第194話 明けやらぬ契約
食堂の窓は、外が見えなかった。硝子の向こうが夜のままで、こちらの明かりだけが映り返している。
七時を回っていた。街灯は昨夜と同じ数だけ点いていて、通りの石畳を同じ明るさで照らしている。日の出は八時四十五分だと壁に貼られた紙に書いてあった。時刻だけが進んで、外は何も進んでいない。
葵は椅子を引いて座り、腕を上げてみた。肩が素直に上がる。昨日の朝、この動きには一拍の遅れがあった。指を握って開くと、指も同じだけ動いた。
「葵殿、おはようございます」
フィオナが向かいに腰を下ろした。髪をいつもより低い位置でまとめている。
「おはよう。眠れた?」
「はい。ぐっすりです」
壁際の台に、料理が並んでいた。深皿にゆで卵が積んであり、輪切りのきゅうりとトマト、薄く切った赤いハム、脂の縞が入った鮭が銀の器に分けられている。パンは五種類あって、どれも切り口が乾いていなかった。粥の鍋から湯気が上がり、その隣でバターの塊が削り取られた面をこちらへ向けている。
葵はパンを二枚と卵を一つ取り、粥を少しよそって席へ戻った。フィオナの皿にはパンが一枚だけ載っていた。
「それだけ?」
「はい。今日は、これで足ります」
フィオナはパンを小さく千切って口へ運んだ。噛む音がしない食べ方だった。
胸元からライラが出てきて、葵の皿の縁に降りた。
「フィオナ、いつもの半分」
頭の中に声が届いた。奥の席では新聞を広げた男が座っていて、その向かいの女が端末を見ている。ライラは人のいるところで声を出さない。
「うん」
葵はパンを一口ぶん千切って、皿の縁へ置いた。ライラが両手で持ち上げ、端から齧った。
「甘くない」
「そういうパンだよ」
「知ってる」
そう言って、ライラはもう一口齧った。
葵が粥を口に入れると、塩気が薄く、上に落としたバターの塩だけが後から舌に来た。喉を通るときに内側が温まった。
フィオナが卓の隅の瓶を手に取っていた。赤いものが詰まっていて、貼られた紙にイズンと書いてある。
「昨日の、看板の」
「うん。同じ会社だと思う」
フィオナが瓶を戻したとき、紙の隅に灰色の狼が小さく入っているのが見えた。
「フィオナさん、緊張してる?」
フィオナの手が止まった。指の間で千切りかけのパンが潰れている。
「……ヴァルキリーは、緊張などいたしません」
「そっか」
葵は立ち上がって台へ戻り、パンを一枚と鮭を二切れ取ってきて、フィオナの皿の隣に置いた。
「食べなくてもいいけど」
フィオナは皿を見て、それから葵を見て、また皿を見た。
「……いただきます」
鮭は脂が乗っていて、噛むと縁が舌の上で崩れた。フィオナが二切れ目に手を伸ばしたところで、ライラが葵の襟へ登っていった。
壁の時計は七時半を指していた。硝子に映る明かりの数は、座ったときから一つも増えていない。
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部屋に戻ると、フィオナが窓の前に立っていた。
外はまだ暗く、硝子には部屋の中が映っている。フィオナはその映り込みに向かって背筋を伸ばし、顎を引いた。それから顎を少しだけ上げ直してそのまま動かなくなった。
葵は鞄の口を閉じてから、もう一度そちらを見た。
「何してるの?」
「準備です」
声が低かった。いつもより半分の速さで語尾が伸びていない。
「今日は、わたくしはヴァルキリーとして参ります。あの会社は武器を作っております。侮られてはなりません」
「うん」
「ですので、ヒルド殿の真似をいたします」
葵は少し黙った。ヒルドの顔は覚えている。あの日、扉を開けたら立っていて、磨き込まれた鎧に傷が数えきれないほど入っていた。
「似てる?」
「はい。かなり研究いたしました」
フィオナは硝子から一歩下がり、両の拳を体の前で軽く握った。
「とうっ!」
白い光がフィオナの輪郭をなぞり、肩から胸へ、腰から膝へ順に下りていった。光が消えたとき、そこに立っていたのは鎧のフィオナだった。白と銀の板が部屋の明かりを鈍く返している。留め具が一つ、いつも通り緩んでいた。
「そんなことできるようになったんだ」
「はい。修行の成果です」
フィオナは胸を張り、それから肩を四角く保ったまま部屋の壁に向かって視線を送った。誰もいない方向を見て、そこに何かがあるかのように一度だけ頷いた。
「ヒルド殿は、多くを語られません。ですので、わたくしも語りません」
「そっか」
「はい。……あの、葵殿。今の、どうでしたでしょうか」
肩が下がっていた。緑の目が葵の顔の高さまで戻っている。
胸元でライラが動いた。
「とう、って言わない」
「言いません!」
フィオナは慌てて肩を上げ直し、それから声の大きさに気づいて口を閉じた。
「……言いません」
二度目は低かった。葵はそれを聞いて、少し笑った。
「フィオナさん、無理してない?」
「無理ではありません。ただ、その——わたくしが喋りますと、いろいろと、こう」
指が空を掻いていて、何を言おうとしているのかは言われる前に分かった。
「崩れるので、喋らないことにいたしました」
「うん」
「必要なことだけ、短く申します。それならば、大丈夫かと」
葵はコートを取って、鎧の肩にかけた。生成りの布が肩当ての角で一度浮いてから、裾まで落ちた。
「大丈夫だよ」
フィオナの目が少し丸くなった。それから背筋がもう一度伸びて、顎が上がった。
「はい」
短かった。今度は訊き返してこなかった。
「ライラ、隠れてて」
「うん」
ライラは葵の襟の内側へ滑り込み、そこで一度だけ光を弱めた。胸のあたりが少し温かくなった。
廊下は暗く、階段の踏み板が三階から一階まで同じ音で鳴った。玄関の扉を押すと外の空気が顔に当たった。息が白くなる。
街灯の下を、フィオナは一定の速さで歩いた。鎧の板が歩調に合わせて鳴り、顎の角度は部屋を出たときのまま変わらなかった。
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通りに出ると、店はどこも閉まっていた。硝子の内側で照明だけが点いていて、並べられた品物が誰にも見られないまま光を返している。歩いている人はまばらだった。
昨日と同じ道を、昨日より速く歩いた。
建物は昨日見たときと変わらなかった。両隣が高いのに、そこだけ低い。正面が全面硝子で、上に灰色の狼が座っている。実物大だというのが、近づくと分かった。壁の文字は照明を受けていない。
扉の脇に黒い戦闘服の男が二人立っていた。短い銃を斜めに提げ、腕の演算機に光が走っている。腰の棒は昨日と同じ位置に下がっていた。
葵が足を止めて名前を言うと、男の一人が腕を上げて演算機の面を確かめた。それから体を横にずらし、何も訊かないまま扉の方へ手を向けた。
硝子の扉が内側へ開いた。
暖かい空気が顔に当たり、外の冷たさが襟の内側から抜けていった。一階は昨日見た通りだった。低い台の上に武器が並び、その奥に喫茶の椅子が置かれている。日曜の朝でどちらにも人はいない。
腰高の仕切りが正面にあった。その向こうに机があり、制服の女が座っている。
葵は昨日、外からここを見た。仕切りの向こうまでは見えて、そこから先は見えなかった。
「小春葵様。それから、契約神魔のヴァルキリー様ですね」
女が立ち上がって、仕切りの端の扉を開けた。
「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
葵が仕切りを越えると、床の材質が変わって靴の音が消えた。後ろから続いたフィオナの鎧の板が一度だけ鳴り、それきり鳴らなくなった。歩幅を落としている。
短い廊下の先に、机が一つと椅子が三つだけ置かれた部屋があった。窓はなく、壁の色は一階と同じ灰色で、隅に狼が小さく入っていた。
「他の方は、それぞれのお時間にお越しになります」
女が椅子を引いた。
「本日中にお済ませいただければ結構ですので」
葵が腰を下ろしても、フィオナは椅子の横に立ったまま動かなかった。
「お連れ様も、どうぞ」
フィオナが顎を引いて、一語だけ返した。
「結構」
女は表情を変えず、机の上で手を組み直した。
胸元でライラが一度だけ動いた。
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女が机の面に指を置くと、空中に文字が浮かんだ。青白い光で、机の上に立てた板のように見える。厚みはなく、角度を変えてもこちらから読める向きのまま動かなかった。
「秘密保持に関する契約書です。ご確認ください」
葵は最初の行から読んだ。
一枚目にはこの会社の名前と葵の名前と参加の期間があり、日付は今日から金曜までになっていた。二枚目から条文が始まった。
条文は、機密情報とは何かの定義から始まっていた。当社が保有し、または管理する一切の技術上および営業上の情報。葵はその一行を二度読んだ。
三枚目に進むと範囲が続いていた。施設内で見聞きしたもの。工程、人員、設備、そこで交わされた会話。取引先の名前とその条件。
葵が指で光の端に触れると、頁が送られた。
四枚目には期間が書いてあり、その期間に定めがなかった。関係が終わっても続くと、そう書いてある。
その下の行を葵は読んだ。
本契約に基づき知り得た情報から推論される事項も、機密情報に含む。
指が止まった。
葵はその行をもう一度読み、それから前の頁へ戻って、機密情報の定義をもう一度読んだ。当社が保有し、または管理する一切の情報。何を作っているかは、どこにも書かれていない。
窓のない部屋で光の板だけが明るかった。
女は何も言わずに座っていて、急かす様子はなかった。
葵が頁を送ると、五枚目に開示してはならない相手が並んでいた。第三者。報道機関。公的機関。学術機関。それから、所属する教育機関。
葵はその行の上で指を止めた。
隣で鎧が動かなかった。フィオナは椅子の横に立ったまま、光の板を目で追っている。上から下へ、一定の速さで。読み終えると次の頁の位置まで視線を戻し、また上から下へ動いた。彼女も最初から読んでいた。
葵は最後の頁まで読んでから、もう一度四枚目に戻った。
推論される事項。
見たものだけではなく、見て考えたことも入る。どこまでが考えたことでどこからが違うのかは条文に書いておらず、書いていないので分からなかった。
(読んだ。)
葵は光の板の端から指を離した。
「以上でよろしいでしょうか」
女が言った。
「はい」
葵が答えると、隣でフィオナが顎を引いた。それも答えだった。
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女が机の面に指を滑らせると、光の板が一枚に戻って下の方に空白の欄が現れた。
「三点、認証をお願いします」
机の縁から黒い盤が持ち上がってきた。表面に窪みが三つ並んでいる。
「まず、指を」
葵が右の人差し指を最初の窪みに置くと、指の腹の触れたところが温かくなってすぐに冷めた。
「次に、こちらをご覧ください」
盤の中央から細い光が伸びて、葵がそれを見た。まばたきを一度したところで光が消えた。
「最後に、魔力を」
三つ目の窪みは他の二つより深かった。葵が指を入れると、内側から外へ何かが少しだけ抜けていった。痛みはなく、指を抜いたあとの窪みの底が青白く光っていた。
光の板の空白の欄に葵の名前が現れた。
「ありがとうございます。お連れ様も」
フィオナが一歩前に出て、指を置き、光を見て、最後の窪みに指を入れた。三つ目のとき、鎧の肩当てが一度だけ鳴った。
女が机に指を置くと、光の板の中央に円が浮かんだ。
円の中には細い線が幾重にも巻いていて、外側の輪から内側へ向かって同じ幅で縮んでいった。中心には何もない。
「契約の印です。魔力をお通しください。ごく少量で結構です」
葵は指を伸ばして、円の中心に触れた。
指先から糸のような細さで魔力が出ていった。円の線が外側から順に光り、中心まで届いたところで止まった。それから手首の内側で何かが一度だけ引かれた。
引かれたのは肌の上ではなかった。もっと内側で糸の端を軽く留められたような感じがした。
葵が自分の手を見ると、手首にも手の甲にも何もなかった。
フィオナが円に触れると、線が同じ順に光って同じところで止まった。フィオナは自分の手を見なかった。
「これで完了です」
女が机に指を置くと光の板が消えた。部屋が急に暗くなったように感じたが、明るさは変わっていなかった。
「一点、ご説明を」
女は同じ声の高さで続けた。
「印は、お客様と弊社が同じものを守っている証です」
葵は頷いた。
「万が一、守られなかった場合は、最低でもお手を頂戴することになります」
葵の指が机の縁で止まった。
女は手元の画面に目を落として指を二度動かした。
「ご記入は、こちらの欄です」
机の上に紙の綴りと細い筆記具が置かれた。宿舎の部屋番号と緊急連絡先を書く欄がある。
葵は筆記具を取って書きながら、自分の手の甲を一度見た。何もなかった。
腕の袖の内側で、フィオナの契約陣が肌に貼りついているのが分かった。朝、部屋を出る前に位置を直したときのままだった。
(二つある。)
葵は最後の欄まで書いて、綴りを女の方へ滑らせた。
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「本日は、ご自由にお過ごしください」
女が綴りを引き寄せて机の端に置いた。
「宿舎へは十七時三十分までにお入りください。お荷物は、先にお預かりすることもできます」
「お願いします」
葵が鞄を差し出すと、女はそれを受け取って机の下から出した札を持ち手に巻いた。番号が書いてある。
「明日は八時に、こちらの入口へお越しください」
葵が椅子を立つと、フィオナが先に扉の方へ体を向けた。
短い廊下を戻って仕切りの扉を抜けると、靴の音が返ってきた。硝子の扉が開いて外の空気が入ってくる。
外はまだ暗かった。
通りに出て葵が空を見ると、街灯があるせいで暗いのか明るいのかが分かりにくかった。宿を出たときと同じ数だけ光っていて、同じ位置にある。
「フィオナさん」
呼ぶとフィオナが振り返った。顎は上がったままで、肩も四角いままで、視線の高さも変わっていない。
「終わったよ」
「はい」
短かった。
葵はもう一度呼びかけようとしてやめた。フィオナは背筋を伸ばしたまま歩き出し、歩幅を落とした速さで進んでいく。鎧の板が一定の間隔で鳴った。
葵はその隣に並んだ。
襟の内側でライラが動いて外へ出てくると、葵の肩に降りて前を歩くフィオナの背を見た。
「まだやってる」
「うん」
「いつまで」
葵は答えなかった。
日の出まであと三十分ほどあった。街の明かりは一つも落ちていない。歩いている人が少しずつ増えて、どの店の硝子もまだ内側から光っていた。




