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第203話 第三の卓

 休憩は十分しかないのに、部屋の輪は一分で出来上がった。


 コーヒーの魔法瓶の前に短い列ができて、列のまま会話が始まっている。誰も窓の外を見ない。誰も一人で座らない。十分を十分のまま使う人は、この部屋にいなかった。


 お手洗いから戻った男に、近くにいた女が歩み寄って、何かを短く伝えた。男は頷いて、礼を言った。言われた通りのことが、言われた通りに行われていた。


 葵は杯に水を注いで、壁際の見学席へ持っていった。


「ありがとうございます、葵殿」


 フィオナは背筋を伸ばしたまま座っていて、受け取った水を両手で包んだ。


「皆さま、お仲がよろしいのですね」


「そうだね」


 視線の先では、今朝初めて会ったばかりの人たちが、十年の同僚のように笑い合っている。嘘の笑いには見えなかった。フィオナにも、葵にも。


 端末が震えた。画面に卓の番号と、名前が並んでいる。第三の卓。アオイの下に五つの名前。知っているのはヘンリクだけだった。


 さっきの通知は、班分けだった。


「わたくしは、ここから応援しております」


「うん。行ってくるね」


 葵は空になった杯を受け取って、第三の卓へ歩いた。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 第三の卓は窓際にあった。丸い木の卓に、椅子が六脚。


「アオイですね。よろしく」


 先に来ていたヘンリクが手を差し出した。握った手は乾いていて、力の入れ方まで感じが良かった。


「リーヴです。よろしくお願いします」


 栗色より暗い髪の女だった。細い角の神魔を連れていた人だと、葵は思い出した。声は柔らかく、目尻が下がると人懐こい顔になる。残りの三人とも名前を交換して、卓は一分で和やかになった。今朝が初対面の六人には、とても見えなかった。


 ヤンが部屋の中央で手を叩いた。


「では、始めましょう。架空の都市の話です」


 照明が半分落ちて、正面に白い文字が浮かんだ。都市X。


「人口八十万。壁に囲まれた都市です。この冬、発電施設が一基止まって、夜の電力が三割足りなくなります。資料の中に、対応の案が三つ入っています。作ったのはAIです。計算の上では、どれを選んでも同じ——そういう三つです」


 ヤンは机の縁に軽く腰を預けた。


「昔は、こういう研修では皆さんに案を作ってもらいました。今はやりません。案を作るのは、AIの方が速くて正確だからです」


 誰も笑わなかった。当たり前のことだからだった。


「では、人間の仕事は何か。選ぶことです。選んだ理由を、人に説明することです。それから、決めたことに自分の名前を書くことです。AIは案を作りますが、署名はしません」


 ヤンは立ち上がって、軽く両手を開いた。


「ですから当社は、選んで、責任を持てる人と働きたい。——班で一つ、選んでください。選ばなかった二つの案についても理由も添えてください。最後に、全員で必ず署名を。時間は九十分です」


 係の女が卓を回って、灰色の紙冊子を置いていった。第三の卓に置かれたのは、二つだった。六人に、二つ。説明はなかった。誰も訊かなかった。


「ああ、それから」


 ヤンが戸口の方へ歩きながら、付け足した。


「議論は記録します。では、どうぞ」


 砂時計が返された。大きな、九十分の砂だった。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 ヤンの背中が離れて、それからの十秒で決まった。


「進行を僕がやります。異議はいつでもどうぞ」


 ヘンリクが言い終わる前に、隣の女が砂時計を自分の手元へ引き寄せていた。


「タイムキーパー、やりますね」


「板書、やります」


 もう一人の男が立って、卓の脇の白い小さな板を引き寄せる。灰色の紙冊子は、一つはヘンリクの手の中に、もう一つは眼鏡の男の手の中にあった。こちらは、宣言がなかった。


 十秒だった。役が三つ、資料が二部。配られたものは五つで、卓には六人いた。


 葵は隣の眼鏡の男に言った。


「見せてもらっていいですか」


「どうぞ」


 男は快く紙冊子を卓の真ん中へ寄せた。ただ、ページをめくる速さは男の速さだった。表紙。三つの案。共通のデータ。目が追いつく前に、紙は次の紙になった。


 めくられる途中で、綴じられていない一枚が滑り出て、卓の中央に残った。避難計画抄録、と題がある。誰も手を伸ばさなかった。


「これ、読んでいいですか」


「どうぞ」


 誰の返事だったのかは、分からなかった。


 葵はその一枚を手元に置いた。卓を見回すと、配られた五つは、四人の前に集まっていた。ヘンリクは進行の役と紙冊子。砂時計と、ホワイトボードと、残りの紙冊子が、一人に一つずつ。葵の前には、誰も取らなかった一枚。


 向かいのリーヴの前にだけ、何もなかった。


 リーヴは手ぶらのまま、両手を膝に重ねて、皆の支度を目尻の下がった顔で眺めていた。


 議論は、綺麗に立ち上がった。


 ヘンリクの進行は上手かった。論点を三つに割り、板書の男がそれをホワイトボードへ写し、砂時計の女が「最初の十五分で資料を共有しましょう」と区切る。誰も遮らず、誰も黙り込まない。教科書のような立ち上がりだった。


 葵はその間に、手元の一枚を読み終えた。避難計画抄録。壁際地区の避難の手順が、番号つきで並んでいる。二度読んで、数字を覚えた。読み方は、契約書のときと同じだった。


 顔を上げると、向かいのリーヴと目が合った。


「これ、読みますか」


 葵は紙を差し出した。リーヴの前には、まだ何もなかったから。


「結構です。ありがとう」


 目尻が下がって、感じのいい顔になった。葵は紙を手元へ戻した。


 共有は進んだ。紙冊子を持つ二人が交互に読み上げ、ヘンリクの要約を板書が追いかける。


「——夜間の電力は住宅が四割。案Aの制限で、不足分は吸収できる」


 ヘンリクがそう纏めたとき、リーヴが初めて口を開いた。


「その数字、共通データ集の三頁の右下だと、冬季の平均です。夜間に限ると、もう一段低いはずです」


 眼鏡の男が頁をめくった。三頁、右下。その通りだった。


「ありがとう。では、夜間の値で」


 ヘンリクは滑らかに言い直し、板書の数字が書き換えられた。


 リーヴの前には、紙が一枚もない。誰もそれに触れなかった。眼鏡の男も、ヘンリクも、砂時計の女も、当たり前のことのように次へ進んだ。


 頭の中で、ライラの声がした。


「あの人、読んでない」


「なのに、知ってる」


 たぶん、毎年似た課題が出るんだろう、と葵は思った。ここの先輩に聞いて、覚えてきたのかもしれない。だが、覚えているだけでは、ああいう言い方はできない。中身を分かっていて、出す場所を選んで、会話の流れを取れる人なのだろう。


 その後もリーヴは、二度、同じことをした。頁の数字まで、二度とも正しかった。


 誰も、驚かなかった。


 三つの案は、板書の男の手で三行に並んだ。


 Aは夜のあいだ、住宅の非優先回路を落とす。暖房と医療はそのまま、消えるのは明かりと娯楽。Bは夜間操業の工場を輪番で止める。Cは防衛系統への給電を絞る。落ちるのは外周の照明と、監視網の一部。数字は眼鏡の男が読み上げ、板書の男が写していく。どの数字も、最後は同じ場所へ帰った。三十年の期待値で、三案は同点。


「同点なら、コストの質で比べましょう」


 ヘンリクが言った。砂時計の女が砂の残りを見て、頷く。


「各案、十分で」


 Aは長く保たなかった。


「公平ではあります。八十万人で薄く分け合うので」


 眼鏡の男が資料をめくった。


「ただ、八十万人の冬の夜を四か月消します。不満は電力と違って、薄く分けても薄くなりません」


「苦情の処理に人と金が要ります。その費用は、この表の外です」


 ヘンリクが受けて、板書のAの横に、外部費用、と書かれた。誰かの案が、誰かの言葉で削られていく。削られて痛む者はいなかった。Aは、まだ誰の案でもなかったから。


「Aも、いいと思います」


 葵は言った。


「暗いのは、慣れると思います。それに、この街は少し、明るすぎる気がします」


 卓が一拍、静かになった。誰の表情も、変わらなかった。


 頭の中で、ライラの声がした。


「いま、みんな、ピリってした」


 葵は壁際の見学席を見なかった。見なくても、続きは来た。


「顔は、うごいてない。でも、ピリってした」


 何がピリッとしたのか、葵には見えなかった。


「あなたの島では、夜は暗いですか」


 眼鏡の男が訊いた。


「暗いです。そのぶん、星が見えます」


「なるほど」


 それから、と葵は続けた。


「ここに来て、土曜の夜に二十三時の消灯を見ました。オーロラショーが始まる前の少しのあいだ、星がたくさん出ていました。明かりを絞れば、あれが毎晩見られるはずです」


「節電のあいだ、星を見るキャンペーンを行えば、我慢だけの四か月にならないと思います」


「いい話だと思います」


 ヘンリクだった。


「ただそれは、案を選んだ後の、実施の工夫ですね。隅にメモしておきましょう」


 板書の男が、板の隅に小さく、星、と書いた。


 話はBへ進んだ。Aの行は消されなかった。ただ、誰もそこへ帰らない。星の字も、そのままだった。


 Bは、Aより少しだけ長く保った。


「補償の枠が資料にあります。数字の上では、労働側は守られます」


「守られません」


 砂時計の女だった。


「熟練の人は、四か月も手を止めたら他所へ流れます。流れた人は、補償では戻りません」


「同意見です。それに、輪番の対象には防衛装備の系列工場も入ります。生産を止める判断を、この会社の名前で書くのは筋が悪い」


 ヘンリクの言い方は丁寧だった。丁寧なまま、Bの横に、人材流出、と書かれた。


「整理すると、Cは市民の誰の生活にも触れない、唯一の案です」


 ヘンリクが言った。リーヴが頷く。


「壁は、照明がなくても壁ですから。監視の空白は、巡回の輪番で薄められます。壁を破る規模の相手には、照明があってもなくても、結果は変わりません」


「住民投票をしても、Cになると思います。自分の夜と、自分の職場を守る案なので」


 眼鏡の男が言い、板書のCの行に線が一本増えた。砂時計の砂は、まだ三分の一残っている。流れは、決まりかけていた。


「三つのうち、人が死ぬかもしれないのは、案Cだけだと思います」


 葵は手を挙げずに言った。ペンの音が止まった。


「AとBでは、誰も死にません」


「2045年も、前の日までは、誰も悪魔が来ると思っていませんでした」


「今日来なかったことは、明日来ないことの保証にならないと思います」


 誰も、すぐには答えなかった。


 卓の上を、今朝の映像が通った。雪の広場。歩く速さを変えない影。誰も口にしなかったけれど、全員が同じものを思い出せる沈黙だった。


「おっしゃる通りです」


 リーヴだった。


「リスクはゼロではありません」


 目尻の下がった、感じのいい顔のままだった。


「ただ、その可能性は数字の上でとても小さい。避難計画が機能すれば、さらに小さくなります。AIの換算でも、命は夜の闇や仕事よりずっと重い。それでも、起きる確率を掛けると、三案は同点に並びます」


「人の命も、換算するんですか」


「します。しなければ、比べられないので」


 リーヴの声は、最後まで柔らかかった。


 砂時計の女が、砂の残りを見た。


「時間もいい頃です。決を取りましょう」


 ヘンリクが卓を見回した。


「案Cに賛成の人」


 手が五つ、挙がった。


 葵は少し考えて、自分の手も挙げた。多数がそう決めたのなら、それでいい。四か月のあいだ、来ないのかもしれない。それに、これは本当の街の話でもない。


「全会一致ですね」


 ヘンリクが言い、板書の男が、案C、と書いて丸で囲んだ。


 理由書きに移ると、卓の役割はもう一度細かく割れた。


 採用の理由はヘンリクが口述して、板書の男の清書で理由書の形になっていく。捨てた二案は、眼鏡の男と砂時計の女で分け合った。リーヴは資料の上に手を置いたまま、時々、言葉の選び方だけを直した。ヤンは卓の間をゆっくり歩いていて、どの卓の前でも止まらなかった。


「Cの安全側の根拠に、避難計画を引きましょう」


 ヘンリクが言った。


「避難計画なら、こちらにあります」


 葵は手元の別紙を持ち上げた。


「抄録ですけど、数字も載っています。読みましょうか」


「お願いします」


「壁沿いの区画は、検知から十二分で避難が完了します」


「警報から、ですか」


 眼鏡の男が訊いた。


「検知から、です。そう書いてあります」


「それです」


 ヘンリクは頷いて、板書の男へ向き直った。


「では、こう入れましょう。避難計画別添済み、検知から十二分で壁沿い区画の避難完了。よって案Cの安全性は、計画上担保されている」


 口述はよどみない。葵の読み上げた数字は、ヘンリクの文章の一部になって理由書に入った。誰が出した数字かは、紙の上に残らなかった。


「いい理由書になりました。数字が一つ入ると、全体が固く見えるので」


 ヘンリクの礼には、角がなかった。卓は次の行へ進んだ。


 リーヴが、葵を見ていた。


 初めてだった。視線は一拍だけで、何を言うでもなく、手元の資料へ戻っていった。


 葵は別紙を卓の端に置き直した。九十分近く卓にあったのに、紙にはめくり癖ひとつ、ついていなかった。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 砂時計の最後の砂が落ちて、ヤンが手を叩いた。


「お疲れさまでした。発表は午後にしましょう。昼まで、休憩です」


 卓の輪はすぐに崩れて、コーヒーの魔法瓶の前に列ができた。理由書は板書の男が清書を続けていて、ヘンリクはもう隣の卓の参加者と立ち話を始めている。笑い声まで聞こえて、部屋は九十分前と同じ、感じのいい部屋に戻っていた。


 葵は窓際に立った。昼が近いのに、光は低くて長かった。屋根の雪が白く光って、通りの街灯はまだ半分点いている。


 見学席のフィオナが、小さく手を振ってきた。振り返すと、満足そうに背筋を伸ばし直した。その膝から、ライラが飛んだ。誰にも止まらない高さを通って、窓の桟に降りる。


「さっきの、なんだったんだろうね」


 葵は窓の外を見たまま、小さく言った。


「わかんない」


「そっか」


「でも、みんなピリってした」


 ライラは桟の上で膝を抱えた。羽の先が、硝子に触れそうで触れない。


「大通り、夜でもピカピカだった」


 土曜の夜を思い出した。スパのテラスから見えた、白い灯りの列。終わるところまで、ずっと点いていた。


「この街の人、夜が怖いのかも」


「そうなのかな」


「わかんない」


 ライラはそう言って、それきり黙った。


 窓の外で、街灯が順番に消えていった。陽の高さのせいなのか、どこかで誰かが決めたのか、それは分からなかった。

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