第211話 壁の下のラプスカウス
道は暗く、足元は窓の灯りで足りた。吐く息が白く残って、すぐ流れた。
「最低の会社だろ。なんで来たんだ」
歩きながらマグヌスが言った。
「給料がよかったので」
「……仕事は選んだ方がいいぞ」
それきり黙って歩いた。マグヌスは角を二つ曲がり、まわりより少しだけ明るい一軒の前で止まった。戸の硝子が湯気で曇っている。
戸を開けると、熱気と煮込みの匂いが一度に来た。狭い店だった。長い卓が二本、丸椅子はばらばらで、奥の鍋の湯気は天井の灯りを霞ませている。
後ろから班の男たちが三人ばかり続いて入り、常連の顔で椅子を引いた。
「あんた、遅いよ」
鍋の向こうから恰幅のいい女が声を上げて、それからこちらを見た。
「おや。まあ」
女将はお玉を置いて、卓を回り込んできた。
「その子が今年のやらかし枠かい? かわいいじゃないの。他の参加者に虐められなかった? かわいそうに」
葵の頬を両手で挟みそうな勢いだった。
「母ちゃん、こいつこんなかわいい顔してヤンのやつの指をへし折ったんだってさ!」
マグヌスが席に着きながら言った。
「まあ、やんちゃなのね!」
「あの、それは」フィオナが口を開いた。
女将はフィオナの方へ向き直って、上から下まで眺めた。
「あんたはまた、別嬪だねえ。うちの店には百年ぶりだよ、こんなの」
「きょ、恐縮です」
「あんたたち、何にする? って言っても、今日は鍋のやつしかないけどね」
フィオナの訂正は、そのまま注文に飲まれた。
奥から盆を持った子供が出てきて、マグヌスの前に水を置いた。
「おかえり」
「おう」
それだけだった。子供はフィオナの三つ編みをじっと見て、フィオナが会釈すると、走って奥へ戻っていった。
女将は鍋の前に戻って、深皿に煮込みをよそっていく。お玉は二度と量らなかった。
卓に皿が並んだ。茶色い煮込みで、肉と大きく切った芋が澄んだ脂の膜の下に沈んでいる。パンは厚く切って、籠で回ってきた。
「ラプスカウスだよ。あったまるよ」
葵は一口食べた。肉は繊維でほどけて、芋は煮崩れる手前で止まっていた。美味しい、と思った。何も言わずに、もう一口食べた。
男たちはパンを煮込みに浸している。葵も同じようにした。染みたパンは、皿の中でもう別の食べ物になっている。
フィオナは騎士らしく背を伸ばして食べ始め、三口目から速くなった。皿が空くと、頼む前に女将のお玉が来た。
「食べな食べな。壁の仕事は腹が減るんだから」
フィオナの皿は二度目も、三度目も空いた。男たちの手が止まり、視線だけが集まっていく。
「……姉ちゃん、どこに入るんだ」
「失敬な。腹に入ります」
女将は大笑いして、四度目をよそった。
襟元でライラが動いて、匂いの方へ鼻を出した。頭の中で声がした。
「いい匂い」
葵は返事の代わりに、皿を少し傾けて、湯気を襟元へ送った。
食べ終わる頃、常連の一人が壁のテレビを顎で指した。
「ヘルガさん、昨日のやつ」
「はいはい」
ヘルガは布巾で手を拭いて、テレビをつけた。緑の芝と、駆け回る選手。録画の試合だった。店の空気が変わって、男たちの椅子が一斉にテレビへ向く。
「坊主、サッカーは分かるか」
「あまり、分からないです」
「なら覚えろ。ここじゃ、冬にやることが他にねえ」
葵は少し考えてから訊いた。
「試合のときは、皆さん、壁の上ですよね」
「だから録画なんだよ」隣の男が言った。「結果はまだ誰も知らねえ。調べたら負けだ」
「口に出したやつは出禁だよ」ヘルガが鍋の向こうから言った。
笑いが起きた。本気の顔が交ざっていた。
「ベルゲンのチームだ」マグヌスが画面から目を離さずに言った。「俺の生まれた街だ。街はもうねえけどな。チームは残ってる」
それきり画面に戻った。
ライラが襟元から頭だけ出して、画面を見ていた。誰もこちらを見ていなかった。
頭の中で、ライラの声が続けて鳴った。
「いまの、わざと」
「左、あいてる」
「次、この人が走る」
その通りになった。画面の端の選手が走り込んで、店中が同じ瞬間に腰を浮かせた。
「いまの、はいらない」
言い終わる前に、シュートは枠を越えた。店中が同じ形に頭を抱え、誰かの解説は監督より偉そうだった。惜しい場面のたびに手拍子がひとりでに揃う。
葵にはどれがすごいのかも、惜しいのかも分からなかった。分かるのは、ライラの声のいつにない速さだけだった。前に一度訊いたとき、ライラは「うん」としか言わなかった。だから訊かなかった。
画面の中で誰かが倒れ込みながら蹴って、ボールは入った。店が立った。マグヌスは卓を叩き、男たちは互いの肩を掴んで揺すって叫んだ。誰かの手は葵の背中も叩いていった。フィオナはつられて立ち上がり、勢いよく拍手をしている。ルールは分かっていない顔だった。
ライラの声は、その全部の下で鳴り続けていた。聞こえているのは葵だけだった。
フィオナがヘルガに呼ばれて、皿下げの手伝いに立った。襟元のライラも一緒に離れていく。
マグヌスが椅子を半分だけ寄せて、声を落とした。
「なあ、坊主。あの嬢ちゃん、ヤンに妙なことをされなかったか」
葵はマグヌスを見た。マグヌスは画面の方を向いたままだった。
「あの調子だと大丈夫そうには見えるがな。何も知らねえで来た参加者だと、男が無理になっちまうやつもいてな」
「……」
「あの嬢ちゃんは、明日は食堂の手伝いとかでもいいぞ」
「大丈夫です。多分、未遂でした」
「そうか。よかったよ」マグヌスは短く笑った。「指、へし折ったんだもんな」
「食堂の手伝いじゃないと、何をやるんですか」
「そりゃおめえ、今日みてえにむさ苦しい男どもに囲まれて、化け物と戦うのさ」
「あとで聞いてみますね」
「おう、そうしろ」
マグヌスはグラスを取り直して、画面に顎をしゃくった。
「この街にあるもんは全部あいつらのものだが、スポーツだけはあいつらのものになってねえ」
葵は頷いた。それだけにした。
フィオナが鞄から観光本を出した。付箋だらけの、あの本だった。
「とてもおいしいです。ですが、このガイドブックには、この店は……載っていないですね」
「そんなもん、見せてえものしかのってねえのよ」
フィオナが頁をめくった。
「では、この、茶色いチーズのお店は」
「全部嘘っぱちさ。企業でやってるんだ。昔ながらってツラしてるがな、ありゃ出来て十年かそこらだ」
「そんなー……」
フィオナは観光本を持ったまま固まった。開いた頁の隅で、付箋が一枚、湯気にふやけて反っている。まだ行っていない頁にも、付箋は十枚ちかく残っていた。
「……うまいのは、うまいがな」
マグヌスがぼそりと足した。フィオナの顔は、それでは戻らなかった。
ヘルガが皿を下げに来て、フィオナの手の本を一瞥した。
「明日もおいで。どうせ宿じゃ何も出やしないんだから」
「はい。ごちそうさまでした」
戸の外は冷えていて、煮込みの匂いが少しだけついてきた。フィオナは観光本を鞄にしまいかけて、思い直したように胸へ抱え直した。
頭の中で、満足そうな声がした。
「また、見たい」
葵は頷いた。宿までの道は、窓の灯りだけで足りた。




