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第1話 日常という檻

燃えていた。


街が、燃えていた。


赤黒い空の下、コンクリートの瓦礫が地層のように積み重なっている。崩れ落ちた高層棟の骨だけが、煤の中で歪んだ墓標のように立ち並んでいた。炎の粉が風に舞い、遠くで何かが沈み落ちる音がする。


ここがどこかは、わからなかった。

かつて街であったもの、とだけ言えた。


葵は背中を壁に貼り付け、息を整えた。


また来た、と思った。


視界の端に、黒いもやが揺れた。目だけが赤く光っている。瓦礫の影から、滲み出るように湧いてくる。路地の左から三体、右から二体。頭上の崩れた梁の上にも、二体。


八体。


「多い」


「わかってる」


葵の肩に、小さな光が宿った。


右手を前に突き出した。指先から青白い光が迸り、右側の二体を同時に貫く。光のもやが霧散した。


頭上から何かが落ちてきた。


やせ細った体、黒い肌、赤く光る二つの目。人の形をしているが、人ではなかった。古い言葉で呼ぶならば、餓鬼。あるいは、鵺。あるいは、名のないもの——何と呼んでも、当たっていた。


葵は身を捻った。爪が肩口を掠める。鋭い痛みが走った。夢だというのに、と思った。


ライラが弾けた。光の粒が散弾のように広がり、頭上の二体を吹き飛ばす。


「葵、左」


振り返る前に体が動いていた。

左の先頭に光の矢を叩き込む。残りの二体が別々の角度から来た。葵は低く屈んだ。爪が頭上で空振りした。すれ違いざまに両手から光を放つ。二体が同時に霧散した。


息をつく間もなかった。


(なぜ体が動くのか。)


考える暇はなかった。


廃墟の暗がりから、呻きが滲み出してきた。

怨念が言葉になりきれないような、低く重い音であった。一つ、二つ、四つ。重なり合う。地の底に堆積した古い嘆きが、形を求めて湧き上がってくるようだった。

青白い光の玉が、闇の中をゆらゆらと泳いでいる。

数え切れない。


闇が来た。


巨大な塊が、路地ごと飲み込むように迫ってくる。一個の獣でも、群でもなかった。滅びそのものが、形を持って動いていた。


その瞬間、背後で瓦礫が動いた。


潜んでいた。ずっと、そこに。やせ細った体が這い出して、首筋へ牙を剥く。


葵は首を引いた。


間に合わなかった。


牙が、肩に食い込んだ。


そこから何かが流れ込んでくる。体の奥まで焼けるような激痛が肩から首へ、頭へと広がった。視界が揺れた。前には闇が来ている。


「葵っ」


震える手を、それでも前に突き出した。動かせる。まだ動く。手のひらを、開いた。


光の壁が展開した。


闇が壁に叩きつかった。衝撃が足元まで伝わる。壁が軋む。ひびが入る。葵の足が一歩後退した。もう一歩。肩の痛みが脈打つ。


崩れなかった。


闇が、霧散した。


膝をつきそうになって、堪えた。肩が熱い。毒が、体の中で暴れている。


「葵、じっとして」


ライラが肩に触れた。温かさが傷口から滲み込んでくる。じわじわと、毒が引いていく。


葵はそれだけを頼りに、息を整えた。


「……ありがとう」


ありがとう、と葵は本当に思った。

ライラがいなかったら、ここで終わっていた。


ライラは何も言わなかった。光が、揺れた。


ゆっくりと立ち上がった。


まだいる。遠くで黒いもやが揺れていた。光の玉の残骸が、暗がりの中でまだ蠢いている。


葵は右手を掲げた。


詠唱はしなかった。光を、全部ここに、とだけ思った。

指先が、熱くなった。


白い光が出た。


廃墟が染まった。黒いもやが、やせ細った影が、光の玉が、消えた。

焼かれたのではなかった。

ただ、光の前にあることを許されなかった、というだけのことだった。


静寂。


葵は手のひらを見た。熱さはもうなかった。肩の痛みだけが、かすかに残っていた。


「終わった?」


「……終わった」


息を吐いた。何体いたのかも覚えていない。


葵は少し息を整えてから、ライラに言った。


「ライラ」


「なに」


「僕、何度もここに来てる気がする。ライラと一緒に」


だから体が動くのだと、葵は思った。


体に染みついたような魔法もそうだ。何度もここで繰り返してきたから。


「今まで忘れてたってことは、今回も、忘れるんだと思う」


ライラが、震えた。


葵はその震えを見た。


自分の中には出てこない何かが、ライラの中にあった。

そして、炎の向こうから、誰かが見ていたことに気付いた。


冷たくはなかった。温かいとも言えなかった。ただ、ずっと前からそこにいたような——名前を知っているという確信だけが、白い光の中に残った。


(たぶん、あれがこの夢の原因だ。)


そこまで考えたとき、世界が白くなった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


葵は、目を開けた。


白い天井。壁のホログラムパネルが、静かに今日の日付を映し出している。


夢を見ていた気がする。でも内容は覚えていなかった。

ただ、体が重かった。


左肩が、わずかに痛む気がした。何の痛みかは分からなかった。手を当てても、傷はなかった。


腕を上げてみた。鉛が入っているようだった。膝も同じだった。足の裏に、長く走った後のような熱が残っている。


シーツの皺を見た。確かに乱れていた。寝相が悪かったとは思えないほど、深く乱れていた。


この重さは、ずっと前からある。物心ついた頃から、朝だけが重かった。医者にかかったこともある。睡眠も、血液も、脳も、異常なしと言われた。それでも重さは消えなかった。


魔法かもしれない、と思ったのはいつ頃だったか。


一般の人間が魔法の力を持つことは滅多にない。持っていても、微弱な力が精々だ。まさか自分に魔法学校の入学資格があるとは思っていなかった。


魔法の才能を測定する適性検査で、検査官がひどく困惑した顔をしていたことだけを、葵は覚えていた。深青緑のジャケットの袖が、機械の上で何度も揺れていた。


「——測定不能」


そう言って、検査官は機械を何度も叩き直した。


学園に行けば、何かわかるかもしれない。それだけの理由で入学を決めた。それ以上の理由は、葵にはなかった。


ベッドから起き上がり、制服に腕を通した。


「葵ー! また寝坊してるだろ!」


窓の外から声が飛んできた。


壁のパネルを見る。


——推奨起床時刻より十四分超過。


「うん、わかってる……」


窓を開けると、眼下の路地に颯が立っていた。いつもと変わらない笑顔で、大きく手を振っている。黒髪が朝の風に揺れていた。


颯の顔を見て、葵は少し笑った。

颯がいる朝は、いつも少し楽だった。


「お前、また推奨起床時刻無視してるのかよ。無視すんの気持ち悪くね?」


「もう、うるさいな」


颯は笑いながら、それだけ言った。悪意はない。責めてもいない。ただ、当たり前のように言った。


葵は窓の外に目を向けた。


感情認識カメラの丸いレンズが、路地の角でこちらを向いていた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


家を出ると、颯が空を見るような目で丘の方へ顎をしゃくった。葵より頭ふたつ分、背が高い。


「あそこに、世界中から来るんだろ」


「うん」


「俺たちが入れたの、ほんと意味わからん」


葵にもわからなかった。


オールドクォーター。島の中心部と港の間に広がる、避難民の子孫たちが築いた住宅街を、葵たちはそう呼んでいた。子どもの頃から「向こう側」と感じてきた場所が、丘の上にある。向こう側に近づくなという空気が、言葉なしに伝わってくる。誰も言わない。だが、確かにあった。


颯が、葵の顔を覗き込んだ。


「お前、また夢でも見たのか」


「うん。覚えてないけど」


「いつもだな」


颯はそれだけ言って、また前を向いた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


角を曲がると、茜が待っていた。


葵の頭が、茜の顎の少し下にあった。


「葵……遅いよ」


「ごめんね、少し寝坊した」


「責めてるんじゃないの。ただ、心配しただけ」


茜が、葵の指に自分の指を絡めた。当たり前のような動作だった。葵もそれに応じた。


茜の指は、少し冷たかった。


「葵の手、あったかいね」


葵は何も答えなかった。茜の声には、独特の間があった。


葵の胸元で、ライラは静かにしていた。普段通りの温かさが、そこにあった。


「お前ら、相変わらずだな」


颯が笑った。


茜は颯をちらりと見て、視線を前に戻した。


三人でモノレールの駅へ向かった。


世界中からエリートが集まるというのに、葵のそばにいるのは、幼い頃から知っている顔たちだった。

不思議だ、と思った。

それから、葵は少し嬉しかった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


モノレールを降りると、丘の上にアカデミア・アルカナが見えた。


石造りの校舎と、ガラスと魔法陣の組み合わさった施設が混在している。丘の上から島全体と海が見渡せた。


葵は門の前で立ち止まり、空を見上げた。


青く広がる海の向こうに、かつて戦場だった空がある。三十年前、人間と神と悪魔が入り乱れて戦った空。葵にはその記憶はない。生まれる前のことだ。


それでも、その空を見上げると、胸の奥がかすかに痛んだ。


「……なんでだろう」


葵は呟いた。


胸元で、ライラが小さく身じろぎした。


葵はそっと手を当てた。八年間、ずっとそこにいる。

ライラがそこにいることが、葵にとっては当たり前で、大切なことだった。


「ねえ、ライラ」


手のひらの下が、ぽわりと温かくなった。


「ここに来たのは、正解だったのかな」


ライラは答えなかった。


ただ、温かさだけが手のひらにあった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


入学式は、大ホールで行われた。


世界各国から集まった生徒たちが、思い思いの言語で囁き合っている。翻訳デバイスが自動で変換していくが、音としての多様さは消えない。葵は颯と並んで席に座った。茜は少し離れた列にいた。


壇上に、白髪の老人が立った。


学園長だった。やや小柄な体に、皺の刻まれた顔。目だけが奇妙に若かった。何かを長く見てきた目だった。


「ようこそ、アカデミア・アルカナへ」


声は低く、静かだった。体の大きさには釣り合わないほど、ホール全体によく通った。


「君たちはここで、魔法と科学の融合を学ぶ。神や悪魔との契約の理論を学ぶ。そして——」


老人が言葉を切った。視線を、ゆっくりと会場に巡らせた。


「この世界の本当の姿を、学ぶことになるだろう」


老人の視線が、一瞬だけ葵の方向に向いた気がした。


気のせいだったかもしれない。


葵は視線を、壇上から外した。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


入学式の後、仮クラスの発表があった。


本クラスの確定は一ヶ月後、最初の実戦演習の成績で決まる。今は全員が仮クラスに振り分けられているだけだ。


葵の仮クラスには、颯がいた。茜もいた。


葵は空いている席に腰を下ろした。


斜め前の席に、ひとり座っていた。波打った長い黒髪が、肩から胸元へ流れている。背筋がまっすぐで、机の上で組まれた指は、白く、少しだけ細い。


その生徒と、一瞬目が合った。


灰がかった青緑の目。


静かな目をしていた。感情が読みにくい。


葵は、そっと視線を外した。


胸元でライラが、わずかに揺れた。


今日が、始まりだった。

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