第191話 光の終わり
坂を下ると、風の向きが変わった。
正面からではなく、横から来る。水の匂いが混じっていた。建物が低くなって、その隙間から灰色の面が見えるようになる。
フィオナが本を開いたまま歩いていた。
「葵殿、この先に城があるそうです」
「城」
「アーケシュフース城と書いてあります。古い城だそうです」
「王様の?」
「そう書いてあります」
石畳が終わって、道が広くなった。車が通っている。信号を渡ると、そこから先はまた坂だった。今度は上りだ。
上りきったところに、それはあった。
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石だった。
高い。壁が斜めに立ち上がって、上へ行くほど内側へ寄っている。表面が荒れていて、積んだ石の一つ一つが違う形をしていた。
葵は足を止めて見上げた。
汚れていた。黒く筋が入っていて、下の方に苔がついている。角が欠けたところがそのままになっていた。
(直してないんだ。)
この街に来てから、こういうものを見ていなかった。空港も、駅も、宿の通りも、どこかしら新しかった。傷んだところは直され、汚れたところは洗われていた。
ここだけが、古いまま置いてある。
門をくぐると、中は広い庭になっていた。芝が枯れて茶色く、その上に雪が薄く残っている。石畳の道が何本も交差していた。
人が歩いている。多くはない。犬を連れた人と、写真を撮っている人。
建物の壁に説明の板が付いていた。葵は近づいて読んだ。
十四世紀に建てられたとある。何度も攻められて、一度も落ちなかった。それから牢として使われた時期があった。
「落ちなかったんだって」
「立派です」
「七百年前だって」
「アカデミアより古いのではないでしょうか」
「そうだね、歴史を感じるね」
(アカデミアは三十周年だから、桁が違うけど。)
フィオナが壁に手を当てた。手袋越しに何度か押して、それから離した。
「まさに難攻不落ですね」
石は日の当たらない側だった。触れなくても冷たいと分かる面をしていた。
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城の外側に沿って歩くと、海が見えた。
灰色で、動きが少ない。風があるのに、水面が細かく震えているだけだった。向こう岸まで距離がない。街が回り込むように続いていて、その先が湾になっている。
船が出ていなかった。
漁の船も、渡しの船も、どこにもない。広い水面に何もなくて、それが当たり前のようだった。
葵は手すりに手を置いて、しばらく見ていた。
「葵殿」
「うん」
「あちらに、船がおります」
下の埠頭だった。
荷物が積んである。木の箱と、金属の箱。大きさが揃っていて、並べ方も揃っていた。フォークリフトが運んできて、列の端に置いていく。
その先に船が着いていた。小さくない。人を乗せる形ではなかった。
作業の人が箱を吊り上げて、船へ移していく。手が止まらない。慣れた動きだった。
しばらくして、船が出た。
湾を横切っていく。距離がない。同じ岸を歩けば十分ほどの場所へ、船が回っていった。
向かった先に、建物があった。
低い。横に長い。水際まで迫り出していて、そこに船着き場がある。船はそこへ着いた。
葵は建物のこちら側を見た。
壁だった。窓がない。海に面した方だけが開いていて、陸の側は面が続いている。道も、扉も見えなかった。
(なんで、船なんだろう。)
同じ岸だった。車で運べば早い。荷物を吊って、積んで、渡して、また下ろす。手間が増えるだけに見えた。
「葵殿、見ましたか?」
「うん」
「ロマンチックですねえ」
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フィオナは反対を向いていた。
日が沈むところだった。
水の上に光の帯が伸びている。真っ直ぐで、こちらの足元まで届いていた。空の下の方が赤く、上へ行くほど薄い橙になって、その先が紫になっている。
雲が細く並んでいた。下から照らされて、縁だけが光っている。
「葵殿、あちらを見てください」
葵は振り返った。
海の縁に、日が触れていた。
大きい。低い位置にあるからだった。ゆっくり沈んでいく。速さが分かるくらい、ゆっくりだった。
街の方を見ると、市庁舎の壁が赤く染まっていた。煉瓦の色が光を受けて濃くなっている。港の建物が全部同じ色をしていた。
灯りが少なかった。
この街のどこもかしこも明るかったのに、今この時間だけ、街灯が落ちている。道に必要な分だけが点いていて、それ以外は消えていた。
だから、空の色がよく見えた。
「きれいだね」
「はい」
フィオナが手すりに肘をついた。それから、少し首を回して葵を見た。
「……ちなみに葵殿」
「うん」
「わたくしと、どちらがきれいですか」
(ドラマで見たやつだ。)
葵は振り返った。
日は海の縁にあって、光が下から来ていた。
フィオナの髪が燃えていた。赤銅色が光を透かして、一本ずつ別の色を持っている。奥の方は暗い赤で、外へ行くほど明るく、縁のところは炎の先に近い。
頬に金の粉が散っていた。昼の光では平らだったものが、横からの光を受けて一つずつ影を持っている。
緑の目に日が入っていた。緑のまま、底の方だけが明るい。沈んだはずの日が、そこでもう一度だけ昇り直しているように見えた。
「フィオナさんだよ」
「……え」
「あっちも、太陽と海と雲がきれいだと思う。でも今いちばんきれいなのは、フィオナさんだよ」
葵は指も差さずに、そのまま続けた。
「髪、燃えてるみたいだ。赤から金になって、先の方だけ炎の色になってる。一本ずつ、最後の光を持ってる」
「葵殿」
「頬に金の粉がかかってる。昼は見えなかったやつ。空が最後に振りかけたみたいになってて、それで顔の形が、さっきよりよく分かる」
フィオナが手すりから肘を上げた。
「目には、日が入ってる。緑の海の底に沈んでるみたいだ。上は静かなのに、深いところだけ光ってる」
風が来た。髪が全部、同じ方向へ流れた。
「太陽も海も雲もきれいだけど、今いちばんきれいなのはフィオナさんだよ」
「……もう、よいです」
フィオナは前を向いた。
耳が赤かった。夕日のせいかもしれなかった。
肩の上でライラが動いた。何も言わなかった。
日が半分になった。それからしばらくして、水の縁に細い線だけが残った。
線が消えた。
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空の赤が引いていく。
紫が下りてきて、水の色が黒に近くなった。風が冷たくなる。
フィオナが手すりから離れた。
「行きましょうか」
「うん」
そのときだった。
街に、明かりが点いた。
一斉だった。窓も、街灯も、道の上の電球も、看板も、全部が同じ瞬間に点いた。港の建物が、輪郭ごと浮かび上がる。
さっきまで日が沈むのを見ていた場所が、明るくなった。
葵は目を細めた。
「葵殿。昼のようです」
「そうだね」
坂の上の方に、通りが見えた。
昼に歩いた道だった。上から見ると、光の帯になっている。渡してあった電球が全部点いていて、両側の店の窓もついていた。
道が終わるところまで、光が続いている。
そして、その向こう。
街の光が途切れる場所があった。細長く、真っ黒で、街を囲んでいる。明るくなったから、逆に見えた。そこだけ何も点いていない。
黒い環だった。
葵はそれを見て、それから通りの光へ目を戻した。
空港の壁に貼ってあった言葉を思い出した。読める文字の方だけ、覚えている。
最初の光から、最後の光まで。
日はもう沈んでいた。それでもこの通りは、朝と同じだけ明るい。
(この通りには、光の終わりはないのかもしれない。)
風が吹いた。ライラが胸ポケットに戻る。
フィオナが本を開いて、次のページを探し始めた。




