第210話 無灯の外壁
壁際の戦闘服が一着ずつ外されて、男たちの手から手へ渡っていった。
葵の前にも一式が置かれた。あの棟で並んでいた数百着と同じ形の、黒い戦闘服と黒いヘルメットだった。
「着ろ。サイズが合わなきゃ言え」
マグヌスはそれだけ言って次へ回った。
葵は袖を通した。何も思わなかった。胸の細い差込口に入館証を差すとちょうど収まり、ヘルメットをかぶると視界の端に小さな文字が灯って、時刻が浮かぶ。前腕の台座に端末を嵌め、腰に魔導銃を提げると、支度は終わりだった。
フィオナが鎧のまま扉へ向かおうとして、誰かに止められた。
「姉ちゃん、そのまま行く気か。臭いつくぞ」
フィオナは自分の鎧を見下ろして、それから覚悟を決めた顔になった。
「よいしょっ!」
白い光が輪郭をなぞって、鎧が消えた。奥で着替えて戻ってきたフィオナは、同じ黒、同じヘルメットの一人になっていた。
ライラの行き場がなくなった。襟は肌に密着して、隙間もない。葵の肩の上でうろうろしていると、フィオナが胸元の留め具を少しだけ緩めて、手のひらを差し出した。ライラは乗り、胸の間に収まって、頭だけ出し、すぐ引っ込んだ。
頭の中で声がした。
「こっち、あったかい」
葵は返事をしなかった。
支度が済むと、部屋は同じ黒で埋まった。誰かが笑った。
「誰が誰だか分かんねえな」
別の一人が葵の前に立って、両腕を広げた。
「坊主、俺が誰だか分かるか」
「賭けで勝った方ですよね」
ヘルメットの奥で息の詰まる音がした。
「……なんで分かんだよ」
部屋がまた笑いで埋まった。マグヌスが手を叩いた。
「遊ぶな。出るぞ」
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壁の内側に細い階段が続いていた。部品の箱を担いで登った。箱は重く、階段は長く、誰も喋らなかった。
上に出ると風が来た。壁の上は通路になっていて、灯りはところどころにしかない。
物資を運ぶ一団とすれ違った。同じ黒い戦闘服が、水のタンクを二人がかりで運んでいく。すれ違うとき、風の音に細く高いものが混ざった。声のようだった。誰も足を止めなかったので、葵も止めなかった。
昇降機の組み立てが始まった。土台を据え、腕を伸ばし、番号の刻まれた部品を順に嵌めて、ボルトを締める。締めたら全部をもう一度確かめる。予備の部品がふた組、別の箱で上がってきた。
「昇降機は使うときだけ組む。終わったら全部ばらして、壁には何も残さない」マグヌスが言った。「掴まって登れるもんを残さないためだ」
組むより、確かめる時間の方が長かった。作業をしているより、準備をしている時間の方が長かった。
「今日は歩く死体だけならいいがな」上に残る組の男が言った。「まれに、飛ぶのも来るんだ」
葵は日曜の夜に宿の窓から見たものを思い出した。空を横切って、端末に写らなかった何か。距離も大きさも分からなかったから、同じものだとは決められなかった。決められないまま、空の部品箱を畳んだ。
縁から外が見えた。雪をかぶった斜面が下っていき、森も道もないまま暗くなっていた。灯りはひとつもない。街からは決して見えない側だった。
班は二つに分かれた。半分が上に残って昇降機と見張りにつき、半分は籠で下りる。マグヌスが葵を見て、籠と反対の方を顎で指した。
「お前は上でいい。操作を覚えとけ」
「いえ、下に行きます」
マグヌスが一拍黙った。
「……度胸あるな」
口笛が鳴った。ヤンの野郎の指をへし折っただけのことはあるぜ、と誰かが言って、ヘルメットの中の笑い声がいくつも重なった。葵には、どこが度胸なのか分からなかった。
マグヌスも籠に乗った。
籠が下がり始めると、空の赤みはもう際まで薄くなっていた。手すりの作業灯に丸く照らされて、灰色の面が上へ流れていく。
影が見えた。壁面の窪みに、人の形が張り付いている。ひとつではなかった。
視界の端に文字が出た。
(ドラウグル)
濡れたように黒く、膨れていて、動きは遅かった。灯りの方へ顔を向けるものと、向けないものがいた。
「多いな」マグヌスが数えて言った。「生け捕りは一体で十分だ。欲張ると死人が出る。あとは撃て」
乾いた音が続いた。葵も言われた場所を構え、一度だけ間を置いて、撃った。外れなかった。撃たれたものは落ちない。張り付いたまま、動かなくなるだけだった。
それからが仕事だった。籠を寄せ、平たい器具を体と壁の間に差し込んで、こじって剥がし、袋に入れて、ワイヤーで上へ送る。戦いというより、解体に近かった。
フィオナが片手で一体を剥がした。マグヌスたちの手が一瞬止まって、それからまた動いた。
同じことを繰り返した。寄せて、差し込んで、こじって、袋に入れて、上へ送る。腕の付け根が重い。マグヌスたちは手数が少なく、どこを差せば剥がれるかを腕で覚えている動きだった。
最後に、動いている一体が残った。マグヌスは拘束具の掛け方を一度だけやって見せた。振られた腕をフィオナが掴んで止め、金具の鳴る音とともに、それも袋に入った。
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消毒場は壁の内側の、屋根だけの建物だった。コンクリートの床に排水の溝が切ってあり、ホースと大きな秤と、札の束が用意されていた。日はもう落ちて、明かりは天井にふたつ。
袋が開けられた。
匂いが来た。
鼻の奥に貼りつく匂いだった。息を止めても遅い。舌の根まで届いて、飲み込んでも残る。
「今日のは効くな」誰かが言った。「服に染みるぞ。洗っても落ちねえ」
葵はホースを渡されて、言われた通りに水をかけた。薬液をかけて、また水をかける。秤に載せて目方を読み上げると、係が控えに書き取った。札には日付と目方と、処理した者の名前を書く欄があった。葵は自分の名前を書いて、紐で結んだ。
頭の中で声がした。
「また、書くんだ」
葵は次の札を取った。
フィオナがヘルメットを外して、すぐに後悔した顔になった。自分の三つ編みを持ち上げ、匂いを確かめて、止まった。
「……葵殿」
「うん」
「これは、その、洗えば」
「落ちねえよ」近くの男が親切に答えた。
フィオナはそれきり黙って、三つ編みを胸の前に抱えたまま作業に戻った。
車が来て、袋と、札の付いたものを積んで、暗い方へ走っていった。
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道具を洗い終える頃には、あたりは完全な夜だった。
「風呂に入ってこい」マグヌスが親指で兵舎の奥を指した。「着替えは棚のを使え」
男たちは慣れた順序で支度をした。前腕の端末をかざして淡い光を体に通してから、戦闘服を脱いで籠に放り込む。葵も同じようにした。
女湯は小さい方の戸で、入っていくのはフィオナとライラだけだった。
風呂は広くなかった。体を洗った後、熱い湯に男たちが肩まで詰まり、湯気の向こうで鼻歌が聞こえた。葵は端の方に浸かった。腕の付け根の重さは、湯の中でゆっくりほどけていった。
棚の着替えは洗いざらしの作業着だった。袖を通すと、糊気のない布が肌に馴染んだ。背中には灰色の狼が入っていた。
廊下に出ると、フィオナが待っていた。同じ作業着で、三つ編みの先はまだ少し濡れている。襟元からライラが頭を出して、湯上がりの顔をしていた。
フィオナは葵に一歩寄って、すん、と鼻を鳴らした。すん、すん、ともう二度、念入りに確かめる。
「もう大丈夫そうですね」
「フィオナさんも、大丈夫だよ」
ライラも真似して鼻を鳴らした。
外に出ると、男たちが兵舎の前に屯していた。マグヌスが濡れた頭のまま、首を回した。
「最低の会社だろ、俺たちにこんな仕事を押し付けて。本社の奴らはきれいなオフィスでふんぞり返っていやがる。しかもあいつらの方がよっぽどもらってるんだ」
誰も反論しなかった。何人かが笑った。毎日聞いている台詞の受け方だった。
大きい男が一人、暗い道から歩いてきた。骨組みは大きく、その上の肉は薄い。少し前屈みの、遠慮のある歩き方だった。短く刈った白髪と、短く整えた白い髭。左腕に紙袋を三つ抱え、右手は体の脇に添えたまま動かない。
「エイナルさん」
誰かの声で、空気が少し軽くなった。エイナルは小さく頭を下げて、一番近くの若い男に袋を差し出した。
「すまんが、配ってくれ」
低い、ゆっくりした声だった。袋の中は黒っぽい大きなパンで、一つで両手に余った。賑やかに手が伸びる中でエイナルだけは静かに立ち、受け取る側の男たちの方が、それぞれに礼を言われていた。
「聞いてくれよ」マグヌスが顎で葵を指した。「本社が今年のやらかし枠に押し付けたんだ、この仕事を。ガキにだぞ」
「本社は最悪だ」エイナルは静かに頷いた。「だが、悪魔の脅威も本物だ。この街を守っている自負を持て」
マグヌスが舌打ちした。それから手を出して、パンを受け取った。「いつもありがとう、エイナルさん」
葵はパンをかじりながら訊いた。
「外環のお仕事は、いつもこういう感じなんですか」
「今日のは本社のご指名だ。いつもは壁の見回りとか、町の見回りとかだな」
町の見回り。それなら、住民の話を聞くはずだった。
「見回りで、その。悪魔に襲われる夢を見る人の話とか、聞いたことはありますか」
「ああ、見るぜ」
マグヌスが即答した。
「見るんですか」
「ああ。とっても恐ろしい悪魔だ……夜中にこっそり酒を飲んでるとな、音もなく背後に立つんだ。声は雷で、目が光ってて、逃げても必ず見つかる」
「お前、それ嫁さんじゃねえか!」
誰かが叫んで、どっと沸いた。マグヌスの母ちゃんは悪魔みてえにこええんだ、と別の誰かも続けて、また笑いになった。
エイナルは少し考えて、すまなそうに首を振った。
「そんな話は聞かないなあ」
「そうですか」
葵はそれ以上は訊かなかった。
(この街には、黒夢病の患者はいないのだろうか。)
「おい坊主」マグヌスがパンの残りを口に放り込んだ。「飯は食ったのか。宿にレストランなんて上等なもんはねえぞ」
「まだです」
「なら食べて行け。案内してやる」
マグヌスはもう歩き出していた。葵とフィオナはついて行った。ライラがフィオナの襟元で、小さくあくびをした。




