第204話 好かれない側
社員食堂は研修棟の一階にあった。天井が高く、昼の光は石の床まで届いている。配膳台のほうから、湯気と煮た魚の匂いがしていた。
席は決まっていなかった。葵は空いていた端の卓に盆を置き、フィオナが隣に座った。
「葵殿、スープはおかわりが自由だそうです」
「よかったね」
向かいにシーグリが盆を置いた。朝の自己紹介で、トロンハイムから来たと言っていた人だった。
「ここ、いいですか」
「はい、どうぞ」
「葵さん、でしたね。オスロは、初めてですか」
「はい。土曜に着きました」
「いい街でしょう」
「明るい街ですね」
シーグリは微笑んで、スープに口をつけた。魚のスープは白く、匙の柄まで温かかった。それきり話は続かず、沈黙は気まずいものではなく、ただそこに置かれていた。
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研修室に戻ると、卓の上の名札が並び替えられていた。
戸口で、何人かの足が短く止まった。誰も何も言わずに、自分の名前を探して散っていく。
「席替えをさせていただきました」
ヤンがスクリーンの前から言った。
「せっかくの機会ですから、班の外の方とも仲良くなってください」
頭の中で、ライラの声がした。
「おくの席の人たち、ざわざわしてる」
「顔は、しずかなのに」
葵の名札は、第三の卓の朝と同じ席にあった。卓の顔ぶれは、全部変わっていた。白板は綺麗に消されていて、隅にあった「星」の一字も、もうなかった。
暖房はよく効いていて、座ると、暖気が足元からゆっくり上がってきた。
「では、発表をお願いします」
一班の代表は、背の高い女だった。立ち上がって一礼し、私たちの班は案Cを選びました、と言った。理由は三つ。照明は、壁の防御力に寄与しないこと。壁を越えられた事例は、過去に一度もないこと。突破された場合の対応手順が、確立していること。話し方は明瞭で、どこにも無駄はなかった。
長さを測ったような拍手が起き、ヤンは卓のあいだで同じ深さで頷いていた。
二班の代表は言葉を少し入れ替えて、同じ三つを言った。「削るのは安全ではなく、安全の余裕です」という一文だけが新しく、それも資料の中の言い回しだった。
三班はヘンリクで、二つ隣の卓から立ち、原稿も端末も持たずに前へ出た。声はよく通る。順番も呼吸も、朝の口述と同じだった。
「検知から十二分で、壁沿い区画の避難は完了します」
数字は最初からそこにあったもののように、文の中に収まっていた。葵は手元の抄録に目を落とした。同じ数字が、同じ頁にある。
頭の中で、ライラの声がした。
「ぜんぶ、覚えてる」
それきり、声はしなかった。
葵は、班ごとの違いを探しながら聞いた。違うのは、語尾と、立ち方くらいだった。四班の代表が二つ目の理由を終えたとき、次に来る言葉は、聞く前から分かった。
「三つ目は、対応手順の確立です」
葵が頭の中に並べた言葉と、助詞まで同じだった。
(同じだ。)
五班も案Cだった。同じ長さの拍手が起き、スクリーンは同じ地図を五回映し、誰も驚かなかった。
葵の拍手だけが、毎回すこし遅れて始まった。それを気にする者も、いなかった。
ヤンが前に出て、明るい声で言った。
「全班一致ですね」
「すばらしい。理由も、それぞれ筋が通っていました。何か、質問はありますか」
葵は手を挙げた。
「今日のは、都市Xの話でした。実際のお仕事でも、ああいうふうに、命を勘定に入れて比べることがあるんですか」
「あります」
ヤンは一拍も置かずに続けた。
「毎日、しています」
部屋は静かなままだった。葵はもう一度、口を開いた。
「普通の会社は、低い可能性でも、人が死ぬかもしれない案は選ばないんじゃ、ないんですか」
「普通の会社も、数えていますよ。数えていないように見せるのが、上手なだけです」
ヤンが一歩、卓の方へ近づいた。
「当社は、隠しません。誰かが数えなければ、街は守れません。そして、数えた誰かは、好かれません。市民の皆さんに数えさせないこと、嫌われる側を引き受けること——それが、当社のような会社の役割だと考えています」
正しいことしか、言っていなかった。訊いたはずのことは、いつの間にか、立派な話になっていた。どこで変わったのか、探しても見つからなかった。
「ありがとうございます」
葵は手を下ろした。ほかに手は挙がらないまま、スクリーンの地図が消えた。
「十分だけ、休憩にしましょう」
窓の外は、まだ明るかった。
休憩が終わると、スクリーンは白いままだった。表も、図もなかった。
「皆さん、気になっていたんじゃないですか」
ヤンが両手を軽く広げた。
「当社での雇用形態などを、説明させていただきます」
そのまま卓のあいだへ、歩いて降りてきた。
「ヘンリク。当社の初年度年俸、いくらだと思いますか」
「三十万クレドです」
即答だった。スクリーンに同じ数字が映り、誰も驚かなかった。
「その通りです。では、年間の休日は」
「百四十日です」
別の卓から、また即答があった。ヤンが楽しそうに両手を合わせた。
「皆さん、よく調べていらっしゃる。当社は、調べてくる方が好きですよ」
それから、固定給は正直に言って高くありません、と続けた。
「上に成果給が乗ります。乗り方は、人によります」
ヤンは歩きながら話し続けた。足音は柔らかく、声だけが部屋の隅まで届いた。
「そして三年目に、選別があります」
そこで初めて足を止め、卓の並びを軽く指した。
「十二年前、私は皆さんの側に座っていました。同期は、三十一人です」
一拍、置いた。
「通ったのは、二人でした」
部屋は静かだった。驚いた静けさではなく、答え合わせの静けさだった。ペンの速さは、変わらない。
「通れば、一千万クレド級。落ちれば、据え置きです。落ちた同期も、いまも当社で働いていますよ。いい会社ですから」
笑う者はいなかった。
保険と休日と就業時間の頁は、速く流れた。休日は多く、就業時間は短く、読み上げるほどのことはない、という速さだった。数字はどれも、隠されていなかった。
「宿舎のスパは、社員も使えます。皆さんはもう、ご存じですね」
小さな笑いが起きて、すぐに収まった。
頭の中で、ライラの声がした。
「あの人たち、知ってる」
「知ってるのに、書いてる」
葵も端末にメモを取った。三十万クレド、成果給、三年目。どれも、初めて聞く数字だった。
三十万クレドは、大金だった。一年目の会社員が貰う額ではない。物価は島より高いはずだが、それでも平均的な給金の倍以上はあるだろう。休日にも、保険にも、就業時間にも、おかしいところは見当たらなかった。
葵には、入るつもりがなかった。メレク・ルーメンの仕事は始まったばかりで、蒼玲からは天龍集団に誘われている。進路のことは、まだ決めていない。それでも、目の前の条件は確かめた。
(おかしな点は、なさそうだ。)
誓約書のときも、そうだった。どこにも、引っかかる場所がなかった。
見学席ではフィオナが指を折って、一千万の桁を数え直しているようだった。
説明が終わると、ヤンは端末を閉じて、思い出したように付け足した。
「それから。研修のあいだ、毎日夕方に一人を選んで、一万クレドをお渡ししています。その日、一番だった方にです」
「該当者なし、という日もあります」
基準は、最後まで言われなかった。誰も何も訊かず、ペンの音だけが少しの間続いていた。
「では、行きましょう」
ヤンが扉を開けた。
「工場を、ご案内します」
廊下の窓から入る光が、もう斜めになっていた。




