第208話 脅迫
昼の合図が鳴ると、実射場の空気がゆるんだ。清掃を終えた者から銃を棚に戻し、耳栓を外して食堂の方へ流れていく。
葵は返却票を係に渡し、レーンの列を端まで目で追った。
「フィオナさん、どこに行ったのかな」
襟の内側でライラが動き、葵の頭の中に声がした。
「あっち」
指した先は扉の向こうで、葵は理由を訊かなかった。ライラに分かるのはいつものことで、どうして分かるのかを確かめたことは一度もない。
外へ出ると、冷たい空気が耳の奥まで入ってきた。灰色の空の下に木箱と鋼材の束が並び、どれも薄く雪をかぶっている。
その向こうから男の悲鳴が短く上がった。フィオナのいる方へ、葵は走った。
資材置き場の裏でヤンが膝をついていた。右手を左手で押さえている。押さえきれていない指が二本、あらぬ方を向いていた。
その前にフィオナが立っている。剣は抜いていない。両手を体の脇で、握っては開いていた。
葵を見て、フィオナの顔が崩れた。
「葵くん!」
葵殿、ではなかった。
「わわ、私の胸を、う、上書きしてくださいっ」
「上書き」
「上書き、上書きだよ、触られたから、葵くんが上から触れば、なかったことになるでしょ」
「フィオナさん、落ち着いて」
「査定、日曜からだって、私のせいで葵くんの評価が下がってたって、それで名前も、私、名前なんて教えてないのに」
言葉が順番を持っていなかった。査定と、名前と、胸とが、どれも言い終わる前に別のものへ変わる。葵は聞き取れた語を頭に並べたものの、意味の通る形にはならなかった。
ヤンが顔を上げた。
「ただで済むと思うなよ」
敬語ではなかった。月曜の朝から一度も外れなかったものが、そこだけ外れていた。
左手が右手を離れ、空を短く払う。
黒い戦闘服が立っていた。フルフェイスのヘルメット。肩は呼吸で動かない。
ドラウグル兵だ。飛行機で斜め前に立っていたものと、同じ姿だった。
フィオナが葵の前に出た。剣は抜かない。背中の下の方が、細かく震えている。
葵は杖を呼ばなかった。魂の中にあるものは、呼べばその場で手に来る。呼ぼうとは思わなかった。
襟の内側で、ライラは動かない。
そこで、葵の端末が鳴った。
差出人の欄は空だった。映像が一つと、文字が一行。
「アービターに出す、と言うべき」
葵は映像を開き、音量を上げて、端末をヤンの方へ向けた。
画面の中は、いま立っているこの場所だった。角度が高い。ヤンの声が、風の音の上に乗って流れ出す。
「葵くんは、現時点で最下位です」
ヤンの喉が動いた。
葵は指で先へ送った。
「査定は、日曜日から始まっていました」
もう一度送る。画面の中でもう一つの画面が光り、土産の袋を提げて笑っている二人が小さく映った。
「取り繕わなくて、結構ですよ。フィオナ」
もう一度。
「どうすればいいか、分かりますね?」
葵は再生を止めた。
「これ、あなたの声ですよね」
ヤンは答えない。息を吸って、吐けずにいる。
(フィオナさんは、これを、一人で聞いたのか。)
腹が立っていた。
葵は端末の画面を、ヤンの目の高さまで持ち上げた。
「この映像に、御社の機密情報はありませんよね」
ヤンの目が、初めて葵の顔に留まる。
「僕は、契約を全部読みました。あの契約が守るのは、会社が持っている情報です」
「あなたがフィオナさんにしたことも、しようとしたことも、そこには入っていません」
ヤンが半歩下がった。踵が木箱に当たって、それ以上は下がれない。
ドラウグル兵は動かなかった。命じる声が、出ていなかった。
「アービターに、出します」
「契約神魔を出したところも、映っています」
ヤンが資材の上の方へ目を走らせた。探し当ててからも、しばらく目を離せずにいる。
「フィオナさんに、二度と近づかないでください」
黒い戦闘服が輪郭から薄くなり、灰色の空にまぎれて消えた。ヤンが立ち上がる。作業着の埃を払う手は、途中で止まった。
何も言わずに背を向ける。歩き方がだんだん速くなり、途中から走りに変わった。
葵はその背中へ手を向けた。
「光よ、満ちよ」
白い光が背中に追いついて、一度だけ濃くなってほどけた。ヤンは振り返らない。速度も落とさなかった。
「なんで」
頭の中の声が、短かった。
「痛そうだったから」
ライラはそれきり何も言わなかった。
葵はフィオナの手を取った。両手で包むと、指は冷たく、骨が固い。折った方の手だけが、まだ細かく震えている。
「フィオナさん」
「……申し訳、」
騎士の言葉が半分だけ戻って、そこで止まった。
「怖かったよね」
フィオナの指が、葵の手の中で一度だけ動いた。
「ごめんね」
フィオナは首を横に振り、それから、振るのをやめた。
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社員食堂に入ると、魚の匂いがした。
大鍋の中で、乳色のスープが揺れている。底の方にじゃがいもと人参。隣は肉団子で、茶色いソースの表面に脂の輪が浮いている。
葵は二人分を盆に載せ、パンを二つ取った。
席は昨日と同じで、自由だった。フィオナを窓際の卓に座らせ、葵は向かいに座る。
昨日はこの時間、隣の卓まで人で埋まっていた。今日は両側が空いたまま、誰も来なかった。
盆を持ったシーグリが通りかかって、会釈をした。それだけで、そのまま通り過ぎていく。昨日は同じ卓で「いい街でしょう」と言った人だった。
「みんな、知ってる」
襟の内側から、頭の中へ声が落ちてくる。
「だれも、見てないのに」
葵は答えなかった。
フィオナが匙を取った。スープの面が揺れる。
手首から先だけが止まらず、二度目で匙を置いた。
「……葵くん」
「うん」
「怖かったので……食べさせて、ください」
葵は自分の匙を取った。鱈の白い身と、じゃがいもの角を一つ掬い、息を吹きかけてから差し出す。
「あーん」
フィオナが口を開けた。
飲み込んでから、目のふちが赤くなった。
「……おいしいです」
「うん」
パンをちぎって、葵はスープに浸した。フィオナはそれも待っている。
「……もう一口」
端末が短く鳴った。
パンをちぎる手を止めて、葵は画面を見た。
配置換えの通知だった。本日午後より、外環区画の警備補助。集合は十三時、場所は地図に印がついている。持ち物は支給品一式。
「こんな予定、なかった」
葵はもう一度、最初から読んだ。
「うん」
「外環区画、とは」
フィオナが口を閉じて訊いた。
「行けば、分かると思う」
葵は端末を伏せて置き、パンをスープに沈めた。窓の外はもう昼で、それでも空の色は朝と変わらない。
フィオナがまた、口を開けて待っていた。
葵は匙を取った。




