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第0話 血の魔法陣

午後の光が、白く焼けていた。


砂は乾いていた。踏むたびに、足の裏に細かい粒が入る。

日が高い。風はなかった。

観客席の方から、人の気配だけが届いてくる。声ではない。気配だった。

葵は、自分の影が短くなっているのに気づいた。

それから、足元の砂に視線を落とした。


砕けた大斧と、半ばから断ち切られたロングソードが、近くに落ちている。

大斧は男子生徒の足元に。ロングソードは、葵の足元に。

影が、二つ、砂の上で交わらずに伸びていた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


観客席の最前列。


中央に、黒髪のストレートロングの少女が、腕を組んで座っていた。

耳元で、赤いタッセルの飾りが揺れている。

胸元には金色の蝶ネクタイ。

背筋がまっすぐで、その一人だけが、もう試合の結果を知っているような顔をしていた。


両脇に、二人。

一人は黒髪を高く一つに結っていた。結び目に組紐。木刀を立てたまま動かない。

もう一人は髪を低くまとめ、結び目に梵字を刻んだ簪を挿していた。


三人とも、葵を見ていた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


観客席のどこかで、声がした。


「抽選、おかしくないか」


「Sクラスとぶつかるのありえないだろ」


「ピクシー使いだぜ、よくここまで」


別の声が、低く笑った。


「ピクシー使いのゴミが、よくもSクラス相手にここまでやれたものだな」


葵は息を整えた。


声は届いている。届いてはいたが、特に何も感じなかった。


仮クラスの試合がSクラスの相手とぶつかるのは、本来ない。

誰かが抽選をいじった。それは、葵にもわかっていた。


異議を申し立てれば、止まる試合だった。


葵は、そうしようと思わなかった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


目の前に、大柄な男子生徒。

Sクラスの証、金のネクタイが砂埃の中で光を返している。


男子生徒は砕けた大斧を一瞥した。靴の先で、軽く砂をかけた。動きに、苛立ちはなかった。


それから、葵を見た。


「……剣の腕は、互角だな」


葵はそれを一度だけ聞いた。


「だが、神魔はどうかな?」


右手が、上がる。


砂が、黒く沈んだ。


地の底から、暗いものが立ち上がる。

それは形を持たぬまま砂を侵し、ゆっくりと輪郭を結んだ。

黒い犬であった。頭が、三つ。

一頭は東を、一頭は西を、一頭は地の底を見ている。

低く唸る。声の低さに、空気が震えた。

冥府の門に繋がれていたものが、ここに繋がれている。そのような気配があった。


ライラが、葵の胸元から飛び出した。


(葵、こいつ強い。 私も出る)


光が、勢いよく胸元から出る。


男子生徒の目は、すでにそこに向いていた。


一頭が、ライラへ動いた。


「ライラ——」


葵は声を上げた。


間に合わなかった。


顎が、ライラを捕らえた。力で押さえ込む形だった。ライラが身をよじる。逃げられない。


葵の体が、そちらへ向く。


残りの二頭が、葵に巻きついた。腕と胴を締め付ける。闇が、固い。


動かない。


「降参しろ」


男子生徒が、静かに言った。


声は冷たかった。三頭はライラを噛み砕かない。ただ拘束しているだけだった。


葵はライラを見た。


ライラが葵を見ている。


光が、引いた。一瞬だけ、暗くなった。


ライラが、苦しんでいる。

それだけは、はっきりわかった。


(葵、描いて)


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


右の手のひらが、痛んだ。


さっきの剣撃で切れた傷だった。血が、じわりと滲んでいる。


葵は、その血を見た。


赤かった。


砂が白いから、よけいに赤かった。

不思議だ、と思った。なぜ赤いのか、ではなかった。

赤い、ということだけが、視界にあった。


拘束の中で、指だけが動いた。砂の上に、血で線を引いた。


細く。

ゆっくりと。

簡単な形だった。

なぜこれを引けば状況が変わると思ったのか、葵にはわからなかった。

ただ、引いた。


ライラと契約を結んだときの、魔法陣。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


砂の上の線が、光った。


幼い葵が崖で線を引いた日と、同じ光だった。

そのとき葵は、自分が何をするのかを知らなかった。今もまた、知らずに引いている。

ただ、応えるものがあった。


男子生徒の目が、変わった。


「なに——」


光の中から、小さな影。


水色の翼。短い白い髪。緑の目。ライラより少し小さい。

光の粒のような気配は、同じだった。


ピクシーだ。


そのピクシーが、男子生徒の胸元に、光の弾を叩きつけた。


至近距離。


乾いた音。布の裂ける音が続いた。


男子生徒の体が、後ろに弾かれる。拘束がほどけた。


葵は腕を引いた。


ライラが顎から飛び出る。胸元に、戻ってきた。


葵は男子生徒の正面に立った。断ち切られたロングソードの切っ先を、向ける。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


男子生徒は、すぐには立ち上がらなかった。


砂についた手で、上体を起こす。


その瞬間、空気が変わった。


三頭の犬が、低く唸った。一頭が地を蹴ろうとする。男子生徒の右手が、もう一度、上がりかけた。


葵の剣の切っ先が、わずかに動いた。


男子生徒の目に、戦意がある。


だが、止まった。


男子生徒の視線が、自分の胸元に落ちた。


シャツが、肩から胸の下まで斜めに裂けていた。

ジャケットも、共に。

胸の真ん中から下が露わになっている。

鍛え上げた胸筋と腹筋が、午後の光の中で晒されていた。


男子生徒は、しばらくそれを見た。

右手が、ゆっくりと下りた。

三頭が、姿勢を解いた。砂の上の闇が、薄れていく。

男子生徒は両手を、軽く上げた。


「……ここまでだ」


声は、さっきより低かった。


「半裸で剣を交えるのは——私の品位に関わる」


その口元が、わずかに笑っていた。負け惜しみのようには、聞こえなかった。


審判の声が、静かに落ちた。


「小春葵の勝利」


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


演習場が、一拍だけ静かになった。


葵は剣の切っ先を下ろした。


ライラが胸元に戻ってきた。光が、速く瞬いている。


葵はそっと手を当てた。

よかった、と思った。

ライラが戻ってきたこと。それだけが、葵にとって意味のあることだった。


それから、ざわめきが広がった。


「は?」


「今——」


「待て、契約神魔は一人一体のはずだろう!」


「不正だ! あれは不正じゃないのか!」


「ピクシーが二体! 二体だぞ!」


声が、あちこちから来た。


葵は演習場の砂を見た。血で引いた魔法陣の跡が、まだそこに残っていた。

赤と、白。

誰かがすぐに踏み消すだろう、と思った。

そう思いながら、葵自身は、踏まなかった。


ライラが、胸元でかすかに動いた。


悪意は、感じない。ただ、別の方向に注意が向いている。


葵は観客席の最前列に目を向けた。


ストレートロングの少女が、葵を見ていた。腕を組んだまま、口角だけがわずかに上がっている。耳元の赤い飾りが、わずかに揺れた。


高く結ったポニーテールの少女は、木刀を立てたまま、何も言わなかった。


ゆるくまとめた髪の少女だけが、葵に向かって小さく頷いた。簪の梵字が、午後の光の中で淡く反射した。


葵は視線を戻した。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


(なぜ、降参しなかったのか。)


降参すれば、終わっていた。ライラも、あれ以上捕まっていなかった。


そもそも、戦う必要もなかった。


異議を申し立てれば、止まる試合だった。


それなのに、葵はそのどちらもしなかった。


(——なぜ、しなかったのか。)


自分でも、わからなかった。


そして、なぜあの魔法陣を引けば状況が変わると思ったのか。


確信は、あった。根拠は、どこにもなかった。


ライラが、胸元でかすかに揺れた。


葵は答えを探して、やめた。


今は、関係なかった。


勝った、と思った。

それより、ライラが無事だったことが、嬉しかった。

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