第213話 夜の客
夜の部屋で端末を机に立てると、呼び出しの二音目で雛が出た。画面の端に、窓辺の観葉植物が映っている。
「あ、お兄ちゃん」
雛は言って、それからすぐ目を細めた。
「……なんか、部屋変わった?」
「うん、変わったよ」
「なんで?」
隣でフィオナが小さくなった。画面に入る位置まで来て、膝の上で手を重ねて、頭を下げた。
「……わたくしの、せいなのです」
「そんなことはないよ」葵は言った。「悪いのは、ヤンって人だよ」
「何かあったの?」
雛の声が半分だけ低くなった。フィオナは一度葵を見て、それから話した。講師に呼び出されて、二人きりにされたこと。触られて、頭が真っ白になって、気づいたら指を折っていたこと。それで葵ごと、街の外れへ移されたこと。順番はところどころ入れ替わって、それでもフィオナは最後まで自分で話した。
「折ったのは、わたくしなのです。葵殿は、かばってくださって……」
雛は最後まで黙って聞いていた。聞き終わって、一拍おいて、口を開いた。
「そんな男最低! フィオナさん、気にすることないよ!」
「ですが……」
「むしろ指二本で済ますなんて優しすぎる」
「そうですかね」
「そうよ、首をへし折ってもよかったんだから」
「首、ですか」
五分が過ぎる頃には、フィオナは俯くのをやめていた。
「……思えば、折ったのは右手だけでした」
「そう! 左が無事なのおかしいよ」
「左も、いくべきでした」
「あとどうせなら鼻も」
十分が過ぎる頃には、話は間合いと得物に移っていた。
「あの状況なら、肘の方が確実だったのです」
「フィオナさんの本気だね! いいよいいよ」
「わたくし、槍を呼ぶことも、できたのです」
「呼んじゃえばよかったのに!」
葵が口を挟める隙は、一度もなかった。
「呼べば、よかった……! そう考えると腹が立ってきました! 私たちを左遷して! 許せません! 次に会ったらやってやります!」
「やっちゃえやっちゃえ!」
「フィオナさん、犯罪者になっちゃうかも。落ち着いて」
画面の中で雛が噴き出した。フィオナは槍を握る形に丸めていた手を、ゆっくり開いた。頬に色が戻っていた。
雛が笑って、それから葵を見た。
「お兄ちゃんは? 大丈夫?」
「僕は大丈夫だよ」
「……ふうん」
雛は何か言いかけて、やめた。それから画面の向こうで時計を見た。
「もう寝な。明日も仕事なんでしょ」
「うん。おやすみ、雛」
「おやすみ、お兄ちゃん。フィオナさんも、おやすみ!」
「おやすみなさいませ、雛殿」
通話が切れて、部屋は暖房の音だけに戻った。フィオナはまだ少し怒った顔のまま、布団の支度を始めた。葵は、よかったと思った。
灯りを消すと、フィオナは久しぶりに葵を抱き枕にして、先に寝息を立てた。
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がしゃん、と大きな音が鳴った。
音は眠りの底まで、一直線に落ちてくる。目を開ける前に心臓が跳ね、意味をつかむ前に体が起きていた。ガラスだ、と分かったのはそれからだった。
隣でフィオナが跳ね起きた。
「ひょえー! 寝てる葵くんの手で上書きしてごめんなさい!」
言いながら羽毛布団を頭からかぶって、丸くなった。葵は自分の右手を見た。何のことかは、分からなかった。
部屋の空気が変わっていた。窓のカーテンは膨らんで、割れた硝子の縁に雪が積もり始めている。吐く息は、部屋の中なのに白い。
暗がりで、大きなものの動く気配がした。低い位置で何かの倒れる音と、転がる音が続く。
葵は枕元の照明をつけた。
狼だった。
大きかった。狼と呼ぶには大きすぎる体が、狭い部屋の隅で背中を丸めている。肩は机と同じ高さにあり、銀灰色の毛は溶け残った雪を乗せていた。開いた冷蔵庫に鼻先を突っ込んで、紙の包みを噛み破っている。熱い息が、灯りの中で白く立ち上っていた。
「ひぃー!」
布団の丸みが、ひとまわり小さくなった。
「おなか、すいてるだけ」
枕の上でライラが言った。
言われてみれば、食べ方が急いでいた。包みごと噛んで、飲むように食べて、次を探して冷蔵庫の奥に鼻を入れる。毛の下に、肋の形がうっすら見えた。
それから、血が見えた。脇腹に固まった黒い筋が一本、後脚の付け根まで伸びている。前脚の毛も一房、変な方向に固まっていた。
葵はベッドを下りた。
狼が振り向いて、低く唸った。金色がかった目が灯りを受けて光る。体は半分、壁際へ引かれた。
「あ、葵殿、お、お下がりください……」
布団の中から声がした。誰も下がらなかった。
「怖くないよ」
葵は一歩ずつ近づいた。唸り声が深くなる。もう一歩で、狼の息が届く距離になった。獣の匂いと、外の雪の匂い。
葵は屈んで、手のひらを傷に向けた。温かい光が毛の上を滑って、黒い筋をなぞる。傷がゆっくり閉じていく。
唸り声が細くなって、消えた。狼は自分の脇腹と葵の手を見比べて、それから鼻先を葵の袖に近づけた。匂いを確かめる息が、二度、三度、袖を膨らませた。
葵は首のあたりに手を置いて、ゆっくり撫でた。毛の表面は外の冷たさのままで、指を沈めると、その下は熱い。狼の目が半分閉じて、体の重みが少しだけこちらへ傾いた。
葵は冷蔵庫の残りの包みを開いて、床に置いた。狼は今度は急がずに食べた。
布団から、フィオナがそっと出てきた。葵の隣に膝をついて、恐る恐る手を伸ばす。
狼が牙を見せた。
「ひぃっ」
フィオナは布団へ戻っていった。
遠くでサイレンが鳴り始めた。一つではなかった。重なって、空気を叩く重い音も近づいてくる。強い光が窓の外を撫でて、通り過ぎた。
狼の耳が立った。葵の手の下から体が抜けて、ひと跳びで窓枠に乗る。
前脚を縁にかけたまま、一度だけこちらを振り返った。目が合った。
次の瞬間には、夜の中だった。雪の降る音しか残らなかった。
「あの狼、追われてたのかな」
「ん」
ライラは枕の上に座り直して、割れた窓を見ていた。
葵は端末を取った。手の中の画面に、文字が出ている。
(ルパ)
データは最後まで満ちていた。項を開くと、全部読めた。ローマの、双子を育てた雌狼の末裔。狼に乳をもらった双子と、都を建てた兄の話なら、葵も知っていた。
(散盟、できる。)
葵は契約陣の生成を始めた。画面の中で、線がゆっくり増えていく。
「明日、呼んでみようと思う」
「ん」
フロントに電話をかけると、眠そうな声が出て、上の階が空いているという。窓のことを詫びると、声は少しも驚かなかった。
荷物をまとめ直して階段を上がると、今度の鍵の札は何でもない番号だった。
フィオナは窓の鍵を二度確かめてから、灯りを消した。葵の腕は、すぐにいつもの場所へ戻された。




