第206話 鎧の音8
宿舎二階の食堂は暖かく、窓の外の夜に、料理の湯気が薄く映っていた。
台は長く、大皿が並んでいた。焼いたサーモンは脂の照りを残し、タラの白い身は汁の中で崩れかけている。羊と甘藍の鍋は昨日の昼と同じ匂いで、その先からは知らない匂いが三つ四つ続いた。日替わりらしい煮込みと、色の濃い野菜の皿。ワッフルの焼き型と茶色いチーズの塊は、一番端の台にあった。
「葵殿、あれは」
フィオナの視線が、茶色い塊で止まっていた。
「うん、あとで取っておいで」
席は空いていた。フィオナは皿を盾のように水平に保って戻ってきた。サーモンとタラと鍋と、皿の裾に野菜が敷いてある。姿勢は正しく、量だけが多かった。
ライラは卓の小皿に、タラの身を一片もらった。両手で持って、少しずつ食べている。
タラは軽く煮てあって、匙で割れるほど柔らかかった。葵は一口食べ、何も言わずにもう一口食べた。
フィオナは背筋を伸ばしたまま、着実に皿を空けていった。鍋のお代わりに立ち、戻る途中で焼き型の前を素知らぬ顔で通り過ぎ、結局戻って立ち止まった。
「……葵殿。あれは、焼くのに少し時間がかかるそうです」
「じゃあ、先に頼んでおいたら」
「うむ」
フィオナが列に並びに行った。ライラが小皿の横に座り込んだ。
「……おなか、いっぱい」
「まだ二口目だよ」
「タラ、大きい」
焼きたてのワッフルには、茶色いチーズが薄く削って載せてあった。熱で角が丸くなっている。フィオナは一枚目を半分に割って、何も言わずに葵の皿へ置いた。
甘くて、後から薄く塩が来た。うまかった。
フィオナは一口ごとに目を細め、二枚目を焼きに行った。窓の外で街の灯りが並んでいた。誰も、しばらく何も言わなかった。
三枚目が終わる頃には、窓の湯気が薄くなっていた。
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一三一三号室の扉が閉まると、フィオナが両腕を下ろして長く息を吐いた。
「疲れましたぁ……」
騎士の姿勢が、扉の内側で解けた。時計は十八時四十五分を指していた。
「うーん」
フィオナが時計を見上げて、それから嬉しそうに言った。
「まだ、こんな時間なのですね」
「どうする? 町に行ってみる?」
「いえ。今夜は、部屋でゆっくりしたい気分です」
フィオナがソファに座り、リモコンを手に取った。ライラは葵の肩から降りて、クッションの上に丸くなった。
テレビがついた。ニュースの続きが流れ、切り替わりでCMになった。
画面が鏡のように割れて、黒い長髪のモデルが映った。新しいSNSの宣伝らしかった。モデルは振り返って笑い、知らない言葉を一行残して、終わった。
(どこかで、見たような?)
思い出せなかった。番組が戻り、フィオナが音量を一つ下げた。
「フィオナさん、今日はありがとうね。ずっと座りっぱなしで、大変じゃなかった?」
「いえ」
フィオナが胸を張った。
「頑張る葵殿は、とてもかわいらしく……見ていて、楽しかったです」
「そっか。楽しかったなら、よかった」
フィオナはリモコンのボタンを、上から順に試し始めた。画面が何度か切り替わって、映画の題がずらりと並んだ。
「葵殿、ここ、映画が見放題ですね!」
「ほんとだ」
葵は時計を見た。
「今から一本見て、お風呂に行くと、ちょうどいい時間かも」
「そうしましょう」
フィオナの指が、剣を構えた男の絵の前で止まった。ライラがクッションの上で、目だけを開けた。
映画は、甲冑の騎士が姫を守って旅をする話だった。古い作りで、馬がよく走った。
始まってすぐ、フィオナの背筋が伸びた。
「葵殿。あの構えは、違います」
画面の中で、若い騎士が剣を大きく振りかぶっていた。
「ああいうときは、もっと肘を畳むのです」
得意げな声だった。
しばらくして、また。
「剣を鞘ごと渡すのは、無礼にあたります。柄を向けて差し出すのです」
「フィオナさん、詳しいね」
「先日、ヒルド殿に習いました」
胸を張ったまま、正直に言った。得意げな顔は、それでも変わらなかった。
途中から、ライラは葵の膝の上で眠っていた。部屋は暖かく、画面の光だけが壁に動いていた。
決闘の場面では、フィオナが身を乗り出した。悪役が砂を投げると、本気で憤慨した。
「卑怯です!」
「そうだね」
終わりの方で、騎士が姫の手を取った。フィオナは静かになり、画面の光の中で、頬のあたりだけ色が違って見えた。何も言わないまま、最後まで観ていた。
エンドロールが流れて、部屋が少し暗くなった。
「面白かったね」
「……はい。良い騎士でした」
いつもより少し柔らかい声だった。ライラが膝の上で、小さく寝返りを打った。
エンドロールが終わると、葵はソファから立った。
「僕、妹とおやすみの電話をしたら、お風呂に行くね」
「葵殿」
フィオナも立ち上がった。
「わたくしも、妹殿にご挨拶をしたいです」
「そう? じゃあ、一緒に電話しようか」
端末をテレビに繋ぐと、画面いっぱいに呼び出しの輪が回った。三回目で繋がった。
雛の顔が、大写しになった。
「おにい……」
雛の目が、葵の隣で止まった。
「誰その女の人!」
フィオナが背筋を伸ばした。
「お初にお目にかかります、妹殿。フィオナ・オコナーと申します。ヴァルキリーにございます」
一礼して、誇らしげに続けた。
「葵殿には、生涯の面倒を見ていただく約束の身です」
「しょ……」
雛の口が、開いたまま止まった。クッションからライラが飛んで、画面の前に降りた。
「ライラが、一番目」
「ライラは知ってる! その人は誰って聞いてるの!」
フィオナがにこやかに頷いた。
「雛殿。わたくしのことは、お姉ちゃんと呼んでくださって構いませんよ」
「呼ばない!」
「ふむ」
フィオナが訳知り顔になった。
「雛殿は、お兄ちゃんが大切なのですね。取られると、思っておいでなのですね」
「なっ……ちがっ……お兄ちゃん! この人何なの!」
雛の顔が赤くなった。葵は少し考えて、簡単なところから言った。
「神魔を呼び出す儀式みたいなのをしたらね、フィオナさんが、ヴァルキリーになりたてで来てくれたんだ。僕の儀式でヴァルキリーになっちゃったから、僕が責任をもって、一生面倒を見るつもり」
「そんなのずるい!」
雛が画面に身を乗り出した。
「私も一生面倒みて!」
「うーん」
葵は少し考えた。
「お父さんとお母さんに怒られるかもしれないけど、それでもよければ、面倒を見てあげる」
「やった!」
頭の中で、ライラの声だけがした。
「また、あげた」
「葵殿!」
フィオナが振り向いた。
「甘やかしすぎです!」
「そうかな?」
画面の中で雛が笑っていて、フィオナが何か言いかけて、やめた。
「そういえば、妹殿」
フィオナが座り直した。
「わたくしにも、兄が一人おりまして」
「え、フィオナさんお兄ちゃんいるの!」
「はい。それはもう、心配のしすぎな兄でした」
「わかる!」
雛が身を乗り出した。そこからは、兄の話になった。兄はすぐ心配する。兄はすぐ物をくれる。頼んでいないものまでくれる。
「葵殿もです。先日など、頼んでもいないのに」
「お兄ちゃんもそう! この前もね」
葵はソファで、聞いているだけになった。ライラが膝に戻ってきて、丸くなった。画面の中と外で、二人は同じ速さで笑った。
雛がふいに、画面の端の時計を見た。
「十五分経ってる! 全然お兄ちゃんと話せてない!」
「ごめんね。また明日、電話するから」
「うん……。でも、フィオナさんと友達になれて、よかった」
フィオナが真顔になった。
「雛殿。友達では、ありません」
一拍おいて、胸を張った。
「義姉妹です」
「認めないからね! おやすみ、お兄ちゃん!」
言うだけ言って、通話は切れた。
暗くなった画面に、満足そうなフィオナが映っていた。
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スパは今夜も、貸切のように空いていた。ライラは桶の中で二巡目に「きた」と言い、葵は板の通りに三度繰り返して、何も来なかった。ただ、体は軽くなった。
部屋に戻っても、フィオナはまだだった。葵はベッドの上で膝を組み、カヴィヤに教わった呼吸を始めた。吸って、四つ数えて、吐く。日課だった。ライラが隣で同じ形に座って、先に眠くなっていた。
扉が開いたのは、それを三巡した頃だった。
「葵殿、お待たせしました」
フィオナの髪はいつもより艶めいて、石鹸とは違う、花のような匂いがした。昨日より、ずいぶん念入りに磨かれている。
「係の方が、今日も無料ですと仰るので……その、お任せしていたら」
フィオナが胸を張った。
「どうですか、葵殿。わたくしの、大人な美貌は」
それから急に、声が小さくなった。
「……我慢できないなら、ちょっとくらい……」
「昨日もきれいだったけど、今日はますますきれいだね」
葵は棚からタオルを取った。
「髪、乾かしてあげるね」
「…………はい」
フィオナは何かを言いかけて、結局、椅子に座った。
タオルで挟んで押さえ、冷風を当てて、ゆるく三つ編みにする。いつもの手順だった。フィオナは目を閉じて、されるままになっていた。
明かりを落とす前に、葵は今日を一度だけ数えた。工場と、検品と、封筒。人造神魔に繋がるものは、一つもなかった。
(明日は、何か掴めるだろうか。)
二十三時、窓の外で街の灯りが一斉に消えた。オーロラは、今日も見なかった。




