第189話 前庭
「葵殿」
「はい」
「ワープが使えるのでしたら、なぜ直接ノルウェーに行かなかったのです」
「あれ、戦争に使える技術なんだって」
「戦争」
「だから、どこにでも置けないんだ。中立の場所にしか置かせてもらえない」
「なぜでしょうか」
「悪い国が解析しちゃったら大変だから、かな。軍隊をいきなり送り込めるようになるし」
フィオナは本を膝の上で閉じた。
「……なんと」
「うん」
「世界が、仲良くできなくなっているのですか」
「そうだね」
「三十年で、そこまで変わってしまったのですね」
葵は少し考えた。
「フィオナさんの時代は、平和だったの」
「はい」
即答だった。
「七元徳と呼ばれるAIが、世界中のあらゆる問題を平和的に解決していったのです」
「七元徳」
「ええと……なにやら、人間にとって見習うべき行い、のお手本のような……そういう名前のAIです」
説明は途中で怪しくなった。
「アニマじゃないんだ」
「アニマは、七元徳のまとめ役ですね」
葵の指がテーブルの縁で止まった。
「まとめ役」
「はい。七つおりました」
「七つ」
「ええ、七つです」
フィオナは何でもないことのように言って、また窓の外へ目を向けた。白い雲の上に、何もない。
葵はアニマの名前しか知らなかった。三十年前に止まった、世界を管理していたAI。教科書に載っているのはそれだけだった。
「もう戦争は起きないと、皆が申しておりました」
「うん」
「わたくしも、そう思っておりました」
葵はペットボトルを持ち上げて、口をつけずに戻した。
フィオナは本を開き直して付箋を一枚貼り、位置が気に入らなかったらしく剥がして貼り直した。
「今も、あるのでしょうか」
「何が?」
「その、七つの方です」
「聞いたことないな」
「そうですか」
フィオナはそれ以上訊かなかった。
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機体が傾いた。
窓の外の白は下から迫ってきて、中に入ると何も見えなくなった。雲の粒が窓を横に走っていく。
翼の下で何かの伸びる音がした。
抜けた。
下が白かった。
雪だった。同じ形の木が隙間なく並び、地平線まで続いている。その間の平らな白は、凍った湖だと分かるまで少しかかった。
家も道もなく、煙一つ上がっていない。
雲の影が、雪の上をゆっくり流れていた。
やがて、線が見えた。
黒い線だった。まっすぐではなく大きく円を描いて、森を横切り、雪の中を延々と伸びている。端が見えない。機体が旋回しても、まだ続いていた。
内側にも雪はあった。森も湖もそのまま入っている。ただ、そのずっと奥に灰色の集まった場所があって、煙が上がっていた。昼なのに灯りの点いた場所もある。
線の上には何かが等間隔に並んでいて、上空からでは点にしか見えない。
「葵殿。あれは」
「壁だと思う」
「壁」
「悪魔が入ってこないようにするやつ」
フィオナは窓に額をつけたまま、しばらく動かなかった。
「……あれを越えるものが、来るのですね」
葵は答えられなかった。
機体が高度を下げた。空港はもう線の内側にあった。滑走路の周りだけ雪が除かれ、その先はまた森だった。
車輪が触れた。座席に背中を押されて、長く続いた音がだんだん静かになった。
止まった。
「着きました!」
「着いたね」
ライラが胸ポケットの中で身を起こした。画面はまだ緑のままだった。
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扉の外に通路が繋がっていた。
空気が冷たく、乾いている。息を吸うと鼻の奥が締まった。
通路を歩いて建物に入った瞬間、それが消えた。
暖かい。暑くはない。ちょうどよかった。
明るかった。
窓から光が入っている。それだけではなかった。天井にも、壁の下にも、床の縁にも灯りが仕込まれていて、どこにも影がない。自分の足元を見ても、影が薄かった。
床も壁も天井の梁も木でできている。傷がなく、どこにも継ぎ足した跡がなかった。
音が少なかった。
人は歩いている。荷物を引いている。それなのに静かだった。誰も大きな声を出さず、案内の放送も耳を澄まさないと聞き取れない音量で流れている。
葵は列に並んだ。
並ばなくてよかった。前の人が止まらずに歩いていく。葵も歩いた。天井の四角い板が光って、通り抜けた。
(終わり?)
紙は出なかった。誰も何も訊かなかった。顔を上げる必要さえなかった。
後ろでフィオナが立ち止まっていた。
「フィオナさん」
「……よろしいのですか、これは」
「みたいだね」
フィオナが歩き出すと、板がもう一度光った。
「あの司祭様は、あんなに時間をかけておられたのに」
「そうだね」
葵はそう答えて、荷物の出てくる場所へ向かった。
床にゴミがなかった。掃除をしている人も、どこにもいなかった。
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荷物を待つ間、葵は壁を見た。
壁一面に広告があった。
灰色の狼が正面を向いている。その下に、二行の文字が並んでいた。
Fra første lys til siste.
From first light to last.
写真は武器ではなかった。台所に立つ女の人と、床に座った子供と、その後ろで笑っている老人。手前に白い鍋が置いてある。
鍋の底に、狼の紋章が入っていた。
葵は隣の広告も見た。
寝具だった。その隣は椅子。その隣は細長い箱に入った薬。名前が違う。フリッグ、エイル。
もう一枚は食べ物だった。瓶に入った赤いものと、白い箱が並んでいる。イズンと書いてあった。
どの写真の隅にも、灰色の狼が小さく入っていた。
「葵殿、あちらの方も狼です」
フィオナの指した先で、荷物を待つ男が肩に鞄をかけていた。留め具に狼がついている。
その隣の人も、そうだった。
葵は数えるのをやめた。
(この街の人は、全部ここで買うんだ。)
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「フィオナさん」
「はい」
葵はスーツケースを開けて、畳んだものを出した。
白かった。生成りに近い、少し温かみのある白。広げると床に届きそうなほど長い。
「着てみて」
フィオナは羽織りを脱いで袖を通した。
肩も、袖の長さも、丈も合っていた。
ベルトを締めると、フィオナは自分の腕を見下ろし、それから襟に手をやった。
「葵殿」
「うん」
「これは……」
「変?」
「いえ」
フィオナは両手を下ろした。
「とても、おしゃれです」
「気に入ってくれてよかった」
襟を立てて、また下ろした。立てた方が好きらしく、もう一度立ててそのままにした。
それから、裾を持ち上げて左右に振った。
「葵殿、見てください。ふわふわです」
「見てるよ」
胸ポケットからライラが顔を出した。
「振りすぎ」
「振っておりません!」
葵はスーツケースを閉じた。
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「フィオナさん、一回外に出てみようか」
「外に、ですか」
「その格好で大丈夫か、確かめておきたいんだ」
出口は近くにあった。二重の扉になっていて、間で一度止まる。
外へ出ると、耳が痛くなった。
風だった。まっすぐ吹かず、途中で向きを変える。建物の角で渦を巻いて、コートの裾が跳ね上がった。
フィオナが両手で襟を押さえた。
「顔が! 顔が痛うございます!」
「うん、僕も」
葵は鞄から手袋を出してフィオナに渡す。もう一組を取り出してはめた。
「寒い?」
「いえ、体は寒くありません」
フィオナがコートの前を押さえたまま、その場で足踏みをした。
「これは、あたたかいです」
「よかった」
顔と耳だけが痛かった。
「フードあるよ、それ。被って、この紐をきゅっとやると顔の周りだけ残るんだ」
葵は自分のフードを被って、両側の紐を引いた。頬に生地が寄って、風が当たらなくなる。
フィオナが葵を見た。それから、首を横に振った。
「かわいくありません」
「そう?」
「葵殿、それはかわいくありません」
「あたたかいけどな」
「あたたかいのは分かります」
フィオナがコートのフードを指でつまんで、被らずに戻した。
「葵殿には、マフラーがお似合いです」
「マフラー」
「はい。首に巻くものです」
風がまた向きを変え、標識の柱を鳴らした。葵は空を見上げた。低い雲が速い。
車が並んでいるのが見えた。どれも浮いていない。地面を走る型ばかりで、屋根に厚い板が載っている。
「あちらでは、皆浮いておりましたのに」
「この風だとつらいのかもね」
(ここでは、浮かせない方がいいんだ。)
「戻ろう」
「マフラーが必要です」
「うん、買おうね」
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売店に並んでいた。
厚手で、幅がある。色は五種類あった。フィオナが端から順に手を当てていって、二枚目で止まった。
深い緑だった。
「これです」
「二本?」
「二本です」
葵は札を見た。安くはなかったが、高くもない。二本取ってレジに出した。
「葵殿。巻いてほしいです」
フィオナが顎を上げて、両手を下ろした。
葵は端を揃えて、首の後ろへ回した。前で交差させて、片方を折り返す。口元が隠れる位置で止めた。赤い髪が中に入っていたので、指で外へ出した。
「できたよ」
フィオナが顎を引いた。首を左右に動かして、それから両手で頬の横を押さえた。
「あたたかいです」
「よかった」
葵が自分の分を手に取ると、フィオナがそれを取り上げた。
「わたくしがいたします」
「え」
「動かないでください」
フィオナが後ろへ回った。首に生地が当たる。少し強く引かれて、葵は顎を上げた。
「苦しくありませんか」
「大丈夫」
前で結ばれた。それから、もう一度ほどかれた。
「今のは失敗です」
「うん」
二度目も結び直された。端の長さが左右で違っている。片方が肩から落ちて、もう片方は胸のあたりで止まっていた。
「できました」
葵は自分の首元を見下ろした。少し曲がっている。
顎まで生地が来ていて、息が中に籠もった。あたたかい。
「ありがとう」
「いえ」
フィオナが自分のと見比べて、頷いた。
「お揃いです」
「うん」
ライラが胸ポケットの縁から顔を出して、二人を見上げた。
「同じの巻いてる」
「お揃いなのです」
フィオナがもう一度言った。
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駅は建物の中にあった。
地下ではなく、空港の一階にそのままホームが繋がっている。改札はない。柱の間を歩いて下りると、そこが乗り場だった。
列車が入ってきた。
金属の擦れる音がしない。白い車体に、細い線が一本入っている。
扉が開いた。
中は暖かく、向かい合わせの座席の間に机があった。荷物を置く棚は低い位置にあって、スーツケースをそのまま立てられる。
フィオナは窓際に座り、コートの裾を膝の上で整えた。
「十分くらいだって」
「では、あっという間ですね」
列車が動き出した。速さの上がる感覚がないまま、外の景色だけが流れ始めた。
窓の外は雪だった。
同じ形の木が隙間なく続いている。上から見たものと同じだった。ただ、近くで見ると幹が黒い。
家はなかった。
しばらくして白い平地が現れた。凍った湖だった。表面に雪が薄く積もり、風でところどころ吹き払われている。払われた場所だけ黒かった。
「壁の中も、こんなに何もないのですね」
「そうだね」
「もっと家が並んでいるものと思っておりました」
葵も同じ景色を見た。木しかない。
しばらくして、フィオナの姿勢が変わった。
背中が座席から離れている。膝の上に置いた手が動かなくなっていた。
「葵殿」
声が低かった。
「木の間です」
葵は同じ場所を見た。木しかない。列車が速すぎて、後ろへ流れていく。
「もう見えません」
「何が見えたの」
「……分かりません。ただ、こちらを見ておりました」
車内は静かなままだった。誰も窓の外を見ていない。前の席の男は書類から目を上げなかった。
「よくあることなのでしょうか」
「わからない」
ライラは胸ポケットから出てこなかった。
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木が途切れた。
家が現れた。
低い建物が並んでいる。二階建てより高いものがない。屋根は波形の板で、青とも灰ともつかない色をしていた。どれも同じだけ褪せている。
道が細かった。車の入れる幅がない。建物の間に人の歩ける隙間があって、そこに雪が寄せてある。
煙突が多かった。一軒に一本ずつ立っていて、どれからも煙が出ている。上がってすぐ、横へ倒れた。
灯りは点いていた。どの窓にも点いている。空港と同じだけ明るい。
「葵殿」
「うん」
「あれは、オスロでしょうか」
前の席の男が顔を上げた。書類を膝に置いて、窓の外へ目をやってから、こちらを見た。
「フォルゴーデンだ」
英語だった。ゆっくり喋っていた。
「フォル、ゴーデン」
「前庭という意味だよ」
男はそれだけ言って、また書類に戻った。
葵はもう一度、外を見た。
診療所の看板が出ていた。その隣に、箱の積まれた小屋がある。人が並んでいて、順番に何かを受け取っていた。列は乱れていない。並んでいる人たちは喋っていて、時々笑っていた。
子供が三人、細い道を走っていった。上着が同じ色だった。
(知ってる。)
家の建て方は違う。雪もある。それでも、道の幅も、屋根の低さも、葵の知っているものと同じだった。オールドクォーターの、家と家の間。
葵はそこで十五年住んでいた。
「葵殿、あの方たちは」
「住んでるんだと思う」
「壁の、すぐそばに」
「うん」
フィオナはしばらく黙っていた。
「壁が破られたら、まず、あそこですね」
葵は答えなかった。
家並みが途切れた。
道が広くなり、建物が高くなる。三階、四階、五階。石造りの壁と大きな窓と金属の柱。窓の中に人が座っていて、机に向かっていた。
線路が高いところを通り始めた。屋根が下に見え、その向こうに水があった。灰色で、動いていない。海だと分かったのは、その先に何もなかったからだった。
列車が速度を落とした。
前の席の男が立ち上がって荷物を下ろした。留め具に狼がついていた。
「よい滞在を」
「ありがとうございます」
男は頷いて、先に扉の方へ歩いていった。
フィオナがコートの襟を立てて、それから下ろした。
「着きましたね、葵殿」
「うん」
葵はスーツケースの持ち手を伸ばした。
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中央駅は屋根が高かった。
鉄の梁が組んであり、その隙間からガラスが見える。光が斜めに落ちていた。人が多く、皆速く歩いている。
外に出ると、また風だった。
正面の広い道は石畳で、車が通っていない。両側に店が並び、どの窓にも灯りが点いている。まだ二時前なのに、空は低く暗かった。
フィオナが足を止めた。
「葵殿」
「うん」
「あれは、食べ物の店でしょうか」
「たぶんそうだね」
「あちらも、でしょうか」
「そうだと思う」
「……全部ですね」
「後で行こう」
「はい!」
道の上に、電球の連なった線が何本も渡してあった。まだ点いていない。点いたらもっと明るくなるのだと分かった。
宿は、その道から一本入ったところにあった。
石造りの四階建てで、屋根の勾配が急だった。窓が小さい。壁の色は周りより濃く、下の方だけ黒ずんでいる。
扉を押すと、木の匂いがした。
中は狭く、机の奥に階段が見えた。壁の暖炉の跡は塞がれ、上に鉢が置いてある。
机の向こうに、年配の女の人が座っていた。
葵は端末を出して、予約の画面を向けた。
「アオイ・コハルです。一泊で取ってあります」
女の人は画面を見て、それから旅券を求めた。葵が出すと、受け取って見比べ、返した。
「二名様ですね」
「はい」
机の下から鍵が出てきた。金属の鍵で、番号の彫られた札がついている。
「三階になります。申し訳ないのですが、階段だけです」
「はい」
「朝食は七時からです、部屋で召し上がる場合はおっしゃってください」
それだけだった。フィオナのことは何も訊かれなかった。
階段は木で、上ると軋んだ。踊り場ごとの窓から隣の建物の壁が見える。手を伸ばせば届きそうな近さだった。
三階の廊下は暗く、天井の灯りが一つ置きに点いている。
鍵を回すと、扉は内側へ開いた。
ベッドが二つ並び、間に小さな机がある。窓は一つで、外に隣の屋根が見えた。天井が斜めになっていて、奥の方は葵の背より低い。
暖房が入っていた。
フィオナは窓際まで行って外を見た。
「葵殿。屋根に、草が生えておりません」
「街の中だからじゃないかな」
「本には、載っておりました」
「どこか別のところにあるんだと思う」
フィオナは本を開いて付箋のページを見た。それから閉じて、窓の下の縁に置いた。
葵はスーツケースを開けて上着を掛けた。ライラが胸ポケットから出て、机の上に降りる。
「狭い」
「うん」
「学園より狭い」
「一晩だけだよ」
ライラは机の端まで歩いて、窓の外を見上げた。屋根と屋根の間に、空が細く見える。灰色だった。
フィオナはベッドの端に腰を下ろして手を置き、二度押した。それから一度だけ跳ねた。
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葵は端末を出して時刻を見た。
こちらは一時四十分だった。表示を切り替えると、島の時間が出た。
日付が変わっていた。
「フィオナさん」
「はい」
「島だと、もう夜中の零時過ぎだって」
フィオナが端末を覗き込んだ。
「……昨日から、起きたままでございますね」
「そうだね」
葵は自分の手を見た。特に何ともなかった。
「どうする。少し休む?」
「葵殿は」
「僕は平気だよ、フィオナさんに合わせるよ」
フィオナはしばらく葵を見ていた。それから、コートを取り上げた。
「参りましょう」
「うん」
「日が落ちる前に、街を見たいです」
「そうだね。四時くらいには暗くなるみたい」
「では、急がねばなりません」
フィオナが袖を通し、葵も上着を着た。
ライラが机から飛んで、胸ポケットに入った。
「寝ないの」
「うん」
「元気いいね」
葵は鍵を持って、扉を開けた。




