第215話 黒い噂
昇降機は、昨日と同じ順番で組み上がっていった。
番号を合わせ、留め具を二重に確かめ、予備を二組、縄の脇に並べる。葵は言われる前に次の部品を渡した。マグヌスは受け取って、一度だけ葵の顔を見た。
「覚えたか」
「はい」
それきり何も言わずに工具を回した。
縁から下を覗くと、壁の根元から少し離れたところに、灰色の塊が一つあった。装置の前で、動かない。距離があって、大きさは分からなかった。人の背丈ほどにも、家の高さほどにも見える。
「あれが、そうですか」
「そうだ。まだ固まりきってねえ。触るのは日が上がってからだ」
フィオナが葵の横から身を乗り出し、しばらく塊を見ていた。
「お土産で売ってたトロールとは、ずいぶん違いますね」
「土産のは森のやつだろ。小せえ方だ」
マグヌスは下を見ずに言った。
「あれとは別もんだ。同じ名前で呼ぶのが間違ってるくらいにな。石になったのを近くで見りゃ分かる」
「……そうなのですか」
フィオナはもう一度だけ塊を見て、身を引いた。葵は縁に手をかけたまま、まだ見ていた。灰色は、壁の色と同じだった。
「昼は、見張らなくていいんですか」
葵は縄を繰りながら訊いた。
「見張るもんがねえ。誰が立つんだ、こんな寒いとこに」
マグヌスは工具を持ち替えた。それから思い出したように付け足した。
「ドラウグルは壁を登れねえんだよ。登れねえから、装置の前でべったり張り付いてる。それを昼に剥がす。それだけだ。そっち持て」
葵は縄の端を持った。マグヌスが結び目を作る。
「夜は別だ。トロールのやつら、物を投げるんだよ」
「物ですか」
マグヌスは結び目を作りながら、顎で壁の外を示した。
「見ろ。百歩先まで石ころ一つねえだろ。壁が出来たばっかの頃に、外の岩を砕いて木を切って、薬撒いて草も枯らした。投げる物を残すなってな。あの頃は毎日それだった」
「じゃあ、何を投げるんですか」
「そこにあるもんだ。壁に張り付いてるドラウグル。あとは連れてきた小せえトロール。昔は岩や木が壁内に落ちてきてた」
マグヌスは縄を引いて、一度だけ壁の外を見た。
「今は違う。あの辺に転がってる灰色の丸いやつ、あれは岩じゃねえ。柔らけえ。持ち上げりゃ上に知らせが行く。夜番はそれで、投げる前に腕を撃つ。会社が作ったもんだが、ありゃ良くできてる」
葵は壁の外を見た。裸地のところどころに、丸い灰色が転がっている。言われなければ岩だった。
葵は壁の外の装置を見た。壁の根元から少し離れて、灰色の塊の向こうに、尖った屋根の建物が立っている。壁と同じ色で、窓はなく、屋根の先だけが空に向いていた。
「あの建物は、何ですか」
「装置だ。教会に見えるだろ」
「はい」
「なんでか知らねえが、あいつら教会を見ると石を投げるんだ。昔からだ。牧師に訊いてみろ、俺は知らねえ。」
(なんで教会に石を投げるんだろう。)
マグヌスが知らないと言ったことをマグヌスに訊いても仕方がないので、葵はそれ以上訊かなかった。
フィオナが装置と塊を見比べていた。
「小さいトロールも、来るのですか。」
「小さいのは壁に近寄って来ねえ。装置が呼ぶのは大物だけだ」
「可愛いのでしょうか」
「知らねえよ。見たことねえって言ったろ」
マグヌスは笑わずに言って、縄を引いた。
「でかいのが小せえのを投げ込むことがある。石と一緒にな。そういうときは外へ帰す決まりだ。捕まえても売れねえし、街の連中が嫌がる。帰す方が安いんだと。まあ、俺は見たことねえけどな。三十年ここにいて一度もねえ」
「帰す」
葵は頷いた。フィオナが「そうですか」と言って、少し安心したような息を吐いた。ライラは何も言わなかった。
昇降機の縄が風で壁に当たって鳴り、マグヌスは縄を引き寄せて結び目を確かめてから、次の部品を葵に渡した。
昇降機の脚が、四本とも壁の縁に立った。マグヌスは一本ずつ蹴って確かめ、動かないのを見てから、縄を通し始めた。
「捕まえた神魔は、どうなるんですか」
葵は縄の反対側を持ちながら訊いた。マグヌスは手を止めずに、横目で葵を見た。
「お前、まだここに入る気でいるのか」
「……はい」
「昨日、お前を外環に追いやった会社だぞ」
「はい」
マグヌスは縄を滑車に通し、しばらく何も言わなかった。それから、昇降機の話をしているときと同じ声で言った。
「教えてやる。昨日お前が洗って札を付けたやつはな。あの後、教会に持ってって祝福してもらう。匂いが漏れねえ服を着せて、売る。契約神魔としてな。うちの社員で契約してるやつもいる。ヤンの野郎もそうだ」
葵は頷いた。資材置き場の裏で見た黒い服の兵を思い出したが、口には出さなかった。
「祝福って、教会がするんですか」
「研究所ってのがあって、そこでやるんだと。俺は見たことねえ」
滑車を一つ締め、次へ移った。
「研究所ってのはな、世界中から素材だの生きた悪魔だのを集めてるって話だ。何に使ってるかは誰も知らねえ。知ってるやつは外環にはいねえ」
「研究所というのは、船でしか入れない、海沿いの建物ですか」
マグヌスの手が止まった。
「……見たのか」
「土曜に。対岸から見えました」
「ああ。あれだ」
手が、また動き出した。
「海からしか入れねえ。陸側は壁だ。俺らは近づいたこともねえし、近づく用もねえ」
同じ岸の対岸へ、車で行けるのに船で運ぶ荷物を、葵は土曜に見ていた。何を運んでいたのかは分からなかった。今も分からない、人造神魔に関する何かがあるのだろうか。
「何やってるかは知らねえって言ったがな」
マグヌスは最後の滑車を締めた。
「ろくでもねえことに決まってる。海からしか入れねえ建物で、生きた悪魔を集めて、まともなことをする会社があるか。俺は見たことねえ。だからって何ができるわけでもねえが」
締め終えた工具を放り、立ち上がって腰を伸ばした。壁の上の風が、その拍子に強くなった。
「観光なら大歓迎だ。街はきれいだし、飯もうまい。母ちゃんの店もある。だが、就職はやめとけ」
葵を見た。
「二度目だぞ、言うのは」
「はい」
葵はそう答えた。マグヌスは何か言いかけて、やめて、昇降機の縄を引いた。
「あの人」
ライラの声が、頭の中で鳴った。
「本気で言ってる」
「うん」
葵は縄を持ったまま答えた。ライラはそれ以上言わなかった。フィオナの胸の間で、光は弱くならなかった。
昇降機の縄が張り、籠が壁の縁で一度揺れて止まる。
「降りるのは昨日と同じ組だ。石になり切るまで触るなよ。触ったやつは今日の賭けの負けだ」
笑い声が上がり、誰かが「何に賭けてんだよ」と言った。葵は籠の縁に手をかけ、フィオナはその隣に立った。
その時、声が下から来た。
壁沿いの道を、人が走ってくる。今朝の年寄りだった。棒を持ったまま、走れる足ではないのに走っていて、棒の先で地面を叩く音の方が、声より先に届いた。
「悪魔だ」
息が続かず、途中で切れた。
「悪魔が出た。街ん中だ」
笑い声が、止まった。
葵はマグヌスを見た。
マグヌスの顔が、変わっていた。さっきまで賭けの話をしていた男の顔ではなかった。何に変わったのかは、葵には言えなかった。ただ、別の人の顔だった。
「街だ。全員、行くぞ」
工具を放り、ヘルメットを掴んだ。それから昇降機を振り返り、近くの二人を指した。
「お前とお前は残れ。籠を上げて縄を外せ。外したら来い。壁に何も残すな」
二人は返事もせずに縄に取りついた。誰も訊き返さなかった。残りの男たちは階段へ向かって走り出し、籠を縁の上へ引き上げる音がその背中を追った。
葵は何も言わずに階段へ向かった。フィオナが半歩前に出た。
「葵殿、後ろに」
「うん」
そう答えて、葵はフィオナの半歩後ろを降りた。ライラは何も言わなかった。
階段の下で、年寄りが棒に寄りかかって息をしていた。マグヌスがその肩を掴み、何かを短く訊いた。年寄りは道の先を指した。
マグヌスは頷いて走り、班がそれに続いた。
壁の下の灰色の塊は、誰にも見られないまま、日の当たる方から白くなり始めていた。




