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第192話 耳を塞ぐ人

 坂を下りながら、葵はフィオナを見た。


「フィオナさん、まだ眠くない?」


「むしろ元気が出てきました」


 即答だった。


「わたくし、旅先では元気が出るタイプみたいです」


「いつも元気いっぱいだよね」


「そうでしょうか」


「うん。僕もフィオナさんを見てたら、元気が出てきたかも」


 フィオナが本を胸に抱えた。それから、両手で持ち直して開いた。


「見てみたい場所ある?」


 ページを繰る音がした。付箋のところで止まって、また進む。三枚目で止まった。


「葵殿」


「うん」


「ここを見に行きましょう!」


 フィオナが本を持ち上げて、こちらへ向けた。


 写真が載っていた。建物だった。高い。上の方が水の方へ傾いている。周りに何もないので、余計に高く見えた。


「あのムンクの叫びが見られるらしいのです」


「叫び」


「はい。あの絵です」


「ムンクの」


「そうです、それです」


 葵も知っていた。よく見る絵だった。顔の部分だけを取り出して、いろいろなものに使われている。前に颯がその柄のシャツを着ていた。


「本物、この街にあるんだ」


「あるそうです」


「見たことないな、本物は」


 フィオナが本を閉じて、歩き出した。速い。


「フィオナさん、どっちか分かってる?」


「分かりません」


 葵は端末を出した。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 歩いて十分ほどだった。


 道の途中で海沿いに出た。新しい建物ばかりが並んでいて、どれも硝子でできている。水際に歩道があって、そこを歩く人が多かった。


 まだ四時なのに、完全に夜だった。


「葵殿、あれです」


 正面に建っていた。


 高い。細くて、上の方だけが水の方へ折れている。真っ直ぐ立っているのに、途中から前へ倒れかけているように見えた。


 壁が硝子だった。内側に灯りがあって、その光が外へ滲んでいる。表面がざらついていて、はっきり透けてはいなかった。


「傾いております」


「そうだね」


「倒れませんか」


「倒れないと思う」


 隣にもう一つ、白い建物があった。屋根が斜めに地面まで下りていて、その上を人が歩いている。上まで行けるらしかった。


 フィオナがそちらを見た。


「あれは、坂でしょうか」


「建物だと思う」


「屋根に人が乗っております」


「そうだね」


「乗ってもよいのですね」


 葵はもう一度、その建物を見た。屋根の上に人が点々といて、いちばん高いところで何人かが立ち止まっている。


(そういう建物なんだ。)


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 中に入ると、暖かかった。


 天井が高い。人が多い。券売機が並んでいて、その前に列ができていた。


 葵は端末をかざして、二人分を選んだ。


 画面が止まった。


 赤い文字が出ていた。


 チケットの枚数が不足しています。


「え」


 葵は端末を下ろした。


「フィオナさん」


「はい」


「二人分だと足りないって」


「二人ではありませんか」


「僕とフィオナさんで二人だと思ったんだけど」


 胸ポケットの縁から、ライラが顔を出した。


「三人」


「あ」


 葵は画面に戻った。人数を三に変えると、次の画面が出た。区分を選ぶらしかった。


 大人。子供。学生。


「ライラ」


「なに」


「ライラって、子供? 大人?」


 ライラが少し黙った。それから、胸ポケットの縁に肘をついた。


「大人」


「そうなんだ」


「そう」


 葵は大人を選んだ。金額が変わった。子供の倍近かった。


「高いね」


「大人だから」


 ライラはそう言って、ポケットに沈んだ。


 フィオナが横から画面を覗き込んでいた。


「葵殿。ライラ殿は何歳なのでしょうか」


「わからない」


「訊いてみては」


「前に訊いたら、女の子の年齢を聞くのは失礼だって」


「……そうですか」


 券が出てきた。三枚ある。


 葵はそれを持って、入口の方へ歩いた。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 上の階に、その部屋があった。


 暗い。他の場所より照明が落としてある。人が集まっていて、皆が同じ方向を見ていた。


 円い部屋だった。壁が湾曲していて、その一箇所だけ明かりが当たっている。


 葵はフィオナの後ろから覗いた。


 硝子の中に、額が一つ入っていた。


「あれ」


 白黒だった。


 線だけで描いてある。橋があって、人が立っていて、口を開けている。空も水も線で埋めてあった。色がどこにもない。


「白黒だよ」


「え」


「白黒だ」


 フィオナが前へ出て、額の近くまで行った。それから戻ってきた。


「葵殿」


「うん」


「本と違います」


「うん」


「本のものは、空が赤うございました」


 フィオナが鞄から本を出して、開いた。付箋のページだった。


 写真が載っている。赤い空と、橙の水と、青い服の人。よく見る方の絵だった。


 葵は額をもう一度見た。同じ形の人が、同じ場所に立っている。同じ絵だった。色だけがない。


 壁の説明を読んだ。


 三点あると書いてあった。絵と、素描と、版画。一点ずつ順番に出して、他の二点は暗いところで休ませている。傷みやすいからだった。


「三つあるんだって」


「三つ?」


「同じ絵が三つ。順番に出してるらしい」


「では、赤いものも」


「あると思う」


 フィオナが本を閉じた。


「いつ出るのでしょうか」


 葵は説明の下の方を見た。時刻が書いてある。


「一時間ごとだって」


「一時間」


 フィオナが顔を上げた。


「待ちます」


「うん」


「わたくし、待ちます」


「うん、待とう」


「一時間くらい、なんでもありません」


 フィオナは既に他の方向を見ていた。部屋の外に、別の展示が続いている。


「その間に、他のも見よう」


「はい!」


 ライラは胸ポケットから出てこなかった。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 部屋を出ると、広いところに絵が並んでいた。


 大きさが揃っていない。人の背より高いものと、両手で持てるくらいのものが、同じ壁に掛かっている。


 フィオナが端から順に見ていった。速い。三秒見て、次へ行く。


 葵は少し遅れて歩いた。


 女の人の絵があった。男の人の絵もあった。海の絵と、木の絵と、部屋の中を描いたものがあった。


「葵殿」


「うん」


「絵が、たくさんございます」


「そうだね」


「叫んでいるものだけかと思っておりました」


「僕も」


 そう言ってから、葵は自分が一枚しか知らなかったことに気づいた。他に何を描いた人なのか、考えたこともなかった。


 同じ顔が並んでいる場所があった。


 男の人だった。若いものと、年を取ったものがある。服が違う。背景も違う。全部で十枚以上あった。


「自画像コーナーですね」


「そうみたいだね」


 説明にも、描いた人が自分を描いたものだと書いてあった。


 順番には並んでいない。いちばん端のものは老人だった。窓の前に立っていて、後ろに時計と寝台が描いてある。


 その隣は、ずっと若い人だった。


「たくさん描かれたのですね」


「うん」


 フィオナが端から順に、もう一度見ていった。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 次の部屋に入ったとき、フィオナが急に止まった。


「葵殿、見てはいけません!」


 視界が塞がれた。手袋越しの手が、目の上に乗っている。


「なにが」


「なにがではありません!」


 葵は指の隙間から、もう一度見た。


 女の人が描いてあった。目を閉じている。周りが暗くて、輪郭のところだけ明るかった。


「絵だよね」


「絵です。絵ですが、いけません」


「もう見たよ」


「見てはいけないと申しました」


「先に塞いでほしかったな」


 フィオナが手を離した。それから、両手で自分の頬を押さえた。


 耳まで赤かった。


「……大きくなったら、私のを見せてあげますから、我慢してください」


「僕、十五だけど」


「まだです」


「フィオナさんは見たよね」


「わたくしは大人です」


 フィオナは絵の方を見ないまま、次の部屋へ歩いていった。


 胸ポケットの縁から、ライラが顔を出した。


「見てた」


「うん」


「ずっと見てた」


 葵はもう一度、絵を見た。


 暗い背景に、白いものが渦を巻いている。髪が黒くて、それが背景と混ざっていた。額の上に赤い線が一本、輪のように描いてある。


 何がいけなかったのか、葵には分からなかった。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 赤い髪の女の人の絵があった。題名は吸血鬼。


 男の人の首に顔を寄せている。男の人はうつむいていて、顔が見えない。背景が暗く、髪の赤だけが浮いていた。


 説明を読んだ。


 題は「愛と苦痛」だったと書いてある。吸血鬼という名は後から他の人が付けたもので、描いた人はそう呼んでいなかったらしい。


「フィオナさん」


「はい」


「この絵、名前が二つあるんだって」


「二つ?」


「描いた人がつけた名前と、別の人がつけた名前」


「どちらが本当なのでしょうか」


「描いた人の方じゃないかな」


 葵はもう一度、説明を読んだ。


 呼ばれているのは後から付いた方だった。壁の札にも、そちらが大きく書いてある。元の題は、下の方に小さく添えてあった。


「でも、みんな後の方で呼んでるみたい」


「勝手ですね」


「うん」


 フィオナが絵を見上げた。赤い髪が、彼女のものと近い色をしていた。本人は気づいていないようだった。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 奥の壁が明るかった。


 近づくと、絵だった。大きい。葵の背丈より高く、横はもっとあった。


 太陽だった。


 画面の下の方に丸く描いてあって、そこから線が四方へ伸びている。何十本もあった。手前に岩と水があって、その全部が光を受けている。


 赤と、橙と、黄色と、白。上へ行くほど薄くなって、いちばん上は青に近かった。


 フィオナが絵の前で立ち止まった。しばらく動かない。


「葵殿」


「うん」


「さっきのと逆ですね」


「うん」


 一時間前に、二人は日が沈むのを見ていた。


 葵は絵を見上げた。線が太い。近くで見ると、絵の具が盛り上がっているのが分かった。指で描いたような跡が残っている。


「きれいです」


「うん」


「さっきの、白黒のものより」


「フィオナさん」


「はい」


「あれも同じ人が描いたんだよ」


「……そうでした」


 フィオナは絵を見上げたまま、しばらくそこにいた。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「葵殿。そろそろではありませんか」


 フィオナが端末を覗き込んでいた。


 戻ると、部屋の前に人が増えていた。円い部屋の中も、さっきより混んでいる。


 硝子の前が空くのを待った。


 葵は少し離れたところから見た。


 色があった。


 空が赤かった。橙と、その間に黄色が混ざっている。うねっていた。真っ直ぐな線が一本もなくて、全部が横へ流れている。


 水が青かった。濃いところと薄いところがあって、それも同じ方向へ流れていた。


 橋が斜めに描いてある。その手前に人が立っていて、両手を顔に当てている。


「葵殿」


「うん」


「これです」


 フィオナが本を出して、開いて、絵と見比べた。それから閉じた。


「本と、同じです」


「うん」


 葵は絵に近づいた。


 思っていたより小さい。壁一面の太陽の絵を見た後だからかもしれなかった。厚紙に描いてあると説明にある。表面が平らではなく、ところどころ絵の具が乗っていない場所があった。


 説明を読んだ。


 描いた人が友達と歩いていたとき、空が血のように赤くなった。そのとき、自然を貫く果てしない叫びを聞いた。そう書き残しているらしい。


「フィオナさん」


「はい」


「この人、叫んでないんだって」


「叫んでおります」


「叫んでるんじゃなくて、耳を塞いでるらしい」


「耳を」


「聞こえたんだって。自然が叫んでるのが」


 フィオナが絵を見直した。


 人物の手が、頬ではなく耳の位置にあった。


「……そうなのですね」


「うん」


 葵はそれ以上、何も思わなかった。


 そういうことなのだと知って、次の説明に目を移した。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「葵殿」


「うん」


「写真を撮りましょう」


 フィオナが端末を出していた。


「ここ、撮っていいの」


「壁に書いてありました。光らせなければよいそうです」


 葵は絵の方を見た。人が減っている。次の交代までまだ時間があった。


「じゃあ、フィオナさん撮るよ」


「わたくしではありません」


 フィオナが端末をこちらへ向けた。


「葵殿です」


「僕?」


「はい。そこに立ってください」


 葵は言われた場所に立った。絵が後ろに来る位置だった。


「もう少し右です」


「うん」


「そこです。動かないでください」


 葵は正面を向いた。手をどこに置けばいいのか分からなかった。


「葵殿」


「うん」


「せっかくですので、絵のように叫んでみてください」


「叫ぶの」


 さっき読んだ説明によると、絵の中の人は叫んでるわけではなかったが、言いたいことは分かった。


「はい。同じ格好で」


 葵は絵をもう一度見た。それから、両手を顔の横に当てた。口を開けて、目を大きくする。


「こうかな」


 しばらく、何も聞こえなかった。


 葵はそのままの格好で待った。


「フィオナさん」


「……はい」


「撮らないの」


「撮ります」


 音が鳴った。


 フィオナが画面を見て、それから顔を上げた。


「葵殿」


「うん」


「……かわいいだけですね」


「え」


「叫んでおられません」


「叫んだつもりだったんだけど」


「かわいいだけです」


 胸ポケットの縁から、ライラが顔を出した。


「見せて」


 フィオナが端末を下ろした。葵も覗き込んだ。


 写っていた。後ろに絵がある。自分が真ん中に立っていて、両手を顔の横に当てていた。目が丸い。口が小さく開いている。


 絵の人物は口が縦に伸びて、顔全体が細く崩れていた。葵の顔は丸いままだった。


「似てないね」


「はい」


「もう一回やる?」


「いえ」


 フィオナが端末を胸に抱えた。


「これで結構です」


「変な顔だと思うけど」


「消しません」


「まだ何も言ってないよ」


「消しません」


 ライラが胸ポケットの縁に肘をついた。


「かわいい」


「ライラまで」


「かわいいよ」


 葵はもう一度、絵を見た。


 同じ格好をしたつもりだった。どこが違ったのかは分からなかった。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 上の階に、窓の広い場所があった。


 椅子が並んでいて、人が座っている。飲み物を売る場所もあった。壁の一面が全部硝子で、そこから外が見えた。


 葵は窓際まで歩いた。


 下に街があった。


 光っている。道が線になって、その線が交差して、面になっていた。窓の一つ一つが点になって、それが集まって建物の形になっている。


 その先が黒かった。


 水だった。街の光が岸で終わって、そこから先には何もない。黒い帯が横に伸びて、両側の光を分けていた。


 もっと遠くに、もう一つ黒いものがあった。


 細い。街を囲んでいる。城から見たときと同じものだった。上から見ると、輪の形がはっきりしている。


「葵殿」


「うん」


 フィオナが隣に立った。硝子に近づいて、外を見る。


「あちらの、暗いところは」


「海だよ」


「では、あちらは」


「壁だと思う」


「……大きいですね」


 葵は水の向こうを見た。


 対岸に丘がある。灯りが疎らで、街の光が途中で終わっていた。斜面が黒く、その上に空があった。


 説明にあった場所だった。絵を描いた人が友達と歩いていて、空が赤くなったのを見たという場所。あの辺りだと書いてあった。


 フィオナも同じ方を見ていた。それから、目を閉じた。


 しばらく動かない。


「……うーん、確かに、叫び声が聞こえるような……」


(あっちの方じゃないと聞こえないと思うけど。)


 葵は丘の方を見たまま言った。


「百八十年くらい前の人と、同じものを聞いてるのかもね」


「そうかもしれません」


 フィオナが目を開けて、葵を見た。


「葵殿には、聞こえますか」


 葵は少し耳を澄ませた。


 硝子が厚い。下の道の音は届かない。空調の音がして、後ろの席で誰かが椅子を引いた。


 その奥に、細い音があった。


「風の音がする」


「風ですか」


「うん」


 フィオナがもう一度目を閉じて、それから開けた。


「わたくしには、聞こえません」


「そう?」


「はい。何も」


 フィオナは窓の外へ目を戻した。


 葵も外を見た。


 黒い環が、街を囲んでいる。


 音はそれきり聞こえなかった。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 外に出ると、風が来た。


「フィオナさん、寒くない?」


「大丈夫です」


「マフラー、上げた方がいいよ」


 フィオナが口元まで引き上げた。


 隣の白い建物が光っていた。屋根が地面まで下りていて、その上にまだ人が歩いている。上の方に立っている人の影が、空を背にして見えた。


「葵殿。あそこは、上れるのでしょうか」


「上れるみたいだね」


「行きますか」


「うん」


「参りましょう」


 歩き出したフィオナの後ろで、葵はもう一度その建物を見た。


 白い。屋根が斜めで、その先が水に沈んでいるように見えた。


 中に灯りが点いている。人が入っていくのが見えた。

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