第195話 草屋根のブルノスト
本社の建物を離れて、二つ目の角を曲がったところで、フィオナが足を止めた。
壁と壁の間の、日の当たらない細い場所だった。フィオナは通りの方を一度見て、それから両の拳を体の前で握った。
「よいしょっ!」
白い光が上から下へ抜けていった。鎧が消え、生成りのコートと、その下の服が戻ってくる。フィオナは肩を二度回して、それから大きく息を吐いた。
「疲れました」
「お疲れさま」
「あの、葵殿」
フィオナがコートの前を合わせながら、こちらを見た。眉が下がっている。
「先ほどの、最低でもお手を頂戴する、というのは。あれは、どういうことなのでしょうか」
葵は歩き出しながら、少し考えた。
「そのままの意味だと思うけど」
「そのまま、といいますと」
「契約に反することをすると、それが向こうに伝わって、手に印が浮かぶんだと思う。それで、ヴァルハラ・アームズの人か、神魔が来て——」
「来て」
「手を、持っていくんじゃないかな」
フィオナが止まった。
「ひぃー」
「うん」
「あの、わたくし、そのような契約を結んでしまったのですか」
「結んだね」
「書いてありましたか。あれに」
「書いてはなかったよ。あの人が言ってた」
フィオナはコートの襟を掴んだまま、しばらく黙っていた。
「……あの文字を、目で追っておりましたが」
「うん」
「読んではおりませんでした」
フィオナさんらしいな、と思った。
通りに出ると、店の明かりが増えていた。硝子の内側に人が座っている店がある。扉の横に黒板が出ていて、朝からやっているらしかった。
「入ろうか」
中は暖かく、豆を挽く音がした。壁際の席に座ると、窓の外がまだ暗いのが見えた。
フィオナは品書きを長く見てから、パンと卵と、腸詰めと、林檎の載った甘い焼き菓子を頼んだ。運ばれてきた皿を前にして、両手を膝の上に置いた。
「朝は、控えましたので」
「うん」
「ここで、取り戻します」
葵は品書きの上の方にあった、グロッグというものを頼んだ。ベリーの果汁に香辛料を入れて温めた飲み物らしい。
厚い硝子の器で来て、湯気と一緒に香辛料の匂いが立った。表面に薄い膜のように油が浮いている。
一口飲むと、甘さの後から丁子が来て、喉の奥が温まった。器の底に何か沈んでいる。添えられていた小さな匙で掬うと、膨らんだ葡萄の実と、皮を剥いたアーモンドが上がってきた。
「それは、飲むものですか。食べるものですか」
「両方みたい」
葵は匙でアーモンドを一つ掬って、卓の上のライラに差し出した。ライラは両手で受け取り、端から齧った。
「かたい」
「そっか」
「でも、あまい」
フィオナは腸詰めを切りながら、まだ眉を下げていた。
「葵殿は、恐ろしくないのですか」
葵は少し考えた。考えたのは、恐ろしいかどうかではなかった。
(あの契約を結んでしまったけど、黒夢病について何か分かったら、どうすればいいんだろう。)
分からないことを先に考えても仕方がなかった。まだ何も知らない。
「まあ、知るのが先かな」
「はい?」
「ううん。あのさ、ヴァルハラ・アームズの秘密っぽいことを人に言わなければ、大丈夫だと思う」
「言わなければ」
「うん。言わなければ何も起きないよ」
フィオナが腸詰めを口に入れて、噛みながら考えていた。飲み込んでから、まだ何か言いたそうにしている。
「あと、いざとなったら」
葵は器を両手で持ち直した。
「フィオナさんは、天界に逃げればいいんじゃないかな」
フィオナの目が丸くなった。それから、少しずつ肩が下りていった。
「……そうですよね」
「うん」
「さすがに、天界までは来られませんよね」
「来られないと思う」
フィオナは焼き菓子を大きく切り分けて、口へ運んだ。林檎の煮えたのが端から落ちて、皿の上で崩れた。
「安心いたしました」
葵はグロッグをもう一口飲んだ。二口目は、丁子より先に甘さが来た。
「そういえば、明日からボランティアだから」
「はい」
「お土産、今日のうちに買っておかないと」
フィオナが手を止めた。
「明日からは、夕方まで働くんだよね。それで金曜まで」
「そうでした」
「ゆっくり見て回れるの、今日が最後だと思う」
窓の外で、通りの明かりがまた一つ増えた。空はまだ暗いが、さっきより暗さが薄い。
「だから、行きたいところがあったら教えて」
フィオナは口の中のものを飲み込んで、鞄から本を出した。付箋が何枚か立っている。三枚目のところが、昨日開いたときのまま少しだけ折れていた。
「ございます」
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フィオナが開いたのは、付箋の一枚目だった。
写っているのは小さな家だった。壁は板を横に重ねてあり、扉が低い。屋根の上に、土が乗って草が生えていた。冬の写真ではないらしく、草の緑が濃い。
「これです」
「うん」
「屋根に、草が生えているのです」
「聞いたよ」
「四回では足りませんでしたか」
「五回目だと思う」
フィオナは本を閉じずに、写真の下の文字を指で追った。茶色いチーズの店だと書いてある。
葵は器の底に残った葡萄の実を掬って口に入れ、席を立った。
外はさっきより明るくなっていた。空が黒から灰色に変わっていて、通りの奥の方に低い光が差している。太陽が上がったのではなく、上がろうとして途中で止まっているような光の量だった。街灯は一つも消えていない。
カール・ヨハン通りに入ると、店がほとんど開いていた。硝子の中に人がいる。並んだ品物の前に立って、手に取って、戻して、また別のものを手に取っている。
フィオナが一つの店の前で足を止めた。扉の横に黒板が出ていて、白い字が二段に書いてある。
「葵殿。同じものが、二つ書いてありますが」
葵も見た。上の段の数字より、下の段の数字が大きい。下の行には日曜と書いてあった。
店の人が扉を開けて、木の札を掛けにきた。フィオナがそちらを向いた。
「あの、なぜ高いのですか」
「日曜だからですよ」
店の人は札の向きを直しながら答えた。
「日曜に働くと、こちらの人件費が上がりますから。その分です」
「そういうものですか」
「そういうものです。書いてありますでしょう」
札を掛け終えて、店の人は中へ戻っていった。扉が閉まると、黒板だけが外に残った。
「割り増し料金なのですね」
「うん。確かに日曜も働いてる人には、感謝しないとね」
葵はもう一度黒板を見た。数字は同じ大きさで並んでいて、下の方が見やすい位置にある。
通りを進むと、人が増えてきた。買った袋を提げている人が多い。皆が同じ速さで歩いていて、急いでいる人がいなかった。
本の写真の家は、通りから一本入ったところにあった。
角を曲がった瞬間、フィオナが走り出した。
「これです!」
葵は追いかけた。ライラが襟から出て、そのまま肩の上で体を伏せた。
板を横に重ねた壁があった。扉が低く、その上に木の看板が下がっている。ブルノストと書かれていた。フィオナがさんざん言っていた茶色いチーズのことだ。
屋根には土が乗り、草が生えていた。写真より短く、色が茶色に近い。霜が降りていて、白い粒が根元に溜まっている。
フィオナは扉の前で立ち止まり、屋根を見上げた。
「本当に、生えております」
「うん」
「葵殿、これは、屋根の上ですよ」
「そうだね」
「屋根の上に、土があるのです」
フィオナは低い扉に頭をぶつけそうになりながら、先に中へ入っていった。
中は暖かく、甘い匂いがした。焦げた砂糖に近いが、それより重い。
天井が低く、梁がむき出しになっている。壁際に木の棚があり、茶色い塊が並んでいた。大きさが何種類もある。手のひらに載る四角いものから、両手で抱えるほどの塊まで。断面は詰まっていて、穴が一つもなかった。
奥の台に、白い前掛けをつけた男が立っていた。頭は白いが、腕が太い。
「おはよう。寒かったろう。ゆっくり見ていきなさい」
フィオナは棚の前に立って動かなかった。
「葵殿。全部、茶色いです」
「そうだね」
「ですが、色が違います」
男が台の向こうから出てきた。
「よく見たね。こっちが牛、こっちが山羊。山羊乳が入ると酸が立つのさ」
男は薄い刃のついた道具を取って、四角い塊の面を手前に引いた。紙のように薄い一枚が反り返って上がってくる。それを木の板に載せて、こちらへ寄越した。
「食べてごらん」
葵は指でつまんで口に入れた。
最初に甘さが来た。それから塩気が来て、最後に酸のようなものが舌の上に残った。噛むと歯にくっついて、その粘りの中で甘さがもう一度立ち上がってくる。
「美味しい」
「そうだろう」
フィオナは一枚を口に入れて、それから両手で口元を押さえた。
「甘いです」
「そう」
「甘いのに、チーズなのです」
「乳清を煮るからね」
男はもう一つの塊から一枚削いで、別の板に載せた。
「チーズを作ると、水が残る。昔の人は捨てなかった。煮て、煮て、水を飛ばした。そうすると乳の糖が焦げるんだ」
「焦げているのですか」
「焦げてる。だから、ほら、茶色い」
葵は二枚目を食べた。さっきより酸が強く、甘さが後ろに下がっている。
「こっちの方が酸っぱいです」
「山羊乳が多い方だ。よく分かったね」
男は笑って、道具を台に置いた。
「煮方でも変わるよ。強い火で早く煮ると硬く締まる。弱い火で長く煮ると柔らかい。うちは弱い火なんだ。時間がかかるが、そのぶん舌に残らないだろう」
フィオナが棚を指した。
「これは、どちらですか」
「全部うちのだよ」
男は棚の下の扉を開けて、布に包んだものを取り出した。包みの端から湯気が出ている。
「今朝出来たばかりのがある。まだ冷え切っていない」
包みを開くと、断面が明るかった。棚のものより色が薄く、艶がある。男は端を厚めに切り落として、二人の手に載せた。
「これはまだ売り物にならない。形が落ち着いてないからね」
葵の手のひらの上で、それは温かかった。
口に入れると、棚のものとは違った。甘さの角がなく、全部が丸い。舌の上で崩れていく速さが違って、飲み込んだ後に何も残らなかった。
「美味しい」
葵はもう一口食べた。
フィオナは食べ終わってから、しばらく黙っていた。
「……もう一つ、いただけますか」
「駄目だ」
「ひぃー」
「冗談だよ」
男は残りを二つに割って、両方に渡した。ライラが葵の肩から降りてきて、葵の手のひらの端で待っている。葵は自分の分をさらに割って、小さい方を差し出した。
ライラは両手で受け取り、そのまま顔ごと押しつけるように齧った。
「あまい」
「うん」
「ぜんぶ、あまい」
葵とフィオナは棚の前へ戻った。
「たくさん買っていこうか」
「はい」
「友達と、先輩たちに」
「アーデル殿にも」
「そうだね」
葵は指を折りかけて、途中で止めた。
「あと、家にも送りたい」
「ご家族ですか」
「うん。ここから近いから」
数えているうちに数が増えていった。フィオナが指を折って確かめ、途中で分からなくなって最初から数え直した。男は台の上に塊を並べながら、一つずつ紙で包んでいく。包み終えると木の箱に詰めて、隙間に紙を丸めて入れた。
「持って帰るのかい」
「送りたいです」
「箱ごと送れるよ。冬だから傷まない」
「二つに分けられますか」
「できるよ」
男は箱をもう一つ出して、伝票を二枚並べた。葵は端末を見ながら、一枚に学園の住所を書き、もう一枚に別の住所を書いた。書き終えると、男が最後にもう一つ、小さな包みをそれぞれの箱の隅へ押し込んだ。
「これはおまけ。今朝のやつだ」
「いいんですか」
「たくさん買ってくれたからね」
男は伝票を折って、箱の上に置いた。
「ありがとうございました」
葵が扉に手をかけると、男が台の向こうから声をかけた。
「ボランティア、頑張りなさい」
葵は振り返った。男はもう手を動かしていて、台の下から次の塊を出していた。
外へ出ると、扉が低いので、フィオナが頭を下げて潜った。
屋根の草に降りていた霜が、さっきより減っている。日が差しているわけではなかった。空の色が灰から白に近づいただけで、光の出どころがどこにも見えない。
「葵殿」
「うん」
「わたくし、申しておりませんでした」
「僕も言ってない」
フィオナが屋根を見上げた。それから通りの方を見て、また屋根を見た。
「有名なのでしょうか。わたくしたちが」
「そうじゃないと思う」
葵は自分の袖を見た。何も浮かんでいない。
歩き出すと、通りの方から人の声が聞こえてきた。さっきより増えている。




