちゃんと受け取ったときの顔だ。
四人で並んで廊下を歩いた。
丘の上の校舎から、島が一望できる廊下の窓を通り過ぎながら。
葵はそっと胸元に手を当てた。
ライラの温かさが、そこにあった。




