第216話 取り分
角を曲がる前から、声が聞こえていた。
「誰か来て! うちの人が、うちの人が変なのに」
「お父さん! お父さんどこ!」
「開けてくれ、俺だ、俺だってば!」
女の悲鳴と、子供の泣き声と、扉を叩く音。角を曲がると、細い道に人が溢れていた。半分は普通の住民で、家の戸口や窓から顔を出し、道の真ん中を見て叫んでいる。道の真ん中にいるのは、黒い戦闘服の男たちだった。
十人ほど。全員がヘルメットを被っておらず、全員が同じ顔をしていた。
今朝、階段の下で見た顔だった。棺に入っていった夜番の、あの三十代の男の顔が、十人分ある。ただし、今朝の顔は誰も何もしていなかった。ここにいる十人は、泣いていた。怒鳴っていた。自分の手を見て、その手で自分の顔を触っていた。一人は道にしゃがみ込み、一人は隣の一人の肩を掴んで揺さぶっている。
「あんた誰よ」
戸口の女が、黒い服の一人に向かって叫んだ。
「俺だ。俺だよ。話し方で分かるだろ」
黒い服の一人が、男の声で答えた。女は首を振って、扉を閉めた。閉めてから、隙間を少しだけ開けて、また見た。
隣の家の窓から、端末を構えている男がいた。撮っている。その後ろから年寄りの女に腕を引かれて、窓を閉めさせられた。向かいの家では母親が子供を二人まとめて抱えて中へ引き込み、扉を閉め、閉めた扉の内側からまだ叫んでいた。
子供が二人、道の端で泣いていた。「お母さん」と呼んでいる。黒い服の一人が、その子供の方へ手を伸ばし、途中で止めた。自分の手を見て、伸ばすのをやめた。
葵の足が、一度だけ止まった。
(あの顔だ。)
同じ顔で、同じ体で、それぞれが別のことをしていた。
マグヌスは止まらずに腰の魔導銃を抜き、手だけで班を左右へ散らして道の真ん中へ出た。冗談を言うときの声は、どこにもなかった。
「動くな。全員、そこにいろ。戸口の連中は中へ入れ。窓も閉めろ」
戸口の顔は引っ込み、扉と窓は閉まって、黒い服の十人だけが道に残った。誰も動かず、同じ顔が同じ方を向いて、マグヌスの銃口を見ていた。
「あの人」
ライラの声が、頭の中で鳴った。
「泣いてる。あっちの人、怒ってる。こっちの人、こわがってる」
「うん」
葵は答えた。今朝の階段の下で、ライラは「みんな同じ」としか言わなかった。同じ顔を前にして、今は一人ずつ違うことを言っている。葵はそれを、変だとは思わなかった。
屋根の上に、黒いものがいた。
小さい。膝の高さもない。山羊のような形で、目だけが黄色く光っている。視界の端に文字が並んだ。
(プーカ)
すぐに出た。壁もなく、間もなかった。
マグヌスは銃口を屋根へ向け、しばらく黙っていた。それから息を吐いた。
「……小悪魔じゃねえか」
銃は下ろさず、班の男たちも構えを解かない。壁を越えて中に入ったものは、大きくても小さくても、同じ扱いだった。
「プーカ……でしょうか」
フィオナが葵の後ろで、小さく言った。自信のない声だった。
「子供の頃に、そういう名前のものの話を、聞いたことがあります」
「ああ、プーケだ」
マグヌスは屋根から目を離さずに言った。
「この辺じゃそう言う。爺さんの話に出てくるやつだ。本物を見たのは初めてだがな」
フィオナはプーカと呼び、マグヌスはプーケと呼び、解析録はまた別の綴りを出していた。どれも、間違ってはいなかった。
屋根の上のプーカが、首を傾げた。人の言葉で言った。
「みんな同じ顔。面白いでしょう」
子供の声に似ていた。
「てめえがやったのか」
マグヌスが言った。
「うん。ぼくがやった。みんな同じにした」
プーカは嬉しそうに言った。道の十人は一斉に屋根を見上げた。同じ顔が十、同じ角度で上を向く。あの小さいものが、この人たちをこの姿に変えたのだと、葵にもそこで分かった。
マグヌスの指が、引き金にかかった。
撃った。
音は短かった。光の条は屋根の縁を走り、瓦を一枚砕いて落とした。プーカはそこにいなかった。瓦の落ちる音が消える前に、二軒先の屋根で、鷲の形になったプーカが翼を畳んだ。目だけは同じ黄色だった。
「どこ行った」
「あっちだ、二軒先」
「鳥になりやがった」
班の男たちの声が飛んだ。マグヌスは銃口を二軒先へ向け直し、撃たなかった。鷲の形は、くすくすと笑っていた。子供の笑い方だった。
「当たらないよ」
プーカは言った。
「それに、当たっても痛くないよ」
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「おい」
マグヌスは銃口を向けたまま言った。
「お前、どこから入った」
プーカは首を反対へ傾げた。鷲の形のまま、屋根の縁に爪をかけている。
「夜のうちに投げ込まれたのか。でかいのに、石と一緒に」
「おぼえてない」
プーカはそう言って、くすくす笑った。子供が隠し事をするときの笑い方だった。
「おぼえてない。気がついたら、こっち側にいた」
「嘘つけ」
「嘘じゃない。ほんとに、おぼえてない」
マグヌスは何も言わなかった。銃口は動かず、屋根のプーカを見たまま、何かを考えている顔をしていた。葵には、何を考えているのか分からなかった。
「マグヌスさん」
葵は言った。
「あの小悪魔、退治しちゃうんですか」
「そのつもりだ」
「確かに悪いことはしましたけど、殺してしまうほどでは、ないような気がします」
マグヌスが横目で葵を見た。それから道の十人を見て、また屋根を見た。
「戻せるのか、あれを」
「分かりません。訊いてみます」
葵は、歩き出した。
「近づくな」
マグヌスの低い声は、葵の背中が班の列を越えてから届いた。葵は止まらなかった。フィオナは半歩遅れて続き、マグヌスの銃口は一瞬だけ下がって、また上がった。
葵は屋根の下まで行って、見上げた。黄色い目が、葵を見下ろした。鷲の形が、いつの間にか山羊の形に戻っていた。
「こんにちは」
「こんにちは」
プーカは、少し嬉しそうに答えた。
「何が面白いの」
葵は訊いた。プーカは、少し考えた。
「みんな同じだと、誰が誰か分からない。分からないのに、分かる。あの人はあの人で、あの人はあの人。声で分かる。歩き方で分かる。面白い」
「うん」
葵は道を振り返った。同じ顔が十、こちらを見ている。どれが誰かは葵には分からず、戸口の女や子供には分かっていた。
「とっても面白いけど」
葵は屋根を見上げたまま続けた。
「みんな困ってるから、元に戻してほしいな。どうしたら戻してくれる?」
黄色い目が細くなった。
「取り分」
「取り分?」
「ぼくの取り分。もらってない。ずっと、誰もくれない。おじいさんのおじいさんの、もっと前から、誰もくれない」
葵には分からなかった。振り返ると、マグヌスも分かっていない顔をしていた。
「……取り分」
フィオナの声が、葵の後ろから小さく届いた。
「子供の頃に、聞いたことがあります。畑の端を刈り残しておくと、帰ると。取り分を残すのだと。本当かどうかは、分かりませんが」
「畑なんかねえぞ、ここには」
マグヌスの声だった。フィオナは少し考え、自信のなさそうな声のまま続ける。
「では、皿では、どうでしょうか」
屋根の上で、黄色い目がまた細くなる。
「いい」
プーカの声がした。
「皿でいい」
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ヘルガの店は、二本先の角にあった。
行くのは葵とフィオナとマグヌスのはずだった。道を歩き出すと、黒い服の十人は後ろから付いてきた。マグヌスに「来るな」と言われて止まり、マグヌスが歩き出すとまた付いてくる。三度目で、マグヌスは何も言わなくなった。同じ顔の十人は細い道を一列になって歩き、窓という窓から人に見られていた。誰も声をかけなかった。プーカは屋根の上を跳んでついてきた。
店の扉を開けると、ヘルガは鍋の前にいた。
マグヌスの顔を見て、次に葵を見て、それから戸口の外に並んだ同じ顔の列を見た。お玉を持った手が、一度止まった。止まったのは、それだけだった。
「一皿でいいのかい」
「一皿でいいと思います」
葵は答えた。ヘルガは何も訊かず、鍋から今朝の分を皿に盛った。昨日の残りの羊と甘藍で、湯気が立っている。店の奥から出てきた子供がその皿を両手で受け取り、店の前の石段まで運んだ。学校へ行く前の格好で、靴の紐は片方ほどけていた。
石段に皿が置かれ、それだけだった。誰も何も言わず、マグヌスは銃を下げないまま、道の向こうの屋根を見ていた。同じ顔の十人は、少し離れて、石段の皿を見ていた。
プーカが、屋根から降りてきた。
音はしなかった。石段の前に立ち、皿を見て、それから葵を見た。黄色い目が、細くなった。
「取り分」
プーカの声は、皿に向いていた。
「もらった」
皿には手を付けず、ただ皿の前に立っただけだった。
最初に戻ったのは、声だった。
列の端にいた一人が「あ」と言った。その声は、さっきまでの男の声ではなく、女の声になっていた。次に手が戻る。黒い手袋の手は、赤く荒れた女の手になった。それから顔も戻り、黒い服は消えて、朝の作業着になった。中年の女で、口を開けたまま自分の手を見ていた。
二人目は、子供だった。同じ顔の一人が急に小さくなり、七つか八つの男の子になって、足元に大きすぎる黒い靴だけが残った。男の子は靴を蹴って、裸足で道を走った。
三人目は、戻る途中で笑い出した。顔が半分戻ったところで、その顔で笑っていた。戻りきってから、隣の一人の肩を叩いた。隣の一人も、その手で叩かれているうちに戻った。
同じ顔だったものが、一人ずつ、別々の顔になっていった。
扉が開いた。さっき扉を閉めた女は道へ飛び出して、戻ったばかりの男に抱きついた。子供が二人、走って、一人の女の腰に飛びついた。誰も、誰を探すか迷わなかった。声で、歩き方で、手の動かし方で、最初から分かっていた。
同じ顔をしていた人たちが、別々の顔で泣いていた。
葵はそれを、最後まで見ていた。
「面白い」
プーカが、葵の足元で言った。
「きみ、面白い。撃たなかった。話した」
「うん」
「また、来る」
「来てもいいけど、いたずらはしないでね」
葵が言うと、プーカはくすくす笑った。
マグヌスはそこで銃を腰に戻し、屋根の上ではなく足元にいるプーカを、しばらく見下ろしていた。
「規定だ。壁の外へ帰す」
プーカに言ったのか、班に言ったのか、分からない声だった。
「歩け。飛ぶな。飛んだら撃つ」
「うん」
プーカは、素直に歩き出した。
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壁の上には、何も残っていなかった。
籠を上げて縄を外した二人は、言われた通りに何も残していなかった。マグヌスはそれを見て、長く息を吐いた。
「組み直せ」
誰も文句を言わなかった。昨日と同じ順番で、同じ部品が並んでいく。三度目で、葵は言われる前に部品を渡した。
プーカは壁の縁に座って、組み上がっていく昇降機を見ていた。山羊の形で、黄色い目を細めている。班の男たちは、そのプーカから一番遠い側で作業をした。近づいたのは、部品を渡す葵だけだった。
「あれに乗るの」
プーカが訊いた。
「そうだよ」
「飛んだ方が早い」
「飛んだら撃たれちゃうかも」
「当たらないのに」
くすくす笑って、それきり黙った。
マグヌスは工具を回していた。しばらく黙っていて、それから顔を上げずに言った。
「さっきは、悪かったな」
「何がですか」
「撃ったことだ。あれが小せえのは見りゃ分かった。分かってて撃った」
工具が止まった。
「壁を越えて入ったもんを、この目で見たのは初めてだ。三十年でな」
葵は次の部品を持ったまま、待った。
「この街はな、人がいなくなる」
マグヌスは工具を回し始めた。声は、昇降機の話をしているときと同じだった。
「本社の仕事に志願して出てくやつは別だ。書類に名前を書いて、手紙も来る。そうじゃねえのがいる。書類もねえ。手紙もねえ。朝起きたら、いねえ。年に一人か二人だ。多いときは、もっとだ」
「……どこに」
「知らねえ。知ってりゃ言ってる」
留め具を確かめ、次の部品へ手を伸ばした。葵が渡した。
「壁のどこかに穴があって、頭のいい悪魔が夜のうちに入って、連れてく。そう思ってる。他に考えようがねえ。壁の上には毎晩あいつらが立ってる。飛ぶもんも来ねえ。それでいなくなるんなら、穴だ」
プーカは縁の上で、黙って昇降機を見ていた。
「報告は上げてる。何年もだ。班長の仕事だからな。人がいなくなりました、壁を調べてください、ってな。返事は来る。調査の結果、異常なし。毎回それだ。壁は調べたのかって訊いても、調査の結果、異常なし」
工具を放って、立ち上がった。
「会社に言っても、調べやしねえ。あいつらにとっちゃ、外環の人間が一人二人減ったところで、何も減ってねえんだよ」
プーカを見た。
「だから撃った。初めてだったからな、入ってきたやつを見たのは。穴の証拠みてえなもんだ。そう思ったら、手が動いてた」
「でも、あれは」
「ああ。人を連れてくやつじゃねえ。分かってた」
マグヌスは息を吐いた。
「それでも、入ってきた。どっかから」
葵は何も言わなかった。壁の外を見た。裸地と、擬岩と、装置と、灰色の塊。どこにも穴は見えなかった。見えないから無いのだとは、葵は思わなかった。
昇降機の脚は四本とも立ち、縄は滑車を通った。マグヌスは籠を縁に寄せ、顎で示した。プーカは籠に跳び乗り、底の真ん中に座った。籠の縁より、頭が低かった。
「下ろせ」
縄が動き、籠は縁を離れた。葵は縁から下を見た。籠は壁に沿って揺れずに降りていき、プーカは底に座ったまま、上を見ていた。黄色い目は、葵を見ていた。
籠が地面に着いた。
プーカは籠を出て、壁の根元に立った。灰色の塊の脇を通り、装置の前を通り、装置には目もくれずに、裸地を歩いていった。振り返らなかった。擬岩の一つを通り過ぎ、その先で一度だけ跳んで、それきり小さくなった。
「行った」
ライラが言った。
「遠くに。もう、見えない」
葵は縁から離れなかった。マグヌスは縄を引いて籠を上げさせ、上がりきってから端末を出した。指が動いて、止まり、また動いた。
「報告書ですか?」
葵が訊くと、マグヌスは画面を見たまま答えた。
「壁を越えて入ったのが一体。無害。規定により壁外へ帰した。以上だ」
送信の音がした。
「穴のことは」
「書いた。何年も書いてる」
マグヌスは端末をしまわずに、しばらく持っていた。それから片手で煙草を出し、端末の火で点けた。三秒かけて出る火を、今日は舌打ちしなかった。一本吸い終わるまで、端末は鳴らなかった。
「やっぱり、どっかに穴がある」
誰に言ったのでもなかった。吸い殻を靴で踏んで、班の方へ歩き出した。
「よし、あのデカブツを引き上げるぞ!」
壁の下の灰色の塊は、朝より白くなっていた。
空で、音がした。
ヘリだった。街の方角から、壁の方へ向かって来る。低い。マグヌスが足を止め、空を見上げた。班の男たちも見上げた。
音は、外環の上で旋回を始めた。




