第207話 羽織る狼
朝、箱の中身を初めて全部着た。
灰色の作業着だった。厚みがあって、肘と膝のところだけ、布を二枚重ねてある。裏返すと、背中に灰色の狼が入っていた。
透明な保護眼鏡。耳栓。防護手袋。布の袋に入った靴。全部、サイズが合っていた。
実射場は工場棟の裏の、細長い建物だった。中に入ると、雷雨のあとに似た匂いが薄く混ざっていた。作業着の三十人が並ぶと、背中の狼も三十匹並んだ。
「おはようございます」
ヤンは昨日と同じ、糊のきいたシャツの上に、同じ作業着を羽織っていた。
「今日は一日、実射試験のお手伝いをお願いします。昨日ご覧いただいた通り、試射はAIが全数行います。ですが——握った感じ、狙った感じ、撃った感じ。使い心地だけは、AIには採点できません。そこが人間の仕事です」
歩きながら、列の前を往復した。
「皆さんには当社の製品を実際に撃って、一射ごとに評点をつけていただきます。数字はどれも、次の製品に活かされます」
それから、にこやかに付け足した。
「事務志望の方にも、こちらをやっていただきます。当社の社員は、全員、自社の製品を撃てますので」
誰も驚かなかった。壁際の見学席で、フィオナが背筋を伸ばして座った。
手順の説明は、係の男が引き継いだ。装填、レーンの表示の確認、射撃、一射ごとの評点入力。丁寧で、速くて、一度きりだった。葵は端末にメモを取った。顔を上げると、メモを取っている者は、ほかに一人もいなかった。
説明が終わると、全員が銃の台へ動いた。標準モデルは次々に持ち上げられていき、葵の着いたとき、残っていたのはひとまわり大きい一丁だけだった。
「対魔獣の大口径仕様です」
係が事務の高さで言った。
「光条が広がるので、両隣で的の作業中は、安全装置で撃てません。ご了承ください」
空いているレーンは、列のど真ん中だけだった。両隣には先客がいて、どちらも小ぶりの標準モデルを構えている。弾倉が、滑るように換わる型だった。
葵はメモを見ながら装填した。魔力セルの向き、安全装置の位置、評点の書式。一つずつ確かめると、一つずつ遅れた。耳栓は不思議と、銃声だけを薄くした。
構えたところで、右から声がした。
「的を交換しますね」
丁寧な声だった。ボタンの音とともに、葵のレーンの表示は赤に変わった。的が下り、新しいのが迫り上がって、表示は緑に戻る。構え直すと、今度は左だった。
「的を交換しますね」
両隣は、そのあいだも普通に撃ち続けていた。通告は、葵にだけ来た。タイミングは、計ったように交互だった。
頭の中で、ライラの声がした。
「また、とまった」
表示が緑のうちに、葵は撃った。
反動は思ったより強く、体が後ろへ持っていかれた。葵は力で止めず、半歩引いて、腰で回して、流した。銃口は、的から外れないままだった。
両隣の音が、一瞬だけ止まった。それから、また続いた。
評点の欄に、操作性、照準、反動、と並んでいる。葵は一射ぶんを丁寧に書き込んだ。書いているあいだに、右の的が、また下りていった。
壁際でフィオナが、小さく拳を握っていた。
午前は、まだ長かった。
その後も、的の交換は二度あった。二度とも、丁寧な通告つきだった。
早い者が、終わり始めた。規定の射数を撃ち終えた者から、銃を提げて後ろの清掃台へ移っていく。葵の評点は、まだ半分だった。
一番端のレーンの男が、振り返って言った。
「もしよかったら、こちらをどうぞ。私はもう終わったので」
感じのいい声だった。
(……最初から、空けておいてくれたら、よかったんじゃないだろうか。)
言わなかった。
「ありがとうございます」
端のレーンは、隣が片側しかなかった。ロックは半分になり、射数は少しずつ進んだ。反動の流し方にも、体が慣れてきた。
十一時半に、端末が短く鳴った。評点の提出時刻だった。延長の欄は、どこにもない。葵のシートは、半分と少しのまま送信された。誰も、何も言わなかった。
最後の三十分は、撃った銃の清掃と返却点検だった。大口径は部品が多く、磨き終えたのは最後になった。磨きながら、反動は強いのに癖は素直な、悪くない銃だと思った。
片付けの途中で、係がフィオナに歩み寄った。
「お手伝いを、お願いできますか」
フィオナが立ち上がって、嬉しそうに頷いた。昨日から、ずっと座って見ているだけだったから。
葵は手元の銃に目を戻した。フィオナが連れられていくのを、それきり見なかった。
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フィオナが連れて行かれたのは、実射場の裏の資材置き場だった。木箱が高く積まれて、建物の陰で銃声が遠くなる。手伝いの道具は、どこにも見当たらなかった。
待っていたのは、ヤン一人だった。
「すみません、お呼び立てして」
にこやかな声だった。フィオナは騎士の姿勢で立った。
「お手伝いと、伺いましたが」
「ええ。その前に、少しお話を」
ヤンは端末を取り出して、画面をフィオナへ向けた。名前の並んだ表だった。一番下に、葵の名前があった。
「葵くんは、現時点で最下位です」
天気の話と、同じ高さの声だった。
「当社に就職するには、適性がない、としか言いようがありません」
何かの間違いだ、と思った。フィオナは背筋を伸ばしたまま、一歩も引かなかった。
「……まだ、初日と半日にございます。それに、葵殿は真剣にやっています」
「ええ、その通りです」
ヤンは素直に頷いた。頷かれたのに、何もよくならなかった。
画面を、指が滑った。
映像が流れた。日曜のカール・ヨハン通り。土産の袋を抱えて跳ねる自分と、氷の上で手を引かれて笑う自分が、綺麗な画角で映っていた。
「査定は、日曜日から始まっていました」
息を、一つ呑んだ。あの日の楽しかったものが、端から順に、別のものに変わっていく。手袋の中で、指先が冷えた。
「あの……それは、私が」
言いかけて、続かなかった。ヤンは急かさず、ただ待っていた。銃声が、遠くで規則正しく鳴っている。自分の心臓の方が、近くで鳴っていた。
「取り繕わなくて、結構ですよ」
ヤンが微笑んだ。
「フィオナ」
呼び捨てだった。二の腕に、さっと鳥肌が立った。名前を、教えた覚えはなかった。
「私は、葵くんを残したいと思っているんです。私には、選別の推薦権がありますので。ただ、推薦には——理由が要ります」
(私が、葵くんの評価を、落としていた)
怒っていい場面なのかどうかも、分からなかった。この人は、何も脅していない。にこやかで、丁寧で、言っていることは全部、数字と映像だった。それなのに、ここから動けなかった。動けば何かが、葵くんの何かが、また減る気がした。
「どうすればいいか、分かりますね?」
葵くんのためになるのなら、何でも教えてほしかった。
フィオナには、分からなかった。




