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第197話 ヴァクトシフテ

 店は通りから階段を下りたところにあり、天井が低く、梁に鍋が吊してあった。窓が地面より下にあるので、外を歩く人の靴だけが見える。奥から煮えている匂いがしていた。


「羊です」


 フィオナが階段の途中で言った。


「分かるの?」


「分かります」


 席に着くと、フィオナは鞄から本を出してこちらへ向けた。


「こういうお店が多いのだそうです。地面の下は暖かいので」


「そうなんだ」


「寒い国では、昔からこうしていたのです」


 フィオナは本を閉じてから、少しだけ胸を張った。


 品書きの一番上にフォーリコールとあり、羊肉とキャベツを煮たものだと書いてあった。フィオナがそこを指したので、葵も同じものにした。


 来たのは深い鉢だった。汁の表面に脂が浮いていて、その下から骨の端が出ている。周りにキャベツが崩れて沈んでいた。粒胡椒が丸のまま何粒も浮いている。


 フィオナは匙を取らず、骨を指でつまんで持ち上げた。肉が自分の重みで外れかけている。


「失礼いたします」


 そう言って、そのまま齧った。


 葵が匙で汁を掬うと、塩と胡椒しか入っていない味だった。羊の脂が溶けていて、それが全部を繋いでいる。キャベツは形が残っていないが、噛むと甘い。


 粒胡椒を一つ噛んでしまうと、舌の奥が痺れて、そこだけ熱くなった。


「胡椒、そのまま入ってる」


「はい。よけております」


 フィオナの皿の縁に、黒い粒が三つ並んでいた。


 葵が骨を持ち上げて肉を外すと、繊維がほどけるように離れて汁の中へ落ちた。


「美味しい」


「はい」


 フィオナは二本目に手を伸ばしていた。


「もう一杯頼む?」


「……よろしいのですか」


「うん」


 フィオナは鉢を両手で持って残りを飲み、それから鉢を置いて背筋を伸ばした。


「お願いいたします」


 ライラは卓の端で、葵が細かくした肉を齧っていた。


「かたい」


「そう?」


「でも、脂が美味しい」


 二杯目のフォーリコールが来ると、フィオナは今度は匙から使った。汁を一口飲んでから、骨を持ち上げる。


「どこの国でも、羊は美味しいですねえ」


「そうだね」


 フィオナは骨を置いて、指を紙で拭いた。窓の外を靴が通り過ぎていく。同じ方向へ何足も続いていた。


「みんな、どこかに行くみたい」


 フィオナが鞄から本を出し、付箋を送って、途中で戻して、また送った。


「どこかで見た覚えがあるのです。ええと」


 鉢を下げに来た店員が、窓の方を見た。


衛兵交代ヴァクトシフテですよ」


「衛兵」


「王宮の前で、毎日一時半から。すぐそこです」


 店員は鉢を重ねて持ち上げた。


「ちょうどいいですよ。歩いて十分ですから」


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 外へ出ると、光が正面から来ていた。


 太陽が低いところにあって、建物の上を越えず、通りの奥から真横に差している。影が長く伸び、歩いている人の分だけ石畳に線が並んでいた。


 カール・ヨハン通りを上っていくと、緩い坂で、上るほど人が増えた。皆が同じ速さで同じ方向へ歩いていて、誰も急いでいない。


「葵殿」


「うん」


「王様は、いらっしゃるのでしょうか」


 葵が坂の先を見ると、通りの突き当たりに建物の上の方だけが見えていた。黄色い壁だった。


「どうだろう」


「衛兵が交代するのですから、お守りするものがあるのだと思います」


「そうだね」


「では、いらっしゃるのですね」


 葵は少し考えた。


「いても、会えないんじゃないかな」


「会えませんか」


「王様だから。窓から見えたりはしないと思う」


「そうですか」


 フィオナは前を向いたまま歩いていて、風で持ち上がったコートの裾を手で押さえた。


「一度、お目にかかってみたいものです」


「見られるといいね」


「はい」


 坂の傾きが少し強くなり、両側の建物が低くなって空が広く見えるようになった。前を歩く人の頭の向こうに、鉄の柵が見えてくる。


 襟の内側でライラが動いた。外へは出てこない。


 音が聞こえた。


 低い音だった。金管の音がいくつも重なっていて、旋律がゆっくり下りていく。行進の曲にしては拍が重く、教会で聞くもののように同じ形が繰り返されて、少しずつ厚くなっていった。


「始まっているのでしょうか」


「向こうから来てるんだと思う」


 音は広場の方からではなく左手の通りから聞こえていて、少しずつ近づいてくる。前を歩いていた人が何人か、そちらを向いて立ち止まった。


 葵は端末を見た。一時二十五分だった。


 坂を上りきると、広場が開けた。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 広場は思ったより広かった。


 正面に黄色い建物がある。三階建てで横に長く、窓が等間隔に並んでいて、真ん中の上に旗が上がっていた。風がないので、旗は畳まれたまま垂れている。


 建物の前に鉄の柵があり、その手前に人が三重か四重になって集まっていた。葵とフィオナは後ろの方に立った。フィオナの方が背が高いので、よく見えるらしかった。


「葵殿、こちらへ」


 フィオナが半歩ずれて、前の人との隙間を空けた。葵はそこへ入った。


 音が近づいてきた。


 左手の通りから隊列が出てきた。四列で歩幅が完全に揃っていて、石畳を踏む音が一つに聞こえる。何人いるのか数えられなかったが、通りの角から出てくるのはまだ続いていた。


 黒い戦闘服だった。


 飛行機で見たのと同じだった。上下が繋がっていて、肩から胸にかけて厚みがある。腰に短い棒が下がり、肩に担いだ銃の銃身には細い線が走っていて、その線が光を反射していなかった。


 葵が肩の位置を見ると、全員が同じ角度で担いでいた。


 楽隊が先頭にいた。トランペットが三つ、ホルンが二つ、トロンボーンが二つ。いちばん後ろのチューバは朝顔が人の胸ほどの大きさで、その横に小太鼓が一人ついている。


 曲は坂で聞いたものと同じで、近くで聞くとチューバの音だけが体に来た。腹の内側が細かく震える。


 隊列が広場の中央で止まった。


 小太鼓が一つ鳴った。号令が飛んで、全員の踵が同時に鳴る。一つの音だった。


 建物の前に、もう一組が立っていた。同じ服で、同じ銃を持っている。そちらが正面を向き、こちらの隊と向かい合った。


 また号令が飛んだ。


 前の列が二歩進む。向こうの列が二歩下がる。それを何度か繰り返して、位置が入れ替わった。動作の途中で誰も止まらず、誰も遅れなかった。


 隣で誰かが写真を撮っていた。前の人が子供を肩に乗せている。


 フィオナが両手を胸の前で合わせた。


「綺麗です」


「うん」


 曲が変わった。


 同じ旋律なのに、音が一つずつ増えていく。チューバが下を支え、ホルンが厚みを足し、トロンボーンが重なって、最後にトランペットが上に載った。音が広場の壁に当たって戻ってくる。


 前に立っている人たちが、誰も喋らなくなった。


 葵は建物を見た。


 窓には何も映っていなかった。硝子の内側が暗い。三階まで、どの窓も同じだった。


 襟の内側でライラが動いた。


「自分たちが王様みたい」


 頭の中に声が届いた。


 葵は口の中で、そうかな、と言った。声にはならなかった。


 号令が飛んだ。


 歩哨が交代した。柵の内側の二人が下がり、別の二人が同じ場所に立った。立った位置は、下がった二人が立っていたところと寸分違わなかった。


 曲が終わった。


 最後の音が消えるまで、誰も動かなかった。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 人が動き出した。


 前の列から順に柵を離れていく。子供を肩から下ろす人がいて、写真を確かめている人がいた。誰も拍手をしなかった。


 隊列が向きを変えて、来た通りへ戻っていく。楽隊はもう演奏しておらず、石畳を踏む音だけが四列分揃って遠ざかっていった。


 角を曲がると、音も消えた。


「終わりですね」


「うん」


 広場に残っている人はもう半分になっていて、皆が坂の方へ下りていく。来たときと同じ速さだった。


 フィオナが柵の方を見た。


「まだ、おられます」


 柵の内側に、交代した二人が正面を向いて立っていた。動かない。


「あの方たちは、いつまで」


「次の交代までじゃないかな」


「明日ですか」


「たぶん、今日のうちに何度か」


 フィオナは少し首を傾げてから、鞄の紐を掛け直した。


 葵が建物をもう一度見ると、窓は暗いままだった。旗は畳まれて垂れている。三階の一番端の窓に雲が映っていて、それだけが動いていた。


「王様、いらっしゃいませんでしたね」


「うん」


「窓から見えたりはしない、とおっしゃいましたね」


「そう言った」


 フィオナは頷いて、それきり何も言わなかった。


 広場を出るとき、葵は一度振り返った。


 人はほとんどいなくなっていた。柵の内側に二人が立っていて、その後ろに窓の暗い建物がある。誰も見ていなかった。


 坂を下りると、日が正面から来た。さっきより低い位置にあるが、まだ二時を過ぎたばかりだった。


「フィオナさん」


「はい」


「次、どこ行く?」


 フィオナが鞄から本を出した。

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