第188話 ノルウェーへの空路
「葵殿ー……」
「どうしたの」
「店が、店がやっておりません……」
通路の両側に、鉄の格子が下りていた。看板だけが光っている。皿の写真が並んでいるのに、その下の店内は暗かった。
「まだ六時前だからね」
「わたくしの体内では、夕食の時刻です」
「うん、そうだよね」
「夕食の時刻に、店が閉まっている国があるのですね」
「時間がずれてるだけだよ」
フィオナが格子の前で立ち止まって、写真を一枚ずつ見上げていった。丸い皿に、赤いものと白いものが載っている。
「開くのは何時でしょうか」
「僕たちが乗るのは九時だから」
「……間に合いませんか」
「間に合わないと思う」
フィオナが本を抱え直すと、付箋がまた同じ方向に傾いた。
葵は明るい方へ歩いた。奥に一軒だけ、格子の上がっている店がある。カウンターの中で白い上着の男が機械に何かを詰めていて、豆を挽く音が天井の高いところで割れて響いた。
その隣が売店だった。こちらは全部開いている。
葵は棚の前で足を止めた。
飲み物の並びの端に、見慣れた形があった。五百ミリリットルの細いペットボトル。ラベルの色も同じだった。
葵は二本取ってレジに出し、端末をかざした。
「葵殿、それは」
「日本のジュースだよ。 こっちにもあるんだね」
「お好きなのですか」
「うん」
葵は一本を上着のポケットに入れ、もう一本を鞄に入れた。
「今は飲まないの」
胸ポケットからライラが顔を出していた。
「うん。あとで」
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ラウンジは、その先にあった。
床が石で、足音が響いた。奥へ行くと絨毯になって、音が消えた。窓が大きい。外はまだ暗く、滑走路の灯りが二列、遠くまで伸びている。その間を赤い点がゆっくり動いていた。
人はまばらだった。目を閉じている人がいる。膝の上でノートを開いている人がいる。誰も喋っていない。
奥に、料理の並んだ台があった。
フィオナの足が速くなった。
「葵殿」
「うん」
「ございます」
「あるね」
「ございます!」
葵は窓際の席に鞄を置いて、コーヒーだけ取ってきた。小さい杯だった。指でつまめる大きさで、中身は底から二センチほどしかない。一口で終わった。
フィオナが皿を持って戻ってきた。三日月の形をした焼き菓子が、四つ載っている。
「これは、朝の食べ物だそうです」
「そう書いてあったの」
「隣の方が、そう召し上がっておりました」
フィオナが一つ取って、二口で食べた。粉砂糖が膝の上に落ちた。
壁の画面に、地図が出ていた。
長靴の形をしている。上の方に数字が並んでいて、下へ行くほど数字が大きくなる。喋っている女の人の声は、音が絞られていて聞こえなかった。
地図が北へ動いた。
長靴が画面の下へ消えて、代わりに海と、その向こうの陸が出てきた。数字が一桁になる。マイナスがついた。
雪のマークが、いくつも並んでいた。
「葵殿」
「うん」
「これは、我々の行く先でしょうか」
「そうだと思う」
フィオナが皿を置いて、画面を見上げた。
「マイナス四度です」
「うん」
「わたくし、羽織りものしか持っておりません」
「コート、持ってきてるよ」
フィオナが顔を上げた。
「わたくしの、でしょうか」
「うん。着られるやつ」
「……いつの間に」
「昨日」
フィオナが焼き菓子を持ったまま、しばらく葵を見ていた。それから、粉砂糖のついた指を膝の上で拭った。
「葵殿」
「うん」
「ありがとうございます」
「うん」
フィオナは焼き菓子に戻った。二口で食べ終えて、また皿を取りに行った。
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画面が切り替わった。
緑の地面を、人が走っていた。青と黒の縞の服と、赤と黒の服が入り混じっている。セリエAのプレイ映像だ。
胸ポケットからライラが身を乗り出した。
同じ場面が、もう一度流れた。角度が変わって、また流れた。
「かっこいいね」
葵にはそう見えた。走って、蹴って、入った。それだけは分かった。
「違う」
ライラが画面を指した。
「今の、フェイント」
「フェイント」
「右足。上げた。上げただけ」
もう一度、今度はスローモーションで同じ場面が流れた。縞の服が右足を振り上げる。
「みんな、そっち見た」
赤と黒の服が三人、同じ方向へ体を傾けていた。
「ボール、逆」
「……ほんとだ」
「名付けるなら幻。 ミラノの幻影」
画面の下に、白い文字が出ていた。
「ここ、走ってた。ずっと前から」
ライラが画面の端を指した。誰も見ていない場所を、一人が全速力で上がってきている。
「打ち合わせてない。合っただけ」
「合っただけなんだ」
「一回で合う。それがすごい」
最後にもう一度、ボールがゆっくり浮いて、網に落ちた。
「あれは、余裕」
「余裕」
「強く蹴らない。届けばいい。分かってる人の蹴り方」
葵はライラを見た。
(なんで詳しいんだろう。)
「ライラ」
「なに」
「よく知ってるね」
「うん」
それだけだった。ライラは画面に戻った。
フィオナが三度目の皿を持って戻ってきたとき、窓の外の色が変わっていた。
滑走路の灯りが、さっきより弱く見える。灯りの向こうに機体の輪郭が浮かんでいた。白い。尾の部分だけが青かった。
その向こうに、平らな線があった。空と地面の境目だった。さっきまで、そこには何もなかった。
「明るくなってきたね」
「はい」
フィオナが皿を膝に置いて、窓の方を向いた。四つ目の焼き菓子を持ったまま、しばらく外を見ていた。
やがて、建物の陰から光が伸びてきた。窓のガラスに、二人の影が映った。
フィオナが四つ目を食べ終えた。
「葵殿」
「うん」
「五皿目に参ります」
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呼び出しがあったのは八時二十分だった。
最初に呼ばれた人たちが、通路の左の口へ入っていった。フィオナが立ち上がって本を抱えたが、葵は座ったままでいた。
「葵殿、行かないのですか」
「僕たちは次だと思う」
二度目の呼び出しで、番号が変わった。
案内板の下に立っていた女の人が葵の券を見て、右の口を指した。左とは別の扉だった。開けると、廊下ではなく階段になっている。
下りた先に、外へ出る扉があった。
風が強かった。ローマの朝は、思っていたより冷たい。フィオナの羽織りが後ろへ流れた。
扉の外に、車が一台停まっていた。窓のない箱型で、後ろが荷台のように広い。中に椅子はなく、握るための棒が天井から下がっていた。
「乗るのですか」
「乗るみたいだね」
車が動き出した。飛行機の間を抜けていく。真下から見上げると、翼が屋根のように広がっていた。車輪が葵の背より高い。整備の人が脚立の上で何かを開けていて、こちらを見なかった。
「大きゅうございますね」
「うん」
「これが、浮くのですね」
「浮くよ」
「不思議です」
車が止まったのは、一機の後ろだった。
尾の下に階段がかかっている。前の方でも人が乗り込んでいるのが見えたが、そちらは建物から橋が伸びていた。こちらの階段は、地面から直接上がっている。
葵はスーツケースを引いて、階段を上がった。
一段ごとに風が強くなった。上りきったところで一度だけ振り返った。
日が低かった。滑走路が端まで見える。機体の影が、地面に長く伸びていた。三時間前に着いたとき、ここは真っ暗だった。
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機体の後ろの区画は、前と仕切りで隔てられていた。
天井が同じ高さなのに、広く感じた。座席の間隔が広い。左右に二席ずつしかなく、通路が中央に一本通っている。
後ろの三列は椅子ではなかった。床が一段低くなっていて、そこに厚い敷物が敷いてある。壁に金具が並んでいた。
葵の席は、扉のすぐ横だった。
腰を下ろすと、前の座席との間に足を伸ばしてもまだ余った。フィオナが隣に座って、膝の上で本を開いた。
客室乗務員が来て、紙を一枚差し出した。
「同伴席のご確認です」
葵は受け取って、読んだ。
非常時、機長の判断により、同伴する神魔の協力を求める場合がある。求めに応じる意思のない場合は、この席を利用できない。
その下に、署名の欄があった。
葵は名前を書いた。
「フィオナさん、いい?」
「もちろんです」
「じゃあ、大丈夫です」
紙が回収された。
葵は上着のポケットからペットボトルを出して、テーブルの窪みに置いた。もう一本を鞄から出して、フィオナの前にも置いた。
「二本、買ってたんですね」
「うん」
「わたくしの分ですか」
「うん」
フィオナがボトルを両手で持ち上げて、光にかざした。中の泡が細かく上がっている。
「後で開けようね。今開けると、こぼれるから」
「承知いたしました」
斜め前の席に、スーツの男が座っていた。四十くらいだろうか。膝に上着を畳んで、端末を見ている。
その隣に、もう一人いた。
黒い戦闘服だった。関節に沿って板が重なっている。学園のものより厚い。顔は見えなかった。面のないヘルメットが、正面だけ滑らかに閉じている。
動かない。呼吸で肩が上下する様子もなかった。
(ドラウグルだ。)
ダンジョンで会っている。姿は違った。それでも、同じものが座っていると分かった。
男の方は端末を見たままだった。ヘルメットは通路側を向いている。
(護衛みたいだ。)
胸ポケットの中でライラが動いた。フィオナは何も言わなかった。
男が鞄を膝に載せて、留め具を開けた。肩紐が滑って、金具が座席の縁に当たった。
灰色の狼だった。頭を上げて、口を開けている。
(ヴァルハラ・アームズの人だろうか。)
男は書類を一枚抜いて、鞄を閉じた。それきり顔を上げなかった。
後ろの区画にも人がいた。斜め後ろの席で、女の人が膝の上に何かを載せている。丸くて、毛が長い。時々、女の人の手が動いてそれを撫でた。
前の仕切りの向こうから、案内の声が聞こえてきた。同じ内容が三回、違う言葉で繰り返される。三回目は分からなかった。
扉が閉まった。
機体が動き出した。窓の外で地面がゆっくり流れていく。整備の人が二人、並んで手を上げていた。
滑走路の端で、一度止まった。
音が変わった。座席が背中を押した。
窓の外の線が速くなって、途中から、どこが継ぎ目か分からなくなった。
浮いた。
(浮いた。)
建物が下がっていく。滑走路が細くなって、その周りに畑と、道と、四角い屋根が現れた。朝の光が横から当たっていて、影が全部同じ方向に伸びている。
四時間ほど前は、島の教室にいた。
そう思うと、下の景色が急に遠く見えた。
フィオナが窓に額をつけていた。
「葵殿」
「うん」
「街が、小そうございます」
「そうだね」
「あの円い建物も、あるでしょうか」
「どこかにあると思う」
二人でしばらく探したが、見つからなかった。
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機体が水平になって、しばらくすると音が静かになった。
葵はテーブルを引き出して、ペットボトルを載せた。
蓋を回すと、しゅ、と抜ける音がした。
一口飲むと、口の中で泡が弾けた。喉の奥まで、細かいものが下りていく。爽やかな甘み。飲み込んだ後に、少しだけ残る。
(こんなときくらい。)
葵はもう一口飲んだ。
隣で、フィオナが同じように蓋を回した。同じ音がした。
「葵殿」
「うん」
「しゅわしゅわいたします」
「うん」
「口の中で、はじけております」
「そういう飲み物なんだよ」
フィオナがボトルを傾けて、中を覗いた。細かい泡が壁に沿って上がっていく。時々、そのうちの一つが光った。
「光りました」
「ほんの少しだけ、魔力が入ってるんだって」
「なぜ入れるのです」
「わからない。入ってると、なんか特別な感じがするから」
「なるほど」
フィオナはもう一口飲んで、ボトルを両手で持ったまま座席に沈んだ。
「特別な感じがいたします」
前の仕切りの向こうから、車輪の音が聞こえてきた。
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食事の載った盆が配られた。
四角い容器に、ペンネがトマトのソースで和えてある。粉のチーズが小さな袋で別についていた。硬いパンが一つ。半分に切ったパンにハムとチーズを挟んだものが、温かいまま紙に包まれている。白い塊と赤い実が交互に並んだ皿には、油の袋がついていた。
蓋を開けると、湯気が上がった。
「葵殿」
「うん」
「これは、全部食べてよろしいのですか」
「うん、全部フィオナさんのだよ」
フィオナが両手を膝に置いて、盆をしばらく見ていた。それから粉のチーズの袋を開けて、ペンネの上に全部かけた。
葵はパンを一口食べた。硬かった。噛んでいるうちに、麦の味が出てきた。
白い塊は、切ると中から水が出た。トマトと一緒に食べると、油の匂いが後から来た。
「これは、何でしょうか」
「チーズだと思う」
「甘くありません」
「茶色いのとは違うやつだね」
「……そうですか」
フィオナはそれも食べた。
葵は前の座席の背にある画面を触った。
一覧の中に、朝と同じものがあった。緑の地面と、青と黒の縞。
胸ポケットからライラが出てきて、テーブルの縁に座った。
「これでいい?」
「うん」
音は出さなかった。ライラは膝を抱えて、画面に顔を向けたまま動かなくなった。
隣で、紙をめくる音がした。
フィオナが本を開いていた。膝の上でページを繰って、時々止まる。止まると、鞄から付箋を出して貼る。貼ってから、少し離して眺める。位置が気に入らないと、剥がして貼り直す。
「フィオナさん」
「はい」
「付箋、何枚あるの」
「三十枚ございます」
「もう何枚使ったの」
フィオナがページの端を指でなぞった。紙の束の上辺に、色が並んでいる。
「十九枚です」
「十一枚しかないね」
「はい」
「一週間もつかな」
「もちません」
フィオナはそう言って、また一枚貼った。
葵はペットボトルを持ち上げた。まだ半分残っている。傾けると、泡が一斉に上がって、そのうちのいくつかが光った。
窓の外は白かった。雲の上だった。下も上も同じ色で、境目がどこにあるのか分からない。
ライラが画面を見ている。フィオナが付箋を貼っている。
葵はもう一口飲んで、ボトルを戻した。




