第199話 これから頑張ろうね
六時十分前に部屋を出た。
エレベーターの中で、フィオナが背筋を伸ばした。顎の角度を上げて、肩を四角くする。鎧の肩当てが天井の照明を鈍く返した。
「そのままで行くの?」
「はい」
「ご飯、食べにくくない?」
「侮られるわけにはいきません」
二階で扉が開くと、匂いが来た。焼いた肉と、パンと、それから何か甘いものが混ざっている。
食堂は広かった。天井は高く、正面は全面のガラスになっている。外は暗く、ガラスに室内が映っていた。卓は二十ほど並び、半分ほどに人がいる。
壁際に長い台があった。
料理が並んでいた。金属の器をいくつも据えて、下から温めてある。蓋を上げると湯気が出た。パンは籠に山になっていて、種類は五つか六つある。冷たいものの区画には、切った鮭と、白い乳製品と、赤い実の付け合わせが並んでいた。
奥にローストビーフがあった。塊のまま置いてあり、人が立っていて、頼むと切ってくれる。
台の端に飲み物があった。保温の容器から珈琲が出るようになっていて、その隣に湯を張った箱と紅茶を並べてある。氷を詰めた器に瓶を立ててあって、赤いのと、金色に近い茶色のがあった。
瓶の腹に、樅の木が描いてあった。
「葵殿」
フィオナが台の端で止まっていた。
「多いです」
「いっぱいだね」
「食べ放題でございます」
葵は皿を取った。フィオナも取った。
給仕の一人が近づいてきて、二人の顔を見た。
「お席へご案内します」
「あ、はい」
「お取りになってからで結構です」
葵はパンを一つと鮭を少しと、温かい器から野菜の煮たものを取り、それから肉のところで一切れ切ってもらった。
フィオナは端から順に見ていって、それから戻ってきて、取り始めた。
肉を三種類。腸詰めを二本。揚げたものを四つ。煮込みを深皿に。パンを二つ。最後に肉の塊のところで、切ってもらった分を二枚重ねた。
皿が茶色くなっていた。
葵は自分の皿に目を落とした。鮭の橙と野菜の緑と、白いものが少し入っている。それから、フィオナの皿を見た。
「お野菜、取らないの?」
「これから取ります」
フィオナは新しい皿を取って、そちらに緑のものを盛った。それから瓶を一本取った。赤い方だった。
葵は自分の皿を持ち替えて、緑の皿の方を取った。
「持つよ」
「よろしいのですか」
「うん。こっちは少ないから」
給仕が先に立った。
卓の間を抜けていく。人が座っている区画を通り過ぎて、その先へ進んだ。窓に近い方の隅に、二人用の卓があった。他の卓から少し離れている。
「こちらでございます」
「ありがとうございます」
椅子を引いてもらって、二人とも座った。給仕は水を注いで、下がっていった。
葵は食堂を見渡した。
人がいるのは、入口に近い側だった。四人掛けや六人掛けに、何人かずつ固まっている。話し声がしていた。皆、同じくらいの年に見える。
こちらの卓までは、卓が三つ分空いていた。
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食べ始めてしばらくは、二人とも黙っていた。
肉は柔らかかった。噛むと繊維の間から汁が出て、外側の焼いた面だけ少し塩辛い。鮭は薄く切ってあって、脂は舌の温度で溶けた。パンは外側が固く、中は詰まっている。
フィオナは順番に食べていた。茶色い皿の左端から、右へ向かって進んでいく。腸詰めを二本とも食べ終えて、揚げたものに移った。
「美味しいです」
「美味しいね」
顎は上がったままだった。姿勢を崩さずに食べているので、腕の動きだけが速い。
フィオナが瓶を傾けて、一口飲んだ。
「甘いです」
「炭酸でございます」
葵は水を飲んだ。
入口の方で笑い声がした。何人か立ち上がって、台へ皿を取りに行っている。戻ってきた者は席に着き、また話が始まった。
言葉が二種類混ざっていた。片方はおそらくノルウェーの言葉で、もう片方は違う。
フィオナが揚げたものを食べ終えて、煮込みの深皿を引き寄せた。
そのとき、人が来た。
「こんばんは」
若い男だった。葵より少し年上に見える。皿を持っていて、そこにパンとサラダが少し載っていた。
「隣、いいですか」
「あ、はい」
男は空いていた椅子を引いてきて、卓の角に座った。
「アジアの方ですよね」
「はい」
「中国から?」
「いえ、アルカディア島です」
「ああ、はい」
男は頷いて、パンを一口食べた。
「じゃあ、学園の」
「はい、そうです」
「学生さんか」
葵は頷いた。
「ノルウェーはどうですか。観光は楽しかった?」
葵は手を止めた。
「はい。楽しかったです」
「よかった」
男は笑った。目の下に薄い皺ができる。
「どこ行きました?」
「昨日は、美術館と、あとオペラハウスに」
「ムンクの?」
「はい」
「叫び、見ました?」
「見ました」
「どれでした?」
「絵の方です」
「ああ、当たりですね」
男はパンをもう一口食べた。
「国立の方にも、ありますよ」
「そうなんですか」
「今日は?」
「王宮の前で、衛兵の交代を見ました」
「ああ、ヴァクトシフテ」
「はい」
「あれ、毎日やってるんですよ」
「そう聞きました」
男の後ろから、もう一人が来た。女で、こちらは椅子を持ってこず、卓の脇に立った。
「観光の話?」
「うん」
「どこ行かれたんですか」
葵は同じことを繰り返した。女が頷きながら聞いていた。
「彫刻公園は?」
「行きました」
「モノリッテンは見ました?」
「見ました」
女が男の方を見た。男が肩を上げた。
「あそこ、こっちだと遠足で行くんですよね」
「そうなんですか」
「小学校のとき、みんな行くんです」
女が笑った。男も笑った。
葵は自分の皿を見た。肉が半分残っている。
「他は?」
「その、チーズを買いに」
フィオナが顔を上げた。
「屋根に草の生えた家でございます」
女が男の方をもう一度見た。
「ああ、あの店」
「ご存じですか」
「有名ですよ。観光の方はよく行かれますね」
「本に載っておりました」
「載ってますね」
女はそこで言葉を切って、それから頷いた。
「美味しかったでしょう」
「はい」
フィオナが一度だけ頷いた。
「草が、生えておりました」
「そうそう」
「屋根の上に」
「ええ。昔はどこも、ああでしたから」
女が笑った。
そのとき、卓の周りに人が増えていた。三人ほど立って、こちらを見ている。誰かの一言で、そのうちの二人が笑った。訳はかからない。何を言ったかは分からなかった。
笑った一人が、こちらを見た。
「気にしないで」
葵は頷いた。何を気にしないでいいのかは、分からなかった。
「本の写真より、短うございました」
「そうですか」
「山羊のと、牛のと、両方いただきました」
女が頷いた。
「弱い火で煮るのだそうです。あの店は」
女が皿を持ち直した。
「おまけも、くださいました。たくさん買ってくれたからと、そう——」
「ノルウェー、楽しんでくれたのね」
女はそう言って、こちらを見た。
「ありがとう」
男が椅子から立った。椅子を元の位置へ戻して、皿を持つ。
「これから頑張ろうね」
二人が離れていった。周りに立っていた人たちも、一緒に動いていく。誰かが振り返って、また前を向いた。
卓に二人だけが残った。
フィオナが煮込みの続きを食べていた。
「親切な方々でしたね」
「うん」
「ご存じでした。あの店を」
「うん」
葵は残っていた肉を切った。
襟の内側で、ライラが動いた。
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「あの人たち、途中で行った」
頭の中に声が届いた。
「うん」
「フィオナが話してるのに」
葵は肉を口に入れた。噛んでいる間、ライラは黙っていた。
「聞いてなかった」
「そうなの?」
「聞いてない」
光が、少し強くなった。フィオナが顔を上げる。
「ライラ殿?」
「なんでもない」
ライラはそう言って、また黙った。
フィオナは煮込みを食べ終えて、緑の皿に移った。葉のものを口に入れて、少し眉を寄せる。それから、そのまま食べ続けた。
入口の方で、また笑い声がした。人が入れ替わっている。台へ皿を取りに行く者と、戻ってくる者。座っている人数は増えても減ってもいなかった。
葵は硝子の方を見た。
外は暗いので、室内が映っている。並んだ卓と、座っている人と、その手前の二人分の背中。映った自分は、思ったより小さく見えた。
その向こうに、街の明かりが薄く重なっていた。
「葵殿」
「うん」
「明日は八時でございます」
「うん」
葵は入口の方を見た。
セーターの人が多かった。
フィオナは皿を空にすると、立ち上がった。鎧の板が鳴って、近くの卓の一人が顔を上げる。すぐに戻った。
「フィオナさん」
「はい」
「何か持ってこようか」
「大丈夫です」
台の方へ歩いていく背中を、葵は見ていた。
ライラがまた動いた。
「あの人たち、こっち見てない」
「そう?」
「一回も見てない。フィオナが立ったときも」
葵はもう一度、食堂を見た。
誰もこちらを見ていなかった。話している者は話しているし、食べている者は食べている。誰の顔も、こちらを向いていない。
「見てないなら、それはそれでいいんじゃないかな」
ライラは答えなかった。
フィオナが戻ってきた。皿にまた茶色いものが載っている。
「取ってまいりました」
「いっぱい取ったね」
フィオナは皿を置くと、そのまま立ち上がった。
「野菜も、取ってまいります」
もう一度、台の方へ歩いていった。
戻ってきたときには、緑の皿を持っていた。
「ございました」
「うん、バランスがいいね」
フィオナは座って、また左端から食べ始めた。
葵は水を飲んだ。ガラスの中で、自分が同じ動作をしていた。
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部屋に戻ると、扉のそばに箱が置いてあった。
フィオナがそれを見た。
「後で開けようか」
「はい」
窓の前まで歩いて、「よいしょっ!」と言った。
光が上から下へ抜けて、鎧が消える。両肩を大きく回してから、椅子に腰を下ろした。
「疲れました」
「お疲れさま」
葵は鞄を開けて、明日の分を出した。制服を広げると、畳んでいた線がそのまま残っている。葵は手のひらで一度、袖の付け根まで伸ばした。
それから、もう一つ、洋服を出した。
「葵殿、それは」
「フィオナさんの」
「わたくしの?」
「うん」
フィオナが椅子から立った。葵は畳んであるのを広げて、椅子の座面に並べた。濃紺の細身のズボンと、同じ色の上着。その間に、オフホワイトの、細かい編みのものを挟んである。鞄の底には、黒い革の靴も入っていた。
「いつの間に」
「出発の前に」
フィオナは上着を持ち上げて、肩のところを自分の肩に当てた。それから袖を伸ばして、指先まで見た。
袖が余っていなかった。
「合っております」
「うん」
ライラが襟から出てきた。
「ずっと入ってた」
「そうなのですか?」
「行きから、ずっと」
フィオナが葵を見た。
「なぜ」
「鎧だと、大変かなと思って」
「大変」
「一週間あるから」
上着を持ったまま、少し黙った。
「私、大丈夫です」
「うん。でも、やっぱり服より重いよね」
手が止まった。
「……大変でした」
「うん」
葵は制服を椅子の背に掛けた。
「ですが、侮られます」
「誰に?」
口を開いて、閉じた。
「……わかりません」
「うん」
葵は椅子の座面の服を見た。
「フィオナさん」
「はい」
「天界で頑張ってたの、僕は知ってるよ」
フィオナが顔を上げた。
「とうって言って、鎧が出せるようになったし」
「……はい」
「よいしょって言って、しまえるようにもなった」
聞いている内に、フィオナの目が赤くなっていた。
「泣いておりません」
「うん」
「明日から、もし嫌なことがあったら言って」
「葵殿に」
「うん。僕が言うから」
「何を」
「やめてくださいって」
フィオナはもう一度、上着を自分の肩に当てた。それからガラスの方を向いた。
窓の外は暗い。ガラスに室内が映って、その中に上着を持った自分が立っていた。鎧ではなかった。
しばらくそうしていた。
「葵殿」
「うん」
「ありがとうございます」
「うん」
フィオナは服を椅子の背に掛けた。葵の制服の隣だった。
扉のそばで、箱がそのままになっていた。




