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第193話 ペール・ギュント

 屋根は坂だった。


 手すりがなく、斜面がそのまま水際まで下りて、境目のところで海に入っている。石が白く、表面はざらついていたが滑りはしなかった。


 葵は上まで歩いて、そこで振り返った。


 街が下にある。光の面が広がって、その向こうが黒い。海だった。


 風が強かった。遮るものが何もない。


「葵殿!」


 フィオナが少し下で立ち止まっていた。コートの裾が横へ流れている。


「見てください。ここは、屋根です」


「うん」


「屋根の上に立っております」


「そうだね」


「立ってよいのです」


 数歩上がってきて、隣に並んだ。マフラーを口元まで上げている。


 水の上には何もなかった。船も灯りもなく、黒い面が広がって、その先が丘だった。


 葵はしばらくそれを見ていた。


(あっちに、壁があるんだ。)


 見えなかった。街の光が届かないところは、全部同じ黒さだった。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 下で人が動いていた。


 坂の下の入口に人が集まっている。列にはならず、少しずつ吸い込まれていった。


 毛皮の襟のついた上着で歩いていく人がいて、子供を連れた人もいる。皆、上着の下が違っていた。歩き方でそれが分かる。


 葵は端末を出した。七時前だった。


「なにかあるみたいだね」


「催しでしょうか」


「たぶん」


 入口の上に文字が出ている。今夜の演目と時刻が書いてあった。八時から。


「フィオナさん、オペラ見てみる?」


「はい」


 即答だった。


「わたくしは大人の女性ですので、そういった知的なものに興味があるのです」


「そうなんだ」


「はい。とても興味があります」


 胸ポケットの縁からライラが顔を出した。


「ライラも大人」


「うん、知ってる」


「大人だから、興味ある」


「そっか」


 葵はもう一度、下を見た。人が増えている。


「席、あるか訊いてみようか」


「はい!」


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 中は明るかった。


 天井が高く、木でできた壁が丸く波打ちながら上まで続いている。硝子の向こうに屋根の斜面が見えて、その上をまだ人が歩いていた。


 床が石で、足音が反響した。


 窓口の列は短い。葵は最後尾に並んだ。


 順番が来た。


「今夜の、席ありますか」


「三名様ですか」


「はい」


 係の人が画面を見た。若い女の人だった。指が止まって、それから顔を上げた。


「お名前を伺ってもよろしいですか」


「小春葵です」


 もう一度、画面を見た。


「……お待ちしておりました」


 葵は少し止まった。


「あの」


「明日からのボランティア実習の方ですね」


「はい」


「お顔の写真をいただいております」


 感じのいい笑い方だった。


「ヴァルハラ・アームズ様が年間で押さえている席が、今夜は空いております。よろしければお使いください」


「いいんですか」


「毎年そうしております。空いている日は、関係の方にご案内するようにと」


 紙の券が三枚出てきた。手渡されたそれは、思っていたより厚かった。


「三階の、右側です。階段を上がって、扉に番号が出ております」


「ありがとうございます」


「よい夜を」


 葵は券を持って脇へ寄った。


(写真、持ってるんだ。)


 送った覚えがあった。申込書に貼ったものが、空港でも、ここでも使われている。そういうものなのだろうと思った。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「葵殿。あちらに、何か出ております」


 壁の案内には、七時から今夜の演目の解説があると書いてあった。無料で、希望者だけが入れる。物語の筋と見どころを説明するものらしい。


「フィオナさん、これ聞く?」


 フィオナが読んだ。二度読んで、それから首を横に振った。


「聞きません」


「そう?」


「ネタバレは、見ずに楽しみたいのです」


「ネタバレ」


「はい」


 葵はもう一度案内を読んだ。筋を先に知っておいた方が分かりやすいと書いてある。


「そういうものでもないと思うけど」


「ネタバレです」


「うん」


「わたくしは、何も知らないまま見たいのです」


 葵は頷いた。時計を見ると七時前で、開演まで一時間あった。


「じゃあ、それまでどうしようか」


 フィオナは既に別の方を見ていた。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 売店があった。


 硝子の棚に本が並び、上の段に円い盤の入った箱と、絵の刷られた大きな紙が立てかけてある。布の袋とマグと、この建物の形をした置物もあった。


「葵殿」


 フィオナが棚の前で止まっていた。


 一段に人形が並んでいる。


 手のひらに乗る大きさで、毛が生えて鼻が大きく、目が離れていた。口が横に広く、歯が二本だけ出ている。茶色と灰色のものがあって、一つずつ服が違った。


「かわいいです」


「そう?」


「かわいいです」


 葵は一つ手に取った。軽い。中は綿らしかった。底の札に値段と名前が書いてある。


 トロール。


「山にいるやつだ」


「山?」


「うん。北欧の。岩のところに棲んでる」


「本物がおりますのか」


「いると思う。太陽に当たると石になるって」


 フィオナが人形を光にかざした。


「石になるのですか」


「そう聞いたことがある」


「かわいそうです」


「そうだね」


 胸のところで持ったまま、隣のものも見ている。帽子を被ったものと被っていないもの、棒を持ったものもいた。


「これ、買ってもよろしいですか」


「いいよ」


「二つでも?」


「いいよ」


「三つ」


「うん」


 フィオナは三つ選ぶのに時間をかけた。並べて、離して見て、一つ戻してまた取った。


 会計のとき、葵は郵送を頼んだ。


「送るの?」


 胸ポケットからライラが訊いた。


「うん。持って歩くと壊れるかもしれないから。学園の部屋に届くようにしてもらった」


「そう」


 フィオナが振り返った。


「帰るころには、着いておりますね」


「うん」


「楽しみです」


 包まれた箱が奥へ運ばれていった。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 階段を上がると通路が曲がっていて、扉に番号が出ていた。係の人が開けて、中へ促した。


 狭い部屋に椅子が六つ並んでいる。他には誰もいなかった。


 手すりの向こうが吹き抜けで、下に客席が広がっている。


 葵は前に座った。


 見下ろす形だった。舞台が斜めに見える。人が入ってきて席が埋まっていき、天井から下がった丸いものの一つ一つに灯りが入っていた。


「葵殿」


「うん」


「よい席ですね」


「そうだね」


 椅子の背に張った布が柔らかい。肘を置くところに金属の板が嵌まっていて、小さく文字が彫ってあった。会社の名前だった。


(毎年、押さえてるって言ってたな。)


 一年分の席をずっと持っていて、使わない日は人に渡している。それだけのことだった。


 フィオナが手すりから身を乗り出して下を見ている。


「たくさんおられます」


「千人以上いるみたいだね」


「千人」


 ライラが胸ポケットから出て、手すりの上に座った。足を垂らして下を見ている。


 灯りが落ちた。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 舞台の前が窪んでいて、そこに人が入っている。低いところから音が上がってきて、いくつもの楽器が重なり、一つの厚みになった。


 幕の向こうが明るくなっていく。


 朝だった。


 山が並んで、その向こうから光が上がってくる。紫から橙になり、橙から黄になって、舞台の空に色がついた。雲が動いている。


 熱はなかった。光だけがそこにあった。


 ペールという若い男の話だった。


 母親に叱られながら、鹿に乗って空を飛んだ話をする。全部嘘なのだが、話がうまいので聞いている方が引き込まれる。村の娘の結婚式に乗り込むと、その花嫁を攫って山へ逃げ、翌朝には飽きて捨てた。


 その式で、もう一人の娘と目が合っていた。ソルヴェイという名だった。


 山で緑の服の女に誘われて洞窟の中へ入っていくと、岩が動いて道が閉じた。


 そこに怪物がいた。


 背が低く毛が生えていて、鼻が大きく、口が横に広くて歯が二本だけ出ている。


「葵殿!」


 フィオナが手すりを掴んだ。


「さっきのです!」


「そうだね」


 十匹、二十匹と出てくると、跳ねて、回って、床を叩き始めた。音が速くなっていき、上へ上へと上がって、途中から戻らなくなる。


 床が赤く光り、炎が上がって消えた。熱がここまで届いた。


 奥に、頭一つ分背の高いものが座っている。それは、山の王と名乗った。


 娘を娶れと言い、こちらの仲間になれと言い、それから掟を教えた。


 人の掟は、己自身であれ。


 トロールの掟は、己にのみ足れ。


 葵は端末の訳をもう一度読んだ。


 一字しか違わなかった。


(似てるけど、逆だ。)


 ペールは断って逃げた。


 次に出てきたものには形がなかった。


 舞台が暗くなって何も見えなくなり、ペールが手を伸ばして何かに触れ、押し、押し返されている。それでも、そこには何もなかった。


「誰だ」


「わたしだ」


 声だけがした。


 剣を振っても当たらない。当たっているのに手応えがなかった。


「回れ」


 声が言った。


「回っていけ、ペール」


 ボイグといった。倒せないので避けるしかなく、ペールは回っていった。


 葵は手すりに手を置いたまま動かなかった。


(戦えない相手だ。)


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 ソルヴェイが山の小屋へ来て一緒に暮らすと言うと、ペールは少し待っていろと言って出ていき、そのまま戻らなかった。


 母が死ぬときには枕元にいて、天国へ行く馬車の話をした。母はそれを聞きながら死んだ。


 海の向こうへ行って商人になった。何を売って儲けたのかを歌の中で説明していて、奴隷と偶像を西で売り、東でも売って、両方で儲けたと笑っていた。


 仲間に船を奪われ、砂漠へ流れ、預言者を騙り、女に騙され、最後は病院で皇帝に祭り上げられた。


 年を取っていく。同じ役者が演じているのに歩き方だけが変わっていき、背中が丸くなって足が上がらなくなった。


 帰る船が沈んだ。


 舞台に水が出た。本当に水があって下から光が当たっている。波が立って板が一枚だけ浮き、ペールはそれに掴まって生き延びた。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 老人になって故郷の森へ戻ってくると、そこにもう一人現れた。


 前掛けをして柄杓を持った年寄りで、ボタン職人といった。あなたを溶かすと言った。


 葵は訳を二度読んだ。


 天国にも地獄にも行けない。善人ではなかったが悪人でもなかったからで、何者でもなかった者は鋳潰して他のものと混ぜ、別のものにする。


 ペールは抗って、自分は自分だったと言った。


 ボタン職人が証明を求めると、ペールは探し回った。昔の仲間に訊き、山の王にも訊いたが、誰も証明してくれない。山の王は、お前はずっとこちら側の掟で生きてきたと言った。


(材料になるんだ。)


 そう思って、それだけだった。


 ペールが玉ねぎを剥く場面があった。


 一枚剥いて、また一枚剥いて、そのたびに名前をつけていく。船乗りだった自分、預言者だった自分、皇帝だった自分。剥いても剥いても、次の皮が出てきた。


 最後まで剥いた。


 中に何もなかった。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 小屋があった。


 明かりが点いていて、老いた女が扉の前に座っている。目が見えていない。それでも、そこにいた。


 ペールが膝をついて、自分はどこにいたのかと訊いた。


「わたしの信仰と、希望と、愛の中に」


 女が答えた。


 音が変わった。


 歌が始まる。低いところから始まって、ゆっくり上がって、また下りてくる。同じところへ何度も戻る歌だった。


 舞台が明るくなっていく。


 朝だった。最初と同じ光が山の向こうから上がってきて小屋の壁に届き、紫から橙になり、橙から黄になった。


 ペールが女の膝に顔を伏せた。


 歌が続いている。


 葵は隣を見た。


 フィオナが前を向いたまま動かなくなっていて、頬に線が一本あった。それが顎まで下りて、落ちた。


 拭かなかった。


 歌が終わった。


 光がしばらく残っていて、それからゆっくり落ちた。


 暗くなった。


 拍手が始まった。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 拍手が長かった。


 幕が下りて、また上がる。役者が並んで礼をして、それが三度あった。老人の格好をした男が前に出ると、音がひときわ大きくなった。


 灯りが点いた。


 人が立ち上がって通路の方へ動き始め、上着を着る音と話し声が下から上がってきた。


 葵は椅子に沈んだまま、しばらく動かなかった。


 体が重く、目の奥が乾いている。時計を見ると十時半を過ぎていて、島では朝の七時半だった。


「葵殿」


「うん」


「楽しかったです!」


 フィオナが手すりから身を起こしていた。目の下がまだ少し赤い。本人は気にしていないようだった。


「音楽がとても綺麗でした。朝のあの曲と、最後の歌。ずっと耳に残っております」


 小さく口ずさんだ。音は合っていた。


「山の王のところも良かったです。ドンドンドンと」


「うん」


「ペール殿は少しだめな方でしたが、面白かったです」


「そうだね」


「それより、ソルヴェイ殿です」


 フィオナが手すりを掴み直した。


「ずっと待っておられたのですよ。ずっとです」


「うん」


「最後に会えたとき、わたくし……」


 そこで止まった。


「わたくし、あの場面が好きです」


「うん」


「もう一度見たいです」


 葵は頷いた。


「葵殿は、いかがでしたか」


「僕?」


「はい」


 葵は舞台の方を見た。幕が下りたままになっている。


「ペールって、玉ねぎみたいだったね」


「玉ねぎ」


「うん。むいてもむいても、中に何も入ってないやつ」


「……確かに、そういう場面がございました」


「あれ、たぶんそういう意味だと思う」


「はい」


「冒険して、嘘ついて、偉くなって、全部なくして。でも自分は何も変わらなかったんだよね」


「はい」


「最後、ソルヴェイさんが受け入れてくれたけど」


「……そうですね」


「自分でどうにかしたわけじゃなくて、待っててもらえたから助かったんだと思う」


 葵はそこで少し黙った。


「それで、いいのかな」


「よいのではないでしょうか」


 即答だった。


「わたくしは、あれでよいと思います」


「そう?」


「はい」


 フィオナはそれ以上、理由を言わなかった。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 手すりの上でライラが顎を載せていた。


 さっきからずっと同じ格好で下を見ている。人が減っていく客席を、通路の端から端まで目で追っていた。誰かが席を立ち、荷物を持ち上げ、通路へ出て扉の方へ消えていく。それを一人ずつ見送っている。


「中身がない」


 葵はライラを見た。まだ下を向いたままだった。


「うん」


「ずっと、なかった」


「そうだね」


 ペールは最初から嘘つきで、最後まで嘘つきだった。剥いても剥いてもその下がまた同じもので、いちばん奥に何もなかった。


 ライラが顔を上げた。


 葵の方を向いている。羽根が動いていない。座ったまま、しばらく何も言わなかった。


「葵」


「うん」


「葵が空っぽでも、私はいる」


 葵は少し止まった。


 言われた意味をそのまま受け取り、ペールの話をしているのだと思った。自分に置き換えて言われているのだと理解するには、置き換える必要のあるものが先に要る。


「僕は空っぽじゃないと思うけど」


「うん」


「うん?」


「それでも、いる」


 ライラはそう言って、また顎を手すりに載せた。


 否定も訂正もせず、言い終えて元の格好に戻っただけだった。


 葵はもう一度、下を見た。


 人がほとんどいなくなっている。誰かが座席の間を歩いて床に落ちたものを拾い、袋に入れていた。舞台の幕は下りたままで、その前に誰もいない。


(なんの話だろう。)


 そう思って、それで終わりだった。


「行こうか」


「はい」


 フィオナが立ち上がってコートを羽織り、袖を通すときに一度肩を回して、それから襟を立てた。


 葵は椅子の肘掛けにもう一度触れた。


 金属の板に会社の名前が彫ってある。指の腹に文字の凹凸が残り、撫でると彫りの深さで形が分かった。


 四つの椅子が空いたままだった。


 一年分を押さえていて、今夜は空いていたので譲られた。譲られる相手がいなければ、六つとも空いたままだったのだろう。


 葵は扉の方へ歩いた。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 外に出ると人が多かった。


 終演の客が坂を下りていく。歩道に人が溜まって、皆が同じ方向へ動いていた。


 風が来た。フィオナが襟を押さえる。


「フィオナさん、宿まで歩いて二十分くらいだって」


「歩きます」


「うん」


「まだ元気です」


 葵は端末を見た。十時四十分だった。


 人の流れが途中で止まった。


 前の方で動きが止まって、後ろが詰まっていく。誰も焦らず、歩道の端に寄って、それぞれが空の方を向き始めた。


「葵殿」


「うん」


「皆さん、止まっておられます」


 葵も足を止めた。


 近くにいた男の人が手袋を外して端末を出し、その隣の家族が子供を肩に乗せている。犬を連れた人が犬を抱き上げた。


 誰も何も言わない。


(何か、あるのかな。)


 葵は上を見た。


 低い雲が街の光を受けて、下側が橙になっている。


 十一時になった。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 消えた。


 街灯が落ちた。店の窓も、道の上の電球も、建物の窓も看板も、全部が同じ瞬間に消えた。


 暗くなった。


 葵は自分の手が見えなくなった。隣に立っているフィオナの輪郭だけが、かろうじて分かる。


 音がしなくなった。


 人が話していない。車も走っていない。風の音だけがはっきり聞こえるようになった。


 目が慣れてくる。


 空に星があった。


 さっきまで一つも見えなかったものが、いくつも出ている。数えられなかった。雲の切れているところに細かい点が散らばって、その奥にもっと細かいものがあり、目を凝らすとさらに奥にもあった。


「星です」


 フィオナが小さく言った。


「うん」


「こんなに、あったのですね」


 葵は上を見上げたまま頷いた。


 島でも星は見える。オールドクォーターの上には出ていた。家の間の細い道から見上げると、屋根の隙間に何粒か見えた。


 数が違った。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 緑だった。


 空の低いところに細い帯が一本かかっている。雲かと思った。


 それが伸びた。


 左右へ広がっていく。速い。目で追いきれないうちに、空の端から端まで届いた。


「葵殿」


 フィオナの声が変わっていた。


 帯が垂れた。


 上の縁を空に留めたまま、下だけが落ちてくる。裾ができ、そこにひだが寄った。何列も重なって、奥へ行くほど暗い。


 布に似ていた。


 天井から下がって、下の端を誰かが持って揺らしている。そういう形をしていた。ただし向こう側が透けていて、星がそのまま見えた。光っているものの向こう側に、もっと遠いものがある。


 葵は自分の呼吸が浅くなっているのに気づいた。


 首を反らせすぎて、後ろの筋が張っている。それでも下ろせなかった。


 真上まで来ていた。


 さっき北の低いところにあったものが、頭の上にある。端が見えない。振り返っても、後ろの空まで続いていた。


(下にいるんだ。)


 見上げているのではなかった。もっと大きなものの底に立っていて、それが自分に構わず動いている。


 全体はゆっくり流れていた。歩くより遅い。


 その内側を、光が走った。


 速い。ひだの一本ずつを、下から上へ何かが抜けていく。追おうとすると、追い終わる前に次が走る。走った跡が明るく残り、それから溶けた。


 海の上で、同じ緑が揺れていた。


 黒い水面に映っている。空のものより淡く、形が崩れて、波でばらばらになっていた。上と下に同じものがあって、その間に街と、街の中の人が立っている。


 緑の裾が、赤くなっていた。


 いつからか分からない。境目もない。緑から黄緑へ、黄へ、赤へ、どこにも継ぎ目がなかった。


 赤が下りてきた。


 街の屋根に届いて、そこで止まる。


 フィオナの頬に、それが乗っていた。


 上を向いたまま、口を少し開けている。夕方と同じ色だった。あのときは日が沈む方から来て、今は真上から下りている。


 同じ人が、違う光の中にいた。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 周りで声が上がった。


 小さい。感嘆の音があちこちから同時に上がって、それきりまた静かになった。誰も話さず、歩き出す人もいない。


「葵殿」


「うん」


「これは」


「オーロラだと思う」


「オーロラ」


「うん。北の方で見えるやつ」


「本物でしょうか」


 葵はもう一度、空を見た。


 ひだが解けて、今度は柱が何本も立った。地面から生えているように見えて、上へ行くほど細くなり、途中で消える。


「本物じゃないと思う」


「そうなのですか」


「うん。この街でやってるんだと思う」


「なぜ、そう思われるのですか」


「本物はこんなに明るくないって聞いたことがある。写真だと綺麗に写るけど、目で見ると白っぽいって」


 フィオナが空を見上げたままでいた。


「では、あれは」


「たぶん、作ってるんだと思う」


 葵はそれ以上、説明しなかった。


 きれいだった。


(きれいだけど。)


 そこで止まった。続きが出てこなかった。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 十五分ほど続いた。


 柱が倒れて帯に戻り、緑が薄くなって、赤が消えた。最後に細い一本が北の端へ流れていって消えた。


 空に星だけが残った。


 しばらく、誰も動かなかった。


 それから、灯りが点いた。


 一斉だった。街灯も窓も看板も、道の上の電球も、全部が同じ瞬間に戻った。


 明るかった。


 葵は目を細めた。星が見えなくなっている。空が白っぽく濁って、雲の下側がまた橙になった。


 人が歩き出した。


 話し声が戻ってくる。車が動き出し、犬が下ろされ、子供が肩から降りた。


 何事もなかったようだった。


「葵殿」


「うん」


「見られてよかったです」


「うん」


「本物ではなくても、よかったです」


 葵は歩き出した。フィオナが隣に並ぶ。


 胸ポケットの中で、ライラは何も言わなかった。


 道の上の電球が、頭の上でずっと光っていた。

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