第3話 詠唱
二日目、午前中は座学だった。
数学、世界史——内容自体は普通の授業と大差ない。ただ、世界史の教科書には三十年前の大戦争の記述が丸々一章を占めていて、葵は思わずそのページに目を留めた。神と悪魔が現世に現れ、人間と入り乱れて戦った時代。魔法が「伝説」から「現実」に引き戻された時代。
自分が生まれる前の話だ。でも、なぜか遠い話という気がしない。
「次のページ」
教師の声で、葵は視線を戻した。
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午後、仮クラスの生徒たちは屋外の練習場に集められた。
中庭に隣接した広い空間で、地面には魔法陣の補助線が引かれている。アーデルが前に立ち、淡々と説明を始めた。
「今日は初級防御魔法の発動練習を行う。契約神魔がいる者は連携を意識すること。いない者は自身の魔力の流れを確認することから始めなさい」
各自が散らばり、練習が始まった。
葵は少し離れた場所に立ち、ライラの気配を確かめた。胸元で光がぽわりと揺れた。
「ライラ、僕にできるかな」
「大丈夫」とライラは言った。「魔力を流すだけ。私が一緒にいるから」
周りを見ると、すでに詠唱を始めている生徒がいた。短いラテン語の言葉が、練習場に低く響く。いくつかの光や風や水の膜が、ぽっと生まれては揺れた。
葵はまず自分の属性が何なのかを考えた。ライラが使う魔法はおそらく光。自分も火・光属性に適性がありそうだ。
葵は教本を開き、光属性の初級防御魔法の詠唱文を確認した。
——光よ、我が前に立て。スクトゥム・ルクス。
声に出した。短く、でもはっきりと。
指先に、熱がこもった。
次の瞬間、葵の前に薄い光の膜が広がった。
「……出た」
葵は少し呆然とした。初めて魔法を使ったはずなのに、体の感覚がなんとなく馴染んでいる。魔力の流れが、どこを通ればいいかを体が知っているような——。
気のせいかもしれない。でも、そういう感覚だった。
防御魔法を一度解いて、もう一度やってみた。また出た。同じように、迷わず。
葵はそのまま、少し考えた。
詠唱するとき、言葉が先に来て、その後で魔力が動いた。でも——言葉がなくても、魔力は動こうとしていた気がした。
試してみようか、と思った。
葵は詠唱文を口に出さなかった。ただ、防御魔法を発動するときの感覚を頭の中でなぞった。魔力の流れを——意識だけで、動かした。
光の膜が、広がった。
詠唱なしで。
葵はしばらく、自分の前に広がる光の膜を見つめた。
ライラが、葵の肩のあたりで静かに揺れた。葵には、ライラも少し驚いているように感じた。
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アーデルが練習場を巡回しながら生徒を確認していた。葵のそばを通りかかったとき、足が止まった。
「小春」
「はい」
「今、何をした」
葵は正直に答えた。
「詠唱なしで、もう一度やってみました」
アーデルは少しの間、葵を見た。何かを計算しているような目だった。
「もう一度やれるか」
「……たぶん」
葵は再び意識を集中させ、詠唱なしで光の膜を展開した。
アーデルは少し間を置いた。それから、何も言わなかった。手元の端末に何かを書き留めて、次の生徒のところへ歩いていった。
その背中を見ながら、葵はなんとなく、妙な気分になった。褒められたわけでも、注意されたわけでもない。ただ、記録された——という感覚だけが残った。
周りを見ると、風属性の生徒たちが「スクトゥム・ウェンティ」を唱えながら気流の膜を作ろうとしていた。何度か試みては霧散して、また唱え直す。なかなか安定しない様子だ。
練習場の端で、一人の生徒が静かに風の防御魔法を試みていた。
初日に斜め前の席に座っていた生徒だった。自己紹介のとき、セレンと名乗っていた気がする。
葵が見ていると、生徒は短く何かを呟いた。詠唱だろうか。次の瞬間、生徒の前に薄い気流の膜が広がった。
一発で。
周りの風属性の生徒たちがまだ試行錯誤している中で、それだけ鮮やかに成功させた。葵はふと思い出した。昨日の申告で、あの生徒は手を挙げていなかった。契約神魔はいない、ということになっている。——本当にいないのか、それとも、いるけれど隠しているのか。
葵はしばらくそれを見ていた。
——この子も、何かある。
胸元のライラが、そっと揺れた。悪意はない。でも——やはり、何かを隠している。
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練習が終わり、生徒たちが教室に戻る流れの中で、颯が葵の隣に来た。
「どうだった? 魔法、出た?」
「うん、出た」
「俺も出た! 風の魔力がわーって広がる感じで、なんか気持ちよかった。お前は?」
「普通に出た」
「普通に、って……なんか淡白だな」
茜は少し後ろを歩いていた。葵が振り返ると、茜はいつもの静かな顔で前を見ていた。
「茜は?」
「問題なかった」
「そっか」
それだけだった。茜はそれ以上何も言わなかった。
葵は前を向いた。
——詠唱なしで出た、ということを、颯にも茜にも言わなかった。
理由はわからない。ただ、今はまだ、自分の中だけに留めておきたかった。
「ライラ」
廊下を歩きながら、葵は胸元に小声で言った。
「なに」
「僕って、普通じゃないのかな」
ライラはしばらく黙っていた。それから、静かに言った。
「普通かどうかは知らない。でも——葵は葵だよ」
答えになっていない気もした。
でも葵は、それでいいと思った。
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家に帰ってからも、葵はしばらく眠れなかった。
仰向けのまま、天井を見ていた。詠唱なしで光の膜が広がった感触が、指先にまだ残っていた。
眠りに落ちたのは、いつ頃だったかわからない。
夢を見た。
炎だった。
街が燃えていた。コンクリートの瓦礫、赤黒い空。葵はその夢の中に立っていて、でも——自分がそこにいることを不思議だと思わなかった。
ここは、知っている。
そう感じた。
ただ感じただけで、理由はなかった。生まれる前に燃えた街を、葵が知っているはずがない。
でも体が、知っていた。
目が覚めたとき、内容はほとんど消えていた。炎の色だけが、まぶたの裏にかすかに残っていた。
葵はベッドの中でしばらく動かなかった。
——また、あの夢だ。
「また」、という言葉を使ったとき、葵は気づいた。
今まで夢の内容を覚えていないと思っていた。でも「また」と感じた。
つまり覚えていないのではなく——忘れさせられているのかもしれない。
葵はそっと胸元に手を当てた。
ライラは静かだった。眠っているのかもしれない。
「ライラ」と小さく呼んだ。
返事はなかった。
でも——光が、わずかに揺れた。まるで夢の中で何かを聞いた、というように。
葵は天井を見たまま、また目を閉じた。
次に目が覚めたとき、体は重かった。
まるで、一晩中走り回っていたかのように。
——走り回っていた、のだとしたら。
誰が、走らせていたのだろう。
答えは出なかった。ただ、その問いだけが、朝の光の中にひっそりと残った。




