第212話 やらかし枠
宿は食堂から歩いて数分の、二階建ての建物だった。受付で渡されたのは木の札のついた金属の鍵で、カードではなかった。
部屋は狭くも汚くもなかった。ベッドが二つ、小さな机、壁掛けのテレビ。床は板張りで、隅まで拭いてあった。それだけだった。
フィオナが部屋の真ん中に立って、ゆっくり一周した。
「……葵殿。この宿には、大きなお風呂は」
「ないと思う」
浴室は戸の内側にまとまっていた。浴槽と便器と洗面台が、一歩で全部に手の届く近さで並んでいる。棚のタオルは畳んであるだけで、あたたかくはなかった。フィオナはそれを覗いて、静かに戸を閉めた。
テレビをつけると、知らない言葉のニュースが映った。フィオナが操作盤を借りて、順番に替えていく。ニュース、料理の番組、天気図。一周して、またニュースに戻った。
「映画は……見放題では、ないのですね」
「普通の宿は、こうだよ」
フィオナはベッドの端に腰を下ろした。
「贅沢に慣れちゃったから悲しいです……」
肩の上からライラが下りて、枕の上に立った。少し弾んで、確かめて、何も言わなかった。
荷物は部屋の隅に届いていた。スーツケースと、支給品の箱がひとつ。
葵は開けて、順番に確かめた。服、洗面の道具、安全装備の一式。オリビアに貰った休暇ぶんのプリントは三枚とも、角も折れずに入っていた。詰めたときの並びのまま、全部あった。
「ちゃんと運んでおいてくれたね」
「うむ……ありがたいことです……」
フィオナの返事は、まだ少し萎れていた。
葵は鍵の札を手に取った。〇一一三、と数字が彫ってある。
一三一三号室のことを思い出した。フィオナが嫌な番号だと言って、フロントの人は普通だった部屋。査定は日曜日から始まっていて、葵は最下位だった。
(あの部屋番号は、偶然じゃなかったのかもしれない。)
隣でフィオナはまだ天気図を見ていた。葵は札を裏に返して、机の上に置いた。
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フィオナはベッドの上で観光本を開いて、付箋を一枚ずつ確かめていた。剥がしはしなかった。確かめては、次をめくる。それを繰り返している。
「フィオナさん」
「はい」
「マグヌスさんが、明日は食堂のお手伝いでもいいって」
「わたくしは、葵殿のおそばにおります」
即答だった。付箋の手も止まらなかった。
葵は少し黙って、それから言った。
「フィオナさんが、ひどい目に合わなくてよかったよ」
手が止まった。
「何も、されてないよね?」
フィオナは観光本を閉じて、膝の上に置いた。
「……大丈夫と言えば、大丈夫で」
一度切って、表紙の角を撫でた。
「大丈夫じゃないと言えば、大丈夫じゃない、です……」
葵は続きを訊かなかった。フィオナも、続きを言わなかった。テレビの消えた部屋で、暖房の音だけが低く続いていた。
「それにしても」葵は言った。「とっさに動画を撮ってるなんて、すごいね」
「……動画?」
フィオナが顔を上げた。
「なんの、ことです?」
「脅迫されてたところ。フィオナさんが撮ってたんじゃないの?」
「わたくし……あのときは、頭が真っ白になって……触られたとき、つい、護身術を、やってしまっただけで……そんなことは、していません」
「そうなんだ」
葵は少し考えた。
「じゃあ、あの動画は、何だったんだろう」
ライラが枕の上で立ち上がった。
「イレム、葵に、機械渡してた」
葵はライラを見た。それから、出発の日の転移室を思い出した。イレムのドローンと、一センチの黒い部品。端末に挿すと充電が始まって、一週間は持つと言っていた。部品は今も、挿さったままだった。
「……もしかして、あの機械かな」
葵は端末を取り出した。
「イレム先輩に、聞いてみよう」
葵:イレム先輩、こんばんは。夜分にすみません
葵:出発のときにいただいた充電の機械なのですが、録画機能のようなものがあるのでしょうか
返事は、すぐに来た。
イレム:葵くん、もう気付いたの?
イレム:てことは、いま外環部かな
葵:なんで分かったんですか?
イレム:分かるよ
イレム:気付いたってことは、確かめたくなることがあったんだろうし
葵は返す言葉を打ちかけて、消した。
イレム:ただの学生が、メガコーポの秘密を探ろうとするのは難しいんだよ
イレム:これで分かったよね?
イレム:外環部で少し、頭を冷やすといいよ
葵:……分かりました
イレム:おみやげ、楽しみにしてるね
返事はそれきりだった。読み返すと、最初の質問の答えは、どこにも書かれていなかった。
葵は端末を手に取り、挿さったままの黒い部品を灯りに近づけた。横に、爪の先より小さい出っ張りが付いている。角度を変えると、出っ張りの先で小さな円が光を返した。硝子のような、レンズのような円だった。
(こんなに小さいのが、飛ぶのか。)
感心した。それからイレムの顔を思い出した。こうなることまで読んで、お守りのつもりで持たせてくれたのかもしれない。外環には送られたけれど、あの映像がなければ、もっとひどいことになっていたかもしれなかった。
葵:ありがとうございました
返事は来なかった。既読の印だけが、静かに付いた。




