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第190話 あたたかいものと冷たいもの

宿を出ると、風が正面から来た。


石畳の道は幅いっぱいに続いていて、車が一台も通っていない。両側の建物の一階が、全部店になっていた。


日が低かった。二時前なのに、建物の影が道の半分を覆っている。


道の上に電球の連なった線が何本も渡してあった。まだ点いていない。


「葵殿」


フィオナが立ち止まっていた。


「あれは、食べ物の店でしょうか」


「たぶんそうだね」


「あちらも、ですか」


「そうだと思う」


「……全部ですね」


「全部ではないと思うけど」


葵は道の先を見た。石畳がずっと続いていて、突き当たりが見えなかった。


歩き出すと、匂いが来た。


甘い匂いだった。焦げた砂糖に近い。どこから来ているのか分からないまま、次の匂いに変わった。今度は肉だった。


フィオナが匂いのする方へ首を回した。三度回して、それから葵を見た。


「一つだけです」


「一つ?」


「本日は、一つだけにします」


「たくさん食べていいよ」


「……葵殿」


「うん」


「では、二つです」


ライラが胸ポケットの縁から顔を出した。


「さっき食べた」


「あれは、機内での食事です」


「その前も食べた」


「あれは、飛行機を待っている間の食事です」


フィオナが胸を張った。


「これは、街での食事です。別のものです」


(別のものなんだ。)


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


道端に、湯気の立っている台があった。


鉄板の上でソーセージが並んで焼けている。皮に張りがあって、ところどころ膨れていた。脂が落ちて、そのたびに音がする。


隣の鍋に、薄い生地が重ねてあった。白い。円くて、指で押すと沈みそうな厚みだった。


フィオナが黙って見ていた。


「二つください」


生地に一本ずつ巻いて、上から茶色いものと白いものをかけて渡された。紙が下に巻いてある。


熱かった。手袋の上からでも分かった。


葵は一口食べた。


皮が音を立てて割れた。中から汁が出てくる。塩気が強い。噛むと粗い粒が舌に残った。


生地は柔らかかった。パンではない。もっと重くて、噛むと甘い。


「じゃがいもだ」


「じゃがいもですか」


「たぶん、じゃがいもだと思う」


フィオナが生地の端を摘まんで引っ張った。伸びずに、そのまま千切れた。


「柔らかいです」


上にかかっていた白いものは冷たかった。細かいものが混ざっている。


海老だった。


熱いものと冷たいものが一緒に口に入って、そのあとに揚げた玉ねぎの匂いが残った。


「美味しい」


葵はそう言って、もう一口食べた。


風が来て、紙が鳴った。葵は道の端に寄って、背中を建物につけた。フィオナも隣に立つ。


石が冷たい。それでも風が当たらないだけで違った。


「あたたかいものは、いいですね」


「うん」


胸ポケットからライラが顔を出した。葵は生地とソーセージを千切って渡した。


ライラが両手で受け取って、端から齧った。


「しょっぱい」


「そう?」


「でも、好き」


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


二軒目は、フィオナが窓に貼りついた店だった。


硝子の向こうに、丸いものが盆に並んでいた。表面が艶を持っている。白い糸のようなものが上からかかっていて、その脇に粉が振ってあった。


盆から湯気が細く上がっている。焼きたてらしかった。


甘い匂いだった。焦げた砂糖に、もう一つ何かが混ざっている。


「葵殿、これは何でしょうか」


「わからない」


「葵殿でも分からないのですか」


「うん」


「では、買います」


紙の袋に二つ入れてもらった。指でつまむと、まだ熱が残っている。


割ると、湯気が上がった。


中に茶色いものが詰まっていた。潰した豆にも見えたが、匂いが違う。バターと、砂糖と、その奥にもう一つ。


一口食べた。


外側は軽い。噛むと層になって崩れる。中の茶色いものは重くて、舌に残った。


甘い。甘いのに、後から香りが鼻へ抜けていく。


「シナモンだ」


「シナモンです」


フィオナが一つを二口で食べ終えた。


「葵殿。これは、朝の食べ物でしょうか」


「どうして」


「甘いからです」


「甘いと朝なの」


「朝に甘いものは、よいものです」


理屈になっていなかった。


葵は残りを見た。半分ある。


胸ポケットからライラが出てきて、肩に降りた。葵は中の詰まっているところを少し崩して、手のひらに乗せて差し出した。


ライラが両手で抱えて、端から齧った。


「甘い」


「うん」


「もっと」


葵はもう一度崩して渡した。二回目の方が大きかった。


ライラが両手で持ったまま、道の先を見た。


「これ、好き」


「よかった」


フィオナが袋の中を覗いた。


「葵殿。もう一軒、参りましょう」


「二つって言ってたけど、お腹は大丈夫?」


「二つ、食べました」


「うん」


「ですので、次は三つ目です」


数は合っていた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


道の途中で、フィオナが本を開いた。


「葵殿。この本によりますと、この道は王宮まで続いております」


「王宮」


「はい。突き当たりです」


「王様、いるのかな」


「おられるのではないでしょうか」


葵は道の先を見た。まだ突き当たりが見えない。


店が途切れた。


建物が高くなって、一階の窓に商品が並ばなくなった。硝子が大きい。中は暗かった。土曜だからだろうと葵は思った。


その一つを通り過ぎるとき、フィオナが足を止めた。


「葵殿」


低い建物だった。両隣の方が高い。わざと低くしてあるように見えた。


入口の上に、彫刻が据えられている。


狼だった。座っている。大きくない。実物と同じくらいの大きさで、正面を向いていた。牙は出ていない。口を閉じている。


その下の壁に、文字が並んでいた。


VALHALLA ARMS


「葵殿。ここです」


「うん」


「わたくしたちが、明日から参るところです」


扉の脇に、人が二人立っていた。


黒い戦闘服だった。関節に沿って板が重なっている。飛行機で見たものと同じだった。顔は見えない。


胸に短いものを提げていた。銃だと分かるのに時間がかかった。短すぎて、玩具のように見えたからだった。


腕に箱が付いている。表示が出ていて、時々色が変わった。


腰にもう一本、棒のようなものが差してあった。


二人とも動かない。葵が前を通っても、顔を向けなかった。


正面が全部硝子で、中がよく見える。広い。一階に椅子と机が並んでいて、灯りが点いていた。人が何人か座っている。


その奥に、腰の高さの仕切りがあった。一列に並んでいる。人がそこを通るとき、一度止まって、それから抜けていった。


仕切りの手前に机があって、人が二人座っている。制服だった。


(あそこから先は、入れないんだ。)


看板が出ていた。読めない言葉の下に、英語で同じことが書いてある。一階の展示と喫茶は誰でも入れるらしかった。


「入りますか」


「入らないよ」


「そうですか」


フィオナが本を閉じて、また歩き出した。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


道が上りになった。


石畳が終わって、その先が広い。木が左右に並んでいて、葉が全部落ちていた。枝の形がそのまま見える。


正面に、建物があった。


黄色かった。四角い。装飾が少ない。窓の数が多くて、それが規則正しく並んでいる。真ん中に柱が立っていて、その上に三角の屋根が乗っていた。


大きくない。


葵は足を止めた。学園の中央棟の方が広い。


「これが」


「王宮のはずです」


前に広場があった。中央に像が立っている。馬に乗った人だった。


人が歩いていた。犬を連れた人がいる。写真を撮っている人がいる。柵はなかった。


そして、静かだった。


葵は建物を見上げた。


窓が全部同じだった。カーテンが引かれている。全部の窓に、同じ高さで引かれていた。一つも開いていない。


灯りが点いていなかった。


この街のどの建物にも点いていた灯りが、ここだけ点いていない。


「フィオナさん」


「はい」


「明かりがついてない」


フィオナが見上げた。しばらく数えているようだった。


「……そうですね」


門の脇に、案内板が立っていた。


葵は近づいて読んだ。硝子の中に紙が入っていて、同じことが四か国語で書いてある。建物が建てられた年と、設計した人の名前が並んでいた。


一番下に、一行だけ短い文があった。


王室はトロンハイムにおられます。


「葵殿」


「うん」


「別の街ですか」


「そうみたいだね」


「では、ここは」


葵はもう一度、建物を見た。


壁に汚れがなかった。窓枠の色も新しい。石段に欠けたところがなく、その前の砂利が均されていた。落ち葉が一枚も落ちていない。


誰かが毎日ここを掃いている。


「きれいだね」


「はい」


「ずっときれいにしてるんだと思う」


「なぜでしょうか」


葵は答えを持っていなかった。


胸ポケットで、ライラが動いた。


「誰もいないのに」


「うん」


「なのに、きれい」


葵は口を開いて、そのまま閉じた。


風が抜けた。枝が鳴って、砂利の上を落ち葉が転がっていく。誰かが写真を撮っている。犬が走っていった。


窓のカーテンは、一つも動かなかった。

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