第214話 棺人
宿から兵舎までの道は、壁に沿っていた。
夜のうちに凍ったらしく、靴の裏で薄い氷の割れる音がする。空はまだ暗く、日の出まで一時間近くあって、見えるのは壁の上に一列に並んだ灯りだけだった。灯りの下に、立っている影が等間隔にある。動かない。夜の当番だろう、と葵は思って、それきり上を見なかった。
壁の根元に、人が一人いた。厚い上着を着た年寄りで、長い棒の先で壁の下の穴を突いている。氷の欠片が落ちて、足元に溜まった。葵たちの通るあいだも顔を上げず、次の穴へ移って、また突いた。
「おはようございます」
葵が言うと、棒の手が一度止まり、小さく頷いてから、また動いた。
兵舎の前には、男たちが先に来ていた。誰かが咳をし、誰かは端末の火で煙草を点け、三秒かけて丁寧に出るその火をマグヌスは横目で見て舌打ちした。賭けの続きをしている声もある。火曜に賭けた男はまだ機嫌よく、今日は何に賭けるかを聞いて回っていた。
「おはようございます」
「おう。着ろ」
戦闘服は、壁際のラックに一着ずつ吊られていた。扉を開けると、昨日の匂いはしなかった。葵は鼻を近づけてもう一度確かめ、それから防寒着を脱いで袖を通した。
「匂い、しねえだろ」
隣の扉を開けていた男が言った。
「ラックだけ今年替わったんだ。前のも脱臭は付いてたが弱くてな。一冬たっても抜けなかった。運がいいぞ、坊主」
「そうなんですか」
「ああ。服はそのまま吊るせる。服の方は、もうこれだけどな」
男は自分の服の肘を摘まんで見せ、笑って引っ張り出した。
フィオナも隣で同じものを着た。今朝は鎧ではなく、葵と同じ作業着に厚い上着を重ねて来ていて、脱いだ上着を畳んで棚に置く手つきだけが昨日と違った。ライラは襟から出て、フィオナの胸の間へ移る。昨日から、そこが定位置になっていた。
ヘルメットを被ると、視界の端に文字が並んだ。昨日初めて見たものと同じで、今日はもう驚かなかった。上着の内側の端末は、昨夜からまだ何かを描き続けている。
「あの人」
ライラの声は、葵の頭の中だけで鳴る。
「まだ、賭けのこと、考えてる」
「そうなんだ」
火曜に賭けた男は、もう五人目に声をかけていた。
「行くぞ」
マグヌスがヘルメットを小脇に抱えたまま歩き出し、班が続いた。兵舎の脇を通るとき、葵は壁際に並んだ細長い箱の列を見た。昨日もあった。道具の箱だと思って、目に入れただけだった。
今日は、蓋が開いていた。
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壁の上へは、兵舎の裏の階段で上がる。
石を切った段が壁の内側に張り付いていて、上まで灯りはない。班はその下で足を止めた。マグヌスが上を見て、誰も何も言わなくなった。
「夜番が降りるまで待つ。上は狭い。すれ違わねえ決まりだ」
マグヌスは葵にだけそう言って、また上を見た。賭けの声も煙草の匂いも階段の下までは来ていて、待つあいだだけそれが止んだ。
上から、足音が降りてきた。
揃っていた。一人の足音を何倍にもしたように聞こえて、それから、列を目で捉えた。黒い戦闘服と、同じヘルメット。壁沿いの道で見上げた、灯りの下の影と同じものだった。葵の隣で作業した男たちの服は肘と肩の色が違っていたのに、降りてくる列にその違いはない。肩の高さまで揃っている。階段の暗さの中で、列の輪郭が一本の線になって動いていた。
「おう」
マグヌスが声をかけても列は止まらず、返事もなかった。マグヌスはそれを気にする様子もなく、もう隣の男に昇降機の部品の話をしていた。
列は班の横を通って降りていく。葵は一人ずつ、通り過ぎる順に見た。ヘルメットの奥に誰かがいる感じは、一人ずつ確かにあった。夜のあいだ上に立っていた人たちで、これから休む人たちなのだろう。葵はそれ以上のことを思わなかった。
最後の一人が降りきると、列は兵舎の脇へ向かった。今朝、葵が蓋の開いた箱を見た場所だった。階段の根元からは二十歩ほどしかない。班の男たちは誰も振り返らず、マグヌスが「上がるぞ」と言ってヘルメットを被った。
葵が一段目に足をかけたとき、後ろで音がした。
留め具の外れる音が、一度に十いくつ鳴った。
葵は振り返った。
列の先頭が、ヘルメットを脇に抱えていた。三十代の男の顔だった。髪は短く刈られていて、目は箱の方を見ている。その隣の一人が、同じ動きでヘルメットを外した。同じ顔だった。三人目も外した。
葵の足が、段の上で止まった。
(同じ顔だ。)
四人目も、五人目も、同じだった。髪の長さまで同じで、目の向きまで同じだった。葵は数えようとして、六人目でやめた。
マグヌスを見た。マグヌスは階段を上がりかけたまま、葵を見ていた。何も言わなかった。顔も変わらなかった。班の誰も、箱の方を見ていなかった。
列は箱の前で戦闘服を脱いだ。黒い服の下は、体に張り付いた薄い灰色の内着だった。脱いだ服はそのまま、箱の隣に並んだラックへ掛けられた。兵舎の中で葵が使ったものと、同じラックだった。同じ体が、同じ順番で、同じ動きで服を掛ける。
それから一人ずつ、蓋の開いた箱に背中から入った。黒い木の縁に、黒い金属の帯。蓋の面はガラスで、閉まると中の顔がそのまま見えた。
液が、上がってきた。
透明で、少し重そうに、足の方から満ちてくる。泡は立たなかった。顔まで届いても、顔は変わらなかった。目は閉じていた。息をしていたはずの肩が、液の中では動かない。
十いくつの蓋の向こうに、同じ顔が並んだ。
「葵」
ライラの声だった。
「あの人たち、みんな同じ」
「……うん」
ライラは続けなかった。フィオナの胸の間で、光が少し弱くなっただけだった。
「上がるぞ」
マグヌスがもう一度言った。今度は葵にだけ言っていた。葵は箱から目を離し、段を上がった。
フィオナは葵の半歩後ろにいて、一度だけ足が遅れた。箱の方を見ていた。何も言わず、すぐに追いついた。
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壁の上は、下より風が強かった。
東の空の端が灰色に変わりかけている。班の男たちは昨日と同じ場所に昇降機の部品を運び、昨日と同じ順番で組み始めた。準備の方が長い仕事だというのは、二日目でもう分かった。
葵は部品を運び、両手が塞がると耳だけが空いた。
風の音に、別の音が混ざっていた。
低くて細く、風が壁の角で鳴る音に似ていて、似ているだけで同じではなかった。葵は手を止めた。
「今、誰か……」
「風だ」
マグヌスは顔も上げなかった。
「ここは一年中鳴ってる。慣れろ」
葵は聞き直さず、部品を置いて次の部品を取りに戻った。音はまだ続いていて、戻る途中で風に紛れて、どちらなのか分からなくなった。
「さっきの人たち」
葵は、組み上がっていく昇降機を見ながら訊いた。
「同じ顔でした」
「クローンだよ」
マグヌスは工具を締めながら言った。声は、昇降機の話をしているときと変わらなかった。
「見たのは、初めてです」
「だろうな。会社はわざわざ言わねえからな。隠してもいねえが」
工具が一度止まり、また動いた。
「人としてどうかしてる、ってのは分かる。分かるが、あいつらがいねえと回らねえ。夜はあいつらが見張りに立つ。朝になったら棺みてえな箱に入る。それだけだ」
「棺」
「だから棺人だ。俺たちはそう呼んでる」
「箱の中で寝るんですか」
「知らねえ。開けたことねえからな」
締め終えた工具を放ってマグヌスは立ち上がり、それ以上は何も言わなかった。葵も訊かなかった。
(誰が、かけたんだろう。)
答えの出ないうちに、マグヌスの端末が鳴った。
マグヌスは画面を見てしばらく黙り、それから班の方を向いた。
「本社からだ」
誰も手を止めなかった。
「トロールの捕獲命令だ。夜のうちに装置に来て、そのまま居座った。いまごろ壁の下で固まりかけてる」
「太陽の光に当たると石になるんだ」
誰かが言った。
「そうだ。石になり切るのを待って、昼のうちに済ませる。楽な仕事だ」
マグヌスはそう言って、端末をしまった。
「よし、昇降機を先に組め。石は逃げねえ。慌てるな」
男たちが動き、葵も部品を持ち上げた。
東の空が、灰色から白に変わり始めていた。壁の下で、何かが石になりかけている。
「行こう、フィオナさん」
「はい、葵殿」
昇降機の縄が、風に鳴った。




