第209話 左遷
集合場所は端末の地図に印があるだけで、行ってみると駅だった。改札の前に係の女が立っていて、切符を二枚渡してきた。
「宿も移っていただきます。お荷物は後ほど運びます」
理由は言わない。訊いても答えないだろうと思ったので、葵も訊かなかった。
電車は空いていた。向かい合わせの席にフィオナと座り、葵は窓の外を見る。
高い建物が、途中から急に低くなった。二階建てより上はなくなり、屋根は波形の板に変わる。
道は車の入れる幅ではなくなり、家並みの上に細い煙突が一本ずつ立っていた。
明るさも変わった。看板の光が減って、窓の灯りだけになる。
それでも暗いとは思わなかった。これが普通の明るさで、カール・ヨハン通りの方がどうかしていたのだと、窓を見ているうちに分かった。
(黒夢病は、こういう場所の人から始まるんじゃないだろうか。)
「葵殿」
「うん」
「これって、その、左遷というやつでしょうか」
「もしかしたら、そうかも」
フィオナが膝の上で手を重ねた。
「……申し訳ありません」
「大丈夫だよ、フィオナさん」
葵は窓から目を戻した。
「左遷された先でも、頑張ろう」
フィオナが顔を上げた。何か言いかけて、そのまま口を閉じる。
電車が止まった。窓の外に、灰色の面が立っていた。
駅を出ると、壁はすぐそこだった。灰色の面が空の半分を塞いでいて、上の方は霞んでいる。光る線も陣も引かれていない。面がそのまま立っている。
道は車の入れる幅ではなく、両側の家は二階建てで止まっていた。波形の板屋根が続き、どの家からも煙突が一本ずつ立っている。
すれ違う人の作業着の背中に、灰色の狼が入っていた。葵たちの支給品と同じ紋章だった。
葵は可哀想だとは思わなかった。道の幅も屋根の低さも、窓の並び方も、家の近くと似ている。
(知っている場所だ。)
道が広くなったところに、男が一人で立っていた。
歳は五十を過ぎている。背は葵より頭一つ高く、肩から先が厚い。手の指の関節がどれも太くなっていた。
「お前が小春葵か」
「はい」
「着いてこい」
それだけで背を向けた。名乗らないまま歩き出したので、葵とフィオナも黙ってついていく。
兵舎は壁のすぐ内側にあった。扉を押すと、暖かい空気と汗と油の匂いが一度に来る。
中の男たちが一斉にこちらを見た。
誰も何も言わない。
壁際に戦闘服が掛かっている。あの棟で見たものと同じ形で、同じ黒で、同じヘルメットだった。
ただしどれも肘と肩の角が擦れて、色も揃っていない。数百着が同じ顔で並んでいた部屋とは、違うものに見えた。
フィオナが葵の半歩前に出た。
「今年のやらかし枠だ!」
男が振り返って、そう言った。
部屋の空気が一度に緩んだ。
「早すぎだろ」
「まだ二日目だぞ」
「こんな可愛い子ちゃんが? 何も知らなかったのか!」
奥で誰かが立ち上がって、机を叩いた。
「二日目! 俺だ! 二日目に賭けたのは俺だけだ!」
「嘘つけ、お前は水曜だ」
「火曜だ! ここに書いてある!」
紙が回されて、男たちが順に覗き込む。
ほんとうに火曜と書いてあったらしく、あちこちから舌打ちが上がる。金が動いていた。
葵は黙って見ていた。研修棟では、誰も無礼なことを言わなかったが、ここでは明らかに空気が違う。
「マグヌス、そいつら座らせろよ」
「そうだな」
男が椅子を二つ、足で寄せた。名前はそこで分かった。
「で、何をやらかしたんだ」
マグヌスが向かいに腰を下ろす。
「日曜に観光はしたのか」
「ええと」
葵は少し考えた。順番に話すと長くなる。
「話すと長いんですが、講師の方の指を二本折ってしまって……あ、観光はしました」
一拍あった。
それから部屋が笑いで埋まった。
誰かが咳き込み、誰かが床を踏み鳴らし、奥の男は椅子から落ちる。フィオナが何か言いかけて、口を開けたまま声が出ないでいる。
「二本!」
「片手か? 片手で二本か?」
「ヤンだぞ。あのヤンの手だぞ」
「観光はしたのかよ!」
「そこは聞いてやれ。ちゃんと観光してきたんだ」
「よくやった、坊主。何年待ったと思ってる」
誰かが葵の背中を叩いた。力が入りすぎていて、前につんのめる。
マグヌスだけが笑っていなかった。
「講師ってのは、ヤンか」
「はい」
「毎年あいつだ」
それだけ言って、マグヌスも笑い出した。
笑いが収まりかけたところで、マグヌスの端末が鳴った。
読んでいるあいだに、顔から表情が抜けていく。
「……本社からだ」
打ち出した紙が、机の上を滑ってきた。フィオナが先に覗き込む。
「ドラウグルの、捕獲……と、消毒」
部屋が静かになった。さっきまで床を踏み鳴らしていた男が、椅子を戻して座り直す。
「今日か」
「今日からだ」
マグヌスが紙を裏返した。裏には何も書いていない。理由も、期間も。
「……よっぽど怒らせたみたいだな」
葵は紙を見た。二行目に自分の名前があった。
襟の内側でライラが動いた。何も言わなかった。
「僕がやります」
「そういう話じゃねえよ」
マグヌスが立ち上がった。
「よし、仕方がない! やるぞお前たち!」
男たちが動き出す。誰も文句を言わなかった。
壁際から戦闘服が次々に外され、部屋の隅で箱の蓋が開く。
扉が開いた。外の冷たさが、床を這って入ってくる。




