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第202話 狼の紋章

 部屋に戻ると、椅子の背の服が明かりの下で待っていた。葵の制服と、フィオナの濃紺の服。葵は端末を充電器に置き、ライラの羽をタオルの端で挟んで、そっと水気を取った。


「あしたから、頑張ろうね」


「ん」


 扉が開いたのは、そのときだった。


「葵殿!」


 フィオナが立っていた。頬から首筋まで、湯上がりの色よりもう一段つやめいて、濡れた髪は光っている。肌のどこにも角がなかった。


「聞いてくださいませ。スパの係の方が、ぜひにと仰るので、お肌の手入れというものを受けてまいりました。サービス、だそうです」


「よかったね」


「無料、ということです」


「うん、知ってる」


 フィオナは一歩近づいて、髪を片側に寄せた。それから胸を張った。


「どうですか葵殿。お姉さんの魅力に、メロメロですか」


「うん。とってもきれいだね」


 即答だった。フィオナの用意していた次の台詞が、どこかへ行った。


「髪、乾かそうか」


 葵が椅子を鏡の前に引くと、フィオナは何も言わずにそこへ座った。順番はもう決まっている。フィオナがいる夜は、いつもこうしている。


 乾いたタオルで髪を挟んで、こすらずに、上から押さえていく。毛先まで来たら、また上から。水気が布に移って、タオルが少しずつ重くなった。それからドライヤーを冷風にして、根元に指を入れながら、ゆっくり当てた。


 温風より、ずっと時間がかかる。葵は急がなかった。


「葵殿の手は、器用でございます」


「そうかな」


「湯より、こちらの方があたたかい気がします。冷たい風なのに」


 フィオナの目は、途中から閉じていた。膝の上で組んだ指がほどけて、肩の力が抜けている。ライラは枕元のタオルの上から、乾いていく髪を見ていた。


 指を通しても、どこにも引っかからなくなった。葵はドライヤーを止め、髪を三つに分けて、ゆるく編んだ。強くは編まない。寝ている間に、髪が擦れないためのものだから。


「不思議な形でございます」


「朝、ほどくとちょっと波になるよ」


「……楽しみにしております」


「終わったよ。明日も早いし、もう寝ようか」


「……もう、でございますか」


 フィオナは椅子から立って、鏡の中の自分の髪を一度だけ見た。それから自分のベッドの端に座った。


「おやすみなさいませ、葵殿」


「おやすみ、フィオナさん」


 暗くなった部屋で、フィオナの髪の匂いだけが、しばらく新しかった。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 月曜の食堂は、日曜の夜と同じ場所とは思えなかった。


 話し声がない。皿の音と、端末を送る指の音がする。窓の外はまだ夜と同じ暗さで、参加者たちはコーヒーを片手に、画面から目を上げずに食べていた。フィオナは濃紺の服で葵の向かいに座り、周りを一度見てから、食べる速さを周りに合わせた。


 研修棟の部屋は二階にあった。入口の長机に名札が並んでいる。姓のない、名前だけの札だった。アオイ、と横文字で書かれた札を胸に付けた。名札は参加者の分だけで、神魔の分はない。長机の端にはコーヒーの入った魔法瓶と、杯が人数分。壁際の席から埋まっていき、誰も隣同士に座らなかった。


 八時ちょうどに、男が入ってきた。


 淡い灰色のニットに、糊のきいたシャツ。三十代の半ばに見えた。男は入口で立ち止まり、部屋を見渡して、両手を広げた。


「ようこそ、ヴァルハラへ」


 男が笑った。


「ヤンです。姓もありますが、覚えなくて結構。ここでは全員、名前だけです。私のこともヤンと呼んでください」


 歩きながら喋る人だった。机の間を回り、名札を見ずに何人かへ声をかける。書類で読んだ、と言いながら、出身も学校も間違えなかった。葵の横も通った。


「アオイ。遠かったでしょう」


「はい。飛行機で」


「私は島に行ったことがない。今週どこかで、話を聞かせてください」


 それだけ言って、次へ行った。感じのいい声だった。部屋の温度が一度、上がった気がした。


「十二年前、私はそこの席に座っていました」


 前に戻ったヤンが窓際の席を指した。


「皆さんと同じ、この一週間の参加者でした。だから知っています。初日の朝が、一番緊張する。なので今週、皆さんへのお願いは一つだけです。——楽しんでください」


 拍手が起きた。ヤンは軽く手を上げてそれを止め、照明を落とした。


「まず、当社を知ってください。」


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


映像は雪の広場から始まった。


2045年、新年の式典。手持ちのカメラの映像は斜めに走り、白い息の群衆は一方向へ崩れていく。太鼓のような低い音楽の上に、字幕が短く事実を置いていく。


軍の銃が火を噴いた。黒い影――悪魔たちは、歩く速さを変えなかった。


映像は逃げる人々を追った。倒れた露店と、置き去りの乳母車。雪の上を、荷物の引きずられていった跡。橇に老人を乗せて走る家族の、誰も後ろを振り返らない顔。体育館に詰め込まれた人たちは、毛布から顔だけ出して天井を見ていた。カメラに向かって男が何かを叫び、音楽が消えて、その声だけが流れた。誰かの、名前だった。


字幕が数字を置いた。最初のひと月で、帰らなかった人の数。


机の下で、フィオナの手が葵の手を握った。


剣を握る人の、力だった。葵は何も訊かなかった。握り返して、画面を見ていた。


次の映像は、火の入った工房だった。一人の男が金鎚を振るっていて、打たれた刃は、炉の火とは別の色に光り始める。男は顔を上げた。若かった。字幕が名前を置いた。エギル・ソルヴィク。目覚めたばかりの魔法の力で、悪魔たちに対抗するための武器を作った男。


武器を受け取る人々の列。狼の紋章の箱。配られた剣が、初めて影を斬った。それから映像は変わって、灰色の壁が地平まで伸びていく早回しになった。


壁の上に、黒い戦闘服の隊列が立っていた。


海から上がってくるものを、光の弾が迎え撃つ。濡れた腕は岸辺を掴む前に崩れて落ちた。山側の巨体は、夜通し暴れて朝日に追いつかれ、動きの形のまま石になっていく。石になった腕を、兵士が一人で登っていった。音楽はそこで一段、大きくなった。


映像はまた変わった。白い台所と、鍋の底の小さな狼。畳まれた寝具。薬の瓶の列。焼き上がったパンが窯から出てくる。生活のひとつひとつの隅に、同じ狼が入っていた。


それから、腕に装着された魔法デバイスが空に魔法陣を描き、魔導銃は的を光で貫き、黒い戦闘服は悪魔の炎を浴びて、煙の中から無傷で歩き出てきた。かっこいい、と思わせる順番に並べてあった。実際、かっこよかった。


三十年ぶんの朝と夜が重なって、最後に映ったのは、昼のように明るいカール・ヨハン通りだった。


最初の光から、最後の光まで。


字幕が消えて、明かりが戻った。


全部、本当のことだった。葵は土曜からの三日間で、映像の中のものをいくつも見ている。壁も、明るすぎる通りも、鍋の狼も。


イレムの言葉を思い出した。この会社なら、人造神魔を作っていてもおかしくない。参加証を渡してくれた人は、そう言った。作っているなら、こういう映像には映らない。しかし、映らないのは、作っていないからかもしれない。根拠は、まだどちらにもなかった。


(自分の目で、確かめる。)


頭の中で、ライラの声がした。


「この映画、きれいすぎる」


葵は表情を変えなかった。隣の席の男は、口元に薄い笑みを浮かべたまま画面のあった場所を見ていて、その顔からは、感動したのかしなかったのか、どちらも読み取れなかった。見回すと、部屋中がその顔をしていた。


フィオナだけが、背筋を伸ばしたまま、まだ画面の方を向いていた。三十年前の雪の広場を映していた場所を。何も言わなかった。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「では、お互いを知りましょう」


 ヤンが手を叩いた。


「お名前と、なぜ当社に来たか、それから意気込みを。三十秒ほどで。——安心してください、誰も三十秒では終わりません」


 また笑いが起きた。窓際から順番が始まった。


「ヘンリクです。オスロ大学で経済を学んでいます。子供の頃、あの壁の内側で育ちました。守られる側でした」


 金髪を短く刈った男だった。座ったまま話さず、立って、部屋の全員に顔を向けて喋った。


「悪魔の脅威のない世界を、今度はビジネスの側から作りたい。それができるのは、世界でこの会社だけだと思っています。一週間、全力で学びます」


 きれいな言葉だった。冷笑する者は一人もいなかった。拍手が起き、次に移った。


「シーグリです。トロンハイムから来ました」


 栗色の髪の女が立って、指を軽く鳴らした。彼女の後ろに、音もなく黒い翼の女が現れた。夜の色のドレスと、伏せた長い睫毛。翼の先は床に届いて、届いたところだけ影を濃くしていた。


「契約神魔のリリスベットです。人前が好きなので、出しました」


 笑いと、拍手。黒い翼の女は優雅に膝を折って礼をして、翼を畳みながら消えた。シーグリの志望理由も、まっすぐだった。祖母が2045年を生き延びたこと。恩を返す仕事がしたいこと。


 神魔を出す参加者は、彼女で三人目だった。細い角の女と、鎖の飾りを提げた女と、黒い翼の女。三人とも、女の人の形をしていた。きれいな人の形が多いんだな、と葵は思った。理由は考えなかった。


 順番が近づいてきて、フィオナが小声で言った。


「葵殿。わたくしも、立つのでしょうか」


「紹介するから、そのときに」


 葵の番が来た。立って、部屋を見た。


「アルカディア島のアカデミア・アルカナから来ました、小春葵です。将来、都市防衛に関わる仕事がしたくて、現場を見せていただきに来ました。一週間、よろしくお願いします」


 それから隣を手で示した。


「契約神魔の、フィオナさんです」


 フィオナが立ち上がった。背筋を伸ばし、右手を胸の前で握る。


「フィオナと申す。ヴァルキリーの端くれなれど、一週間、葵殿ともども世話になり申す」


 拍手は、他の誰のときとも同じ大きさだった。大きくも、小さくもない。三十秒の砂時計は、まだ半分残っていた。


 ヤンが拍手をしていた。手を打ちながら、その視線がフィオナの上にあった。


 一拍、長かった。


「ありがとう、アオイ。フィオナさんも」


 声は同じ温度のまま、次の席へ向いた。


 頭の中で、ライラの声がした。


「あいつ、フィオナを見てた」


「綺麗だから、見てたのかな」


 ライラは、それきり何も言わなかった。


 自己紹介が一周する頃、窓の外はゆっくり明るみ始めていた。九時前の、遅い夜明けだった。ヤンは窓を見て、それから全員を見た。


「日が昇りましたね。ちょうどいい」


 机の上で、端末が一斉に短く鳴った。


「十分、休憩にしましょう。そのあと、少しグループワークをしてもらいます。それまで、仲良く話していてください。もちろん、お手洗いも忘れずに」


 ヤンは戸口へ歩きながら、思い出したように振り返った。


「お手洗いから戻ってきた人には、どんな話をしていたか、簡単に教えてあげてくださいね」


 フィオナが葵の袖を引いた。


「葵殿。わたくし、うまく言えたでしょうか」


「うまかったよ。ヴァルキリーの端くれ、っていうところが、特に」


「端くれは、謙遜でございます」


「知ってる」


 窓の外で、遅い朝が街の屋根を順番に照らしていった。

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