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第201話 バーストゥ

階段を一段降りるごとに空気は湿ってあたたかくなっていった。


葵は桶を胸の前に抱えていた。中にライラが入っていて、縁から目だけを出している。


「下、あったかい」


「お風呂だからね」


突き当たりで通路は二つに分かれ、男の絵と女の絵を別々の扉に付けてある。男の側を押すと、木の匂いがした。


更衣室には誰もいなかった。床は石なのにあたたかく乾いており、光源はどこにも見えないのに、棚のあたりだけ低く照らされている。オークの棚に白いバスローブが人数分掛かり、その下にタオルが、パンのように厚く積んであった。


ライラが山のてっぺんに降りて、半分沈んだ。


「ふかふか」


「ほんとだ」


葵は一枚取って顔に当てた。タオルはあたためてあった。


「だれもいない」


「そうだね」


「ぜんぶ、ライラたちの」


「十一時までだけどね」


壁の時計は十時十五分を指している。葵は服を畳んで棚に入れ、桶を抱え直した。


浴室の区画は更衣室の奥からそのまま続いていた。ここも床の石はあたたかい。暗めの明かりの中を湯気は薄く漂い、その匂いに、木とは別の何かが混ざっていた。奥の硝子の向こうは白い霧の部屋で、霧は硝子を内側から舐めている。正面の壁には大きな板。一番上に、入り方、と書いてあった。


ライラが板の前まで飛んで、一番上から読みはじめた。


「はいるまえに、体をあらう」


「サウナは、八分から十二分。むりをしない」


「でたら、水をのむ。つぎ、冷たい水。そとで、やすむ」


一行ずつ体ごと下がりながら読んでいく。字は細かかった。汗をかく仕組みから、めまいがしたときの座り方、飲む水の量まで。順番に全部書いてある。


「これを、三度」


ライラが一番下まで降りて、最後の行の前で止まった。


「ただしくおこなえば、ふかい休息が、おとずれます」


「その通りにやってみようか」


「うん、やってみる」


葵は言われた順に体を洗った。シャワーの湯は、ひねる前から適温だった。ライラの桶にぬるい湯を張ると、ライラが縁に手をかけて、羽を上げたまま滑りこむ。湯の面に羽の先だけ出ていた。


一番手前の木の扉の上に、横文字の札が一つだけ出ていた。


「バーストゥ」


ライラが読んだ。


「サウナのことかな」


「へんなことば」


扉は厚く、引くと熱が顔ではなく胸に当たった。三段のベンチの木は飴色に焼け、部屋の隅の電気ストーブに灰色の石を積んである。温度計の針は八十を少し越えていた。ストーブの脇に備え付けの桶と柄杓、その横の小さな棚に、絵の描かれた小瓶を三本並べてある。白樺の絵、松の絵、赤い実の絵。葵は備え付けの桶の隣にライラの桶を置いた。桶が二つ、並んだ。


腰を下ろすと、熱は肩に積もっていった。背中に、腕に、乾いた重さで載っていく。それなのに、こめかみから上だけ薄い。息を吸っても、喉の奥が焼けなかった。


葵は手を頭の上に挙げてみた。指先だけ、別の温度に入った。境目は目に見えない。


「上、すずしい」


ライラが桶から出て、天井の近くをひと回りした。それから降りてきて、葵の肩に座った。


「した、あったかい」


ライラが足の先を、肩に付け直した。


「あたまは、すずしい」


「ここ、ちょうどいい」


肩の上で、羽をたたむ気配がした。


小瓶の棚の下に、石に水をかけるときは、まわりにひとこと、と札が出ている。まわりには誰もいない。


「かけるよ」


「ん」


「どれがいい?」


ライラは三本を順番に見て、赤い実の絵を指した。葵は柄杓の水に数滴垂らし、石に落とした。高い音が一度鳴って、すぐ低くなる。降りてきた熱の波は顔の前で二つに割れ、肩へ落ちた。森を煮詰めたような、甘い匂いがした。


「……もういっかい」


「まだ砂があるからね」


砂時計をひっくり返すのはライラの仕事になった。肩から飛んで、戻ってくる。二度目の柄杓で部屋の匂いはさらに濃くなり、腕に汗の粒が生まれた。生まれる瞬間まで、見えていた。


「あと十かぞえて」


葵は十かぞえた。


休憩スペースには寝椅子を並べてあり、卓の上に水差しが二つ。片方に赤い実と檸檬を浮かべてある。伏せた杯は列に並んで、使われた跡はない。葵は一杯注いで飲んだ。


冷たさは喉を落ちて、そこで消えなかった。胸へ、腕の内側へ、指の先へ。飲んだところと違う場所が、順番に潤っていく。乾いた体が水を配っていた。


「おいしい?」


「うん。体が飲んでる感じがする」


言われた通りにもう半分飲んで、冷水槽へ向かった。縁に、三十秒まで、と書いてある。足から入って肩まで沈むと、水は刺すように冷たかった。息は、止まらなかった。板には、息が浅くなったらすぐ出る、とある。そうならないまま数を数えた。


「いま出て」


出た。


テラスの扉の脇に、厚い毛織のポンチョが掛けてあった。頭から被ると、外の空気は顔だけに当たる。屋根のない板張りに木のベンチが二つ。手すりの上に雪は細く積もり、まだ少しずつ降っていた。葵はベンチの雪を払って座り、ライラの桶を膝に載せた。


体から立つ湯気は、雪の中へ消えていく。吐く息も白く、同じ方へ流れた。手すりの向こうは低い街だった。白い灯りの列がずっと先まで続き、あるところで終わっている。終わったところに、黒い環。夜より濃く横たわっていた。


街の音はここまで届かない。雪の音だけがした。


「しずか」


「気持ちいいね」


「ん」


ライラは桶の中で膝を抱えて、街を見ていた。雪がひとひら、桶の湯に落ちて消えた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


二度目に入る前、ライラが硝子の部屋を指した。


「つぎ、しろいの」


スチームサウナの中は一足ごとに霧が濃くなった。青い小さなタイルの腰掛けはほの温かく、白は天井も壁も呑んでいる。熱いというより、ぬるい湯の中を息で泳ぐようだった。まつ毛に露は溜まり、瞬きをすると水になって落ちる。背中を這うのは汗なのか霧なのか、区別はつかなかった。


「葵、きえた」


声はすぐ近くでした。


「いるよ」


「こえだけ」


水音が動いた。ライラが霧の中で場所を変えている。


「ライラ、どこいったの」


「あてて」


「うーん……右の、下」


「……なんでわかるの」


「気配がするから」


三度場所を変えて、三度当てた。ライラは霧の中で少し黙って、それから桶ごと葵の隣に戻ってきた。それきり何も言わず、葵は脈にあわせて数を数えた。


冷水槽の前でライラが縁から身を乗り出した。


「ライラも」


葵は柄杓で冷たい水をすくい、桶に一杯だけ入れた。ライラは一度縮んで、それから首まで沈んでいく。


葵も肩まで沈んだ。肌は冷たさを覚えているのに、体のどこも縮まなかった。脈で三十数えて出た。


テラスのベンチには、さっき払った跡の上にもう新しい雪が薄く載っていた。ポンチョを被り、桶を膝に載せる。


「……きた」


ライラが言った。


桶の中で目を閉じている。羽が濡れて、背中に小さく畳まれていた。


「なにが?」


「わかんない」


「ふわふわの、感じ」


「そう」


「すごい」


しばらくして、目を開けないまま言った。


「葵は?」


「どうだろう」


葵は目を閉じて、待った。板の最後の行を思い出した。ふかい休息が、おとずれます。雪の落ちる、あるかないかの音を聞いた。それから目を開けた。来ていなかった。


どこかを間違えたのだと思った。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


三度目は、乾いた方に戻った。


ライラはふわふわの余韻のまま、桶の中で半分眠っている。葵は赤い実の雫を落とした水を石にかけ、肩に積もる熱の中で、板の順番を一つずつ確かめながら回った。汗はもう、生まれる場所を探さなくてよくなっている。砂時計の砂が落ちきるまで座り、水を飲み、冷水槽に沈んで、テラスに出た。順番も、時間も、板の通りだった。


テラスの雪はやんでいた。


葵はポンチョの中で膝に手を置き、目を閉じた。体は軽かった。あたたかくて、冷たくて、そのどちらでもなくなっていく。その先を待った。


何も来なかった。


(何が来るはずだったんだろう。)


膝の上で水の動く音がして、ライラが桶の縁に顎を載せていた。


「葵、まだやる?」


「どこか間違えたのかもしれない」


「間違えてない」


ライラが目を開けた。


「ぜんぶ、見てた」


「板の通りだった」


「そっか」


葵は少し考えて、やめた。


ライラは桶の中で向きを変えて街の方を見た。濡れた羽の先から雫がひとつ落ちる。


「この桶、あったかい」


「よかった」


「つぎも、持ってきて」


「うん」


手すりの向こうで、街の灯りが一斉に消えた。


白く続いていた道は闇になり、黒い環も闇と一緒になって見えなくなった。街と壁の境目は、もう分からない。代わりに頭の上で星が増えていた。


「消えた」


「十一時だ」


葵は立ち上がり、ライラの桶の水をテラスの隅に空けた。ライラが濡れた羽のまま、ポンチョの肩に載る。


「おふろ、おわり」


「うん。あがろう」


扉を引くと、中のあかるさが目に刺さった。葵はポンチョを元の場所に掛け、空になった桶を抱えて、入り方の板の前を通り、更衣室へ歩いた。あたためられたタオルが、まだ山のまま残っていた。

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