↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
209/216

第208話 脅迫

昼の合図が鳴ると、実射場の空気がゆるんだ。清掃を終えた者から銃を棚に戻し、耳栓を外して食堂の方へ流れていく。


葵は返却票を係に渡し、レーンの列を端まで目で追った。


「フィオナさん、どこに行ったのかな」


襟の内側でライラが動き、葵の頭の中に声がした。


「あっち」


指した先は扉の向こうで、葵は理由を訊かなかった。ライラに分かるのはいつものことで、どうして分かるのかを確かめたことは一度もない。


外へ出ると、冷たい空気が耳の奥まで入ってきた。灰色の空の下に木箱と鋼材の束が並び、どれも薄く雪をかぶっている。


その向こうから男の悲鳴が短く上がった。フィオナのいる方へ、葵は走った。


資材置き場の裏でヤンが膝をついていた。右手を左手で押さえている。押さえきれていない指が二本、あらぬ方を向いていた。


その前にフィオナが立っている。剣は抜いていない。両手を体の脇で、握っては開いていた。


葵を見て、フィオナの顔が崩れた。


「葵くん!」


葵殿、ではなかった。


「わわ、私の胸を、う、上書きしてくださいっ」


「上書き」


「上書き、上書きだよ、触られたから、葵くんが上から触れば、なかったことになるでしょ」


「フィオナさん、落ち着いて」


「査定、日曜からだって、私のせいで葵くんの評価が下がってたって、それで名前も、私、名前なんて教えてないのに」


言葉が順番を持っていなかった。査定と、名前と、胸とが、どれも言い終わる前に別のものへ変わる。葵は聞き取れた語を頭に並べたものの、意味の通る形にはならなかった。


ヤンが顔を上げた。


「ただで済むと思うなよ」


敬語ではなかった。月曜の朝から一度も外れなかったものが、そこだけ外れていた。


左手が右手を離れ、空を短く払う。


黒い戦闘服が立っていた。フルフェイスのヘルメット。肩は呼吸で動かない。


ドラウグル兵だ。飛行機で斜め前に立っていたものと、同じ姿だった。


フィオナが葵の前に出た。剣は抜かない。背中の下の方が、細かく震えている。


葵は杖を呼ばなかった。魂の中にあるものは、呼べばその場で手に来る。呼ぼうとは思わなかった。


襟の内側で、ライラは動かない。


そこで、葵の端末が鳴った。


差出人の欄は空だった。映像が一つと、文字が一行。


「アービターに出す、と言うべき」


葵は映像を開き、音量を上げて、端末をヤンの方へ向けた。


画面の中は、いま立っているこの場所だった。角度が高い。ヤンの声が、風の音の上に乗って流れ出す。


「葵くんは、現時点で最下位です」


ヤンの喉が動いた。


葵は指で先へ送った。


「査定は、日曜日から始まっていました」


もう一度送る。画面の中でもう一つの画面が光り、土産の袋を提げて笑っている二人が小さく映った。


「取り繕わなくて、結構ですよ。フィオナ」


もう一度。


「どうすればいいか、分かりますね?」


葵は再生を止めた。


「これ、あなたの声ですよね」


ヤンは答えない。息を吸って、吐けずにいる。


(フィオナさんは、これを、一人で聞いたのか。)


腹が立っていた。


葵は端末の画面を、ヤンの目の高さまで持ち上げた。


「この映像に、御社の機密情報はありませんよね」


ヤンの目が、初めて葵の顔に留まる。


「僕は、契約を全部読みました。あの契約が守るのは、会社が持っている情報です」


「あなたがフィオナさんにしたことも、しようとしたことも、そこには入っていません」


ヤンが半歩下がった。踵が木箱に当たって、それ以上は下がれない。


ドラウグル兵は動かなかった。命じる声が、出ていなかった。


「アービターに、出します」


「契約神魔を出したところも、映っています」


ヤンが資材の上の方へ目を走らせた。探し当ててからも、しばらく目を離せずにいる。


「フィオナさんに、二度と近づかないでください」


黒い戦闘服が輪郭から薄くなり、灰色の空にまぎれて消えた。ヤンが立ち上がる。作業着の埃を払う手は、途中で止まった。


何も言わずに背を向ける。歩き方がだんだん速くなり、途中から走りに変わった。


葵はその背中へ手を向けた。


「光よ、満ちよ」


白い光が背中に追いついて、一度だけ濃くなってほどけた。ヤンは振り返らない。速度も落とさなかった。


「なんで」


頭の中の声が、短かった。


「痛そうだったから」


ライラはそれきり何も言わなかった。


葵はフィオナの手を取った。両手で包むと、指は冷たく、骨が固い。折った方の手だけが、まだ細かく震えている。


「フィオナさん」


「……申し訳、」


騎士の言葉が半分だけ戻って、そこで止まった。


「怖かったよね」


フィオナの指が、葵の手の中で一度だけ動いた。


「ごめんね」


フィオナは首を横に振り、それから、振るのをやめた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


社員食堂に入ると、魚の匂いがした。


大鍋の中で、乳色のスープが揺れている。底の方にじゃがいもと人参。隣は肉団子で、茶色いソースの表面に脂の輪が浮いている。


葵は二人分を盆に載せ、パンを二つ取った。


席は昨日と同じで、自由だった。フィオナを窓際の卓に座らせ、葵は向かいに座る。


昨日はこの時間、隣の卓まで人で埋まっていた。今日は両側が空いたまま、誰も来なかった。


盆を持ったシーグリが通りかかって、会釈をした。それだけで、そのまま通り過ぎていく。昨日は同じ卓で「いい街でしょう」と言った人だった。


「みんな、知ってる」


襟の内側から、頭の中へ声が落ちてくる。


「だれも、見てないのに」


葵は答えなかった。


フィオナが匙を取った。スープの面が揺れる。


手首から先だけが止まらず、二度目で匙を置いた。


「……葵くん」


「うん」


「怖かったので……食べさせて、ください」


葵は自分の匙を取った。鱈の白い身と、じゃがいもの角を一つ掬い、息を吹きかけてから差し出す。


「あーん」


フィオナが口を開けた。


飲み込んでから、目のふちが赤くなった。


「……おいしいです」


「うん」


パンをちぎって、葵はスープに浸した。フィオナはそれも待っている。


「……もう一口」


端末が短く鳴った。


パンをちぎる手を止めて、葵は画面を見た。


配置換えの通知だった。本日午後より、外環区画の警備補助。集合は十三時、場所は地図に印がついている。持ち物は支給品一式。


「こんな予定、なかった」


葵はもう一度、最初から読んだ。


「うん」


「外環区画、とは」


フィオナが口を閉じて訊いた。


「行けば、分かると思う」


葵は端末を伏せて置き、パンをスープに沈めた。窓の外はもう昼で、それでも空の色は朝と変わらない。


フィオナがまた、口を開けて待っていた。


葵は匙を取った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。