第200話 おやすみの通話
ボランティア用の支給箱は紙ではなかった。薄い樹脂の箱で、蓋に留め具がついている。持ち上げると、思ったより重い。
葵は床に下ろして、留め具を外した。
一番上に紙が一枚あった。宿舎の案内で、食堂と洗濯場と浴場の時間が書いてある。裏は館内図だった。
その下に、二枚。
「葵殿」
「うん」
「顔がございます」
入館証だった。透明な板で、片方に葵の顔、もう片方にフィオナの顔が入っている。名前は下に小さく印刷してあった。フィオナの方には小春葵の契約神魔:ヴァルキリーと書かれていた。
葵は自分の分を持ち上げて、光にかざした。
写真を撮った覚えはなかった。
「わたくしのもございます」
「用意がいいね」
「よく撮れております」
フィオナは自分の顔を近くで見てから、卓に置く。
その下に、畳んだものが入っていた。
広げると、灰色の作業着だった。厚みがあって、肘と膝のところだけ布を二枚重ねてある。
裏返した。
背中に、灰色の狼が入っていた。
「また狼」
ライラが箱の縁に降りた。
「空港と、瓶と、公園」
「よく覚えてるね」
「数えてた」
フィオナの分もあった。並べると、丈が違う。
「合っております」
「うん」
その下は、細々したものだった。
透明な保護眼鏡。耳栓。防護手袋。布の袋に入った靴。
葵は靴を出して、底を見た。数字が入っている。
自分の足の数字だった。
「葵殿」
「どうしたの」
「よく気が回りますねえ」
「そうだねえ」
セキュリティカードの袋に、小さく畳んだ紙が入っていた。使い方が書いてある。首から下げること、無くした場合は届け出ること。それから、最後に一行あった。
「戦闘服着用時は、胸部の差込口へ」
「葵殿、これは」
「ボランティアで戦闘服を着るのかな」
「着るのでしょうか」
葵は紙を畳んで、袋に戻した。
箱の底には、もう何も残っていなかった。紙が一枚と、証が二枚と、着るものと、細々したもの。
端末が鳴った。
明日からの日程が届いている。八時に本社の正面、と書いてあった。その下は館内図で、行っていい場所と行ってはいけない場所を色で分けてある。
行ってはいけない方が広かった。
フィオナが案内の紙を取って、裏返した。
「スパは十一時まででございます」
「先に行っておいでよ。僕は妹と電話するから」
「では、お言葉に甘えまして」
フィオナが着替えを抱えた。
「わたくし、美しさを磨いてまいります」
「うん」
「明日は、鎧ではありませんから」
葵は椅子の背を見た。上着が掛かっている。
「でも、元から綺麗だよ」
フィオナが止まった。
「……えへへ。葵殿ってば」
フィオナの顔が緩んだ。
「ラ、ライラ殿も、いかがですか」
「まだ行かない」
「さようですか」
「ライラは、あとで葵と行く」
「さようで」
フィオナは扉の方へ歩いていく。
「行っておいでよ」
「はい」
扉が閉まった。
葵は椅子に座って、端末を立てた。
繋がるより先に、声が来た。
「オペラ!」
画面に雛の顔が入る。後ろは明るい。天井の照明がついていて、窓の外だけ暗い。
「オペラでしょ。昨日オペラ行くって送ってきて、そのあと『終わった』しか来てないんだけど。三文字だよ、三文字。それで寝たでしょ」
「うん、寝ちゃった」
「寝たんかい」
「ごめんね」
「別にいいけど。今日は三十分あるからね。昨日の分も足していいって、ちゃんと交渉したんだから」
「ありがとう、いっぱい話そうね」
「お礼はいいから、早く」
普段は一限と二限の間に、十五分だけ毎日喋る。アルカディア島では昼で、雛のスウェーデンは夜になっている。
今日は、どちらも夜だった。
「あ、待って。顔、暗くない? 電気つけて。もう一個ある?」
葵は立って、部屋の明かりをもう一つつけた。
「うん、見える。ライラも呼んで。ライラも聞くでしょ」
「ライラ」
「ひな」
ライラが卓の上に出てくる。画面の中で雛の顔が近くなった。
「ライラ、元気?」
「毎日会ってる」
「昨日は会ってないでしょ」
ライラが卓の端に座る。
「で? どうだったの、オペラ」
「面白かったんだけど、よく分からなかった」
「は?」
「話は分かったんだけど、よく分からなかった」
「どっちなの。ちゃんと話して、最初から」
葵は少し考えた。
「最初に、舞台の上が朝になった。魔法で」
「え、魔法使うの?」
「演出で。熱がなかったから、たぶんそういうやつ」
「へえ。それで?」
「男の人が出てくる。嘘つきなんだ。結婚式に行って、花嫁を連れて逃げる」
「最低じゃん」
「うん。途中で花嫁を置いて、山に入る」
「置いてくんだ、最低すぎるね」
「山にトロールがいて、王様に会う」
「トロール?」
「山にいるやつ。太陽に当たると石になるって」
「あー、知ってる。それで?」
「王様が、娘と結婚してトロールになれって言う。人間の掟は『人よ、汝自身であれ』で、トロールの掟は『己にのみ足れ』なんだって」
「……何それ。どういう意味?」
「似てるけど、逆なんだ」
「逆?」
「自分でいろ、と、自分だけで足りてろっていう意味なんだって」
雛が黙る。
「……ふうん」
「トロールにはなりたくないから逃げるんだけど、そのあと、形のないものに道を塞がれる」
「形がないもの?」
「うん。殴っても手ごたえがなくて、どこにでもいる。回れって言われる」
「よくわからないけど、なんかやだね、それ」
「うん」
雛が身を乗り出した。
「で、どうなったの」
「回り道して、そのまま何十年も外国にいて、おじいさんになって帰ってくる」
「おじいさんになっちゃうんだ」
「帰ってきたら、ボタンを作る人が待ってる」
「ボタン?」
「その人は、失敗した人を溶かして材料にするんだって。地獄に行くほど悪くもなくて、天国に行くほどよくもない人は、溶かされて材料になる」
「怖っ」
「自分は自分だったって証明できたら、溶かされないんだけど、できない」
「できないんだ」
「玉ねぎを剥く場面があって、剥いても剥いても中に何も出てこない。それが自分だって気づく」
「……」
「それで、どうなったと思う」
「え、私が当てるの?」
「うん」
「……溶かされたんじゃないの」
「その男のことを好きだった人が、小屋でずっと待ってた」
「……何十年も?」
「うん」
「その人、最低なのに?」
「うん」
「……そんな話、どこが面白いの。ずっと嫌な人の話じゃん」
「うん」
「うんって」
「よく分からなかったけど、すごかった」
「それで楽しめたの?」
「うん」
ライラが卓の上で、ふっと笑う。
「お子様には、分からない」
「……今、私のこと言った?」
「二人とも」
「なんですってー!」
雛が画面に詰め寄った。ライラは動かない。
「空っぽでも、待ってた。それだけ」
雛が口を閉じる。
「分かった?」
「……よく分かんない」
「ライラは大人」
「絶対嘘でしょ! ライラの方が小さいでしょ!」
葵が笑った。
「お兄ちゃんも笑わないでよ。お兄ちゃんだって分かってなかったでしょ」
「うん」
「うん、じゃないんだよ」
雛が口を尖らせて、それから座り直す。
「……で? 他には?」
「終わってから劇場を出ると、街の電気が全部消えて、オーロラが出た」
「オーロラ!?」
「うん。きれいだったよ」
「待って待って。街中に出たの? 写真は? 撮った?」
「撮ってない。……撮ればよかったね」
「そうだよ。なんで撮らないの、そういうの」
「ごめん」
雛が両手で顔を覆って、それから離した。
「もういい。次は撮って」
「うん、気を付けるね」
そのような調子で話を続けた。
「あのね、うちのクラス、さ来月劇やるんだよ。それで係決めがあってさ、私は絶対に音響がよかったの。音響なら座ってればいいから。なのにじゃんけんで負けて衣装になったんだよ。衣装だよ? 裁縫だよ? 私が一番苦手なやつ」
「手伝おうか」
「どうやって。ノルウェーにいるのに」
「……そっか」
「そうだよ」
「送るとかは」
「何を。私の代わりに縫ったやつを? 怒られるでしょ、それ」
「うん、そうだよね」
雛が笑った。
「あと、土曜にリンちゃんと湖に行ったの。白鳥が浮いててね、木がもう全部赤とか黄色で、すごくきれいだった。写真撮ればよかったんだけど、そのときは撮る気にならなかったんだよね。なんかもったいなくて」
「写真、撮れないときあるよね」
「そしたらリンちゃんが、鞄からスケッチブック出して描き始めたの。白鳥。すごく上手なんだよ。手がね、止まらないの。ずっと動いてる。……ちょっとかっこいいなって思っちゃった」
葵は聞いていた。
「絵、描くんだ」
「うん。私もやってみたいって言ったら、紙と鉛筆くれて。初めてなのに一緒に描いてくれたの。ゆっくりでいいよって。私のはぐにゃぐにゃだったんだけど、かわいいって言ってくれた」
雛が身を屈めて、何かを取る。
「見て。これ、リンちゃんの」
画面に紙が寄せられた。白鳥が一羽、水の上にいる。首の線は一本で引いてあった。
「上手だね」
「でしょ。ここ見て、下のとこ。トゥー・ヒナって書いてあるの。くれたんだよ、これ」
「よかったね。雛のも見たい」
「やだよ。ぐにゃぐにゃだもん」
「見たいよ」
「……今度ね」
雛が絵を胸の前に戻す。
「また行こうって言われたから、次はもうちょっとましなの描けるように、練習しようかなって」
「いいと思う。紙、あった方がいいのかな」
「え?」
「スケッチブック。売ってたから」
「買わなくていいよ! リンちゃんのがあるもん、どこで買っても同じだと思うし」
「そっか、同じか」
「買わないでよ、本当に」
「うん、分かった」
雛が疑わしそうに画面を見る。
「……そういえば、受験勉強の調子はどう?」
「……それ、言わないでよ」
雛が椅子にもたれる。
「来月なんだから、もう。分かってるよ、そんなこと。分かってるから言わないでほしいの」
「ごめん」
「別にいいけどさ」
しばらく、どちらも黙っている。
「大丈夫だよ」
「何が」
「雛は大丈夫だよ」
「……根拠は?」
「ない」
「ないんかい」
雛が笑って、それから息を吐いた。
「私さ、お兄ちゃんみたいにすごい魔法使いだったらよかったのに」
「なんで」
「だって受験しなくていいじゃん。……そうだよ、お兄ちゃん試験受けてないんだもんね」
「うん」
「いいなー。ずるいなー」
「どうだろうね」
「ずるいよ」
雛が両手を頭の後ろで組む。
「あとさ、もっとずるいと思うんだけど。そっち、感謝祭の休みあるんでしょ」
「うん」
「いいなー。こっちなんて普通に学校だし、普通に宿題出るし、その上で受験だし。何にもいいことない」
それから、口の端を少し上げた。
「……それにしても、お兄ちゃんは、もう就職活動してるんだ」
「就職活動?」
「そうでしょ。会社に行ってるんだから。私はまだ学生なのに、お兄ちゃんはもう働いてるんだよ。なんかずるい」
「ボランティアだよ」
「同じだよ、そんなの」
雛が笑い、葵もつられて笑った。
「ていうかお兄ちゃん、ちゃんと食べてる?」
「食べたよ」
「何食べたの、今日」
「鮭と、パンと、野菜と、お肉。あとスープと、じゃがいも。デザートも取った」
雛が動きを止めた。
「……え、食べてるじゃん」
「うん」
「食べてるね。お兄ちゃんにしては食べたね」
「食べ放題だったから」
「そうじゃなくて。前はさ、私が三回言わないとおかわりしなかったでしょ。どうしたの、急に」
「自炊するようになったから、かな」
「作る?」
「うん。部屋で」
「何作ってるの」
「煮込みとか。あと、魚を焼くのは上手くなったと思う」
雛が画面に近づいてくる。
「……今度私にも作ってよ」
「いいよ」
「絶対だからね。受験終わったらね」
「うん」
雛が椅子に戻る。
「でもさ、食べられるようになったのに、背は伸びないね」
「どうだろうね」
「私、お兄ちゃんより三センチ高いんだからね」
「知ってるよ」
「知ってるよじゃないでしょ」
ライラが卓の端まで歩いて、画面に近づく。
「昨日、いいの食べた」
「え、何。何食べたの」
「チーズ」
「チーズ? どんなチーズなの」
「茶色いチーズで、甘かったよ」
「茶色い?」
「うん」
「え、待って。チーズって黄色じゃないの。茶色くて甘いって、それもうチーズじゃなくない? お菓子じゃん。何、キャラメルみたいなこと? 全然想像つかないんだけど」
「うまく言えないな」
「それでよく食べたね」
「おいしかったよ」
雛が唇を尖らせた。
「いいなー。私も食べたい」
「送ったよ」
「……は?」
「今日、お店から。そっちの家に届くと思う」
「……嘘」
「ほんとだよ」
雛が口を開けて、閉じた。
「……ほんと、ありがとうお兄ちゃん」
「うん。チーズはみんなで食べてね」
「うん」
「あと、雛には別にお土産を送ったよ」
「え」
雛が画面から少し身を引いた。
「……ありがとう、お兄ちゃん」
「うん」
雛が椅子に沈む。髪を耳にかけて、それから画面の外を見た。
「届いたら写真送るから」
「うん」
「ていうかお兄ちゃん、そこどこ。いつもと部屋が違う」
「ボランティア先の宿舎」
「へえ、きれい。ホテルなんだ」
顔を近づけてくる。
「……あれ」
「うん?」
「後ろ。椅子のとこ。服、掛かってる」
「制服だよ。明日着るから」
「その隣」
葵は振り返った。椅子の背に、制服と、その横に女物の服が並べて掛けてある。
「これはフィオナさんの」
「……誰?」
「フィオナさん」
「だから誰!」
「僕の契約神魔」
雛が画面に顔を寄せた。
「契約神魔って、ライラでしょ」
ライラが卓の上で背筋を伸ばす。
「ライラは、一番目」
「一番目!? 増えたの!?」
「増えた」
「なんで言わないの!」
「言う機会がなくて」
「なんで言わないの?」
「うん、ごめんね」
「ごめんじゃなくって!」
雛が両手を上げた。
「いつから」
「先月くらい」
「一ヶ月以上黙ってたってこと?」
「ごめんね。雛の話を聞くのが楽しくて、忘れてた」
雛が口を開けて、閉じた。
「……そういうのずるいんだよ、お兄ちゃん」
「ごめん」
「で? その人、女の人でしょ。服がそれだもん」
「うん」
「同じ部屋なの?」
「うん。二人部屋だから」
「二人部屋!?」
雛の声が裏返った。
「待って待って。何歳の人?」
「二十歳くらい……かな。分からない」
「分からないってどういうこと!」
「本人も、たぶん分かってないと思う」
「もっと分かんないよ!」
ライラが卓の上で頷いていた。
「今どこにいるの、その人」
「お風呂。下にあるんだって。サウナの方が大きいらしい」
「じゃあ帰ってくるじゃん。見せてよ」
「まだ当分帰ってこないと思う」
「なんで」
「さっき行ったばかりだから」
「何それ」
雛が腕を組んだ。それから、急に静かになる。
「……茜さんは、知ってるの?」
葵は少し黙った。
「……言ってない、かもしれない」
「え」
「言った覚えがない」
「それ、まずいんじゃない?」
「そうかな」
「そうだよ。絶対まずいって」
「そうかな」
「まずすぎるよ」
雛の目が、画面の中の何かを追っている。
「でも、その服かわいいね」
「そう?」
「うん。襟のとこ。どこで買ったの?」
「ネットスーパーだよ」
「いいなー」
「雛のも送ろうか」
「いいってば! なんですぐそうなるの!」
「うん」
「うんじゃないの。もう十分もらってるでしょ、私」
頭の中に、ライラの声が届いた。
「あげすぎ」
「そうかな」
「そう」
あげすぎ、というのが分からなかった。
「何? ライラと喋ってる?」
「うん」
「私にも聞こえるようにしてよ」
「ごめん」
雛が息を吐いて、椅子に深くもたれる。画面の中の顔が少し遠くなる。
「……お兄ちゃんさ」
「うん」
「私がいなくて、寂しいでしょ」
「うん。寂しいよ」
「……そこ、即答しないでよ」
「ごめん」
「謝んないでよ」
雛が画面の外を見た。しばらく何も言わない。
「……私も」
聞こえるかどうかの声だった。
画面の向こうで、扉の開く音がした。
「雛、そろそろよ」
「はーい」
雛が顔を戻す。
「……もう三十分?」
「うん」
「早くない?」
「うん」
「明日は普通に十五分だからね。ちゃんと繋いでよ」
「うん」
「あと、寝てよ。あと食べてよ」
「食べてるって」
「もっと食べてよ」
「うん」
雛が手を上げた。振らずに、上げたまま止まっている。
「……おやすみ、お兄ちゃん」
「おやすみ、雛」
画面が暗くなった。部屋の音が、急に大きく聞こえる。
ライラは卓の上に座ったまま、まだ画面のあった方を見ていた。
「ライラ」
「ん」
「お風呂、行こうか」
ライラが立ち上がる。
葵は鞄を開けて、底から小さな桶を出した。ライラがちょうど収まる大きさで、島から持ってきたものだった。
ライラが桶の縁に手を掛ける。
「お風呂、行こう」




