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第187話 北へ

生徒会室の扉が閉まると、廊下の空気が急に静かになった。


窓の外はまだ明るい。十一月でも、島の四時は夏の名残の色をしている。


フィオナが本を抱えていた。厚い本だった。表紙には、雪をかぶった尖った山と、赤い木の家が並んでいる。


「葵殿、ご覧ください」


開いたページに、付箋が三枚ついていた。


「ここです。茶色のチーズがあると書いてあります」


「茶色のチーズ」


「はい。甘いそうです」


「チーズが甘いんだ」


葵は覗き込んだ。写真の茶色は、チーズというより羊羹に近かった。


「その本、どこで買ったの」


「入手いたしました」


「うん、どこで」


「ええと……手に入れたのです」


胸ポケットからライラが顔を出した。


「怪しい」


「怪しくありません!」


フィオナが本を胸に抱え直すと、付箋が三枚とも同じ方向に傾いた。


「ノルウェーに参りましょう、葵殿」


「うん」


「まずは茶色のチーズです。それから、屋根に草の生えた家を見に行きましょう」


「両方行こうね」


「はい!」


葵はスーツケースの持ち手を伸ばし、廊下を歩き出した。車輪が石の床を鳴らす音が、天井の高いところで薄く反響した。


フィオナが窓の外へ目をやった。空中モノレールが海の方へ滑っていく。


「空港は、島の南でしたか」


「今日は空港には行かないんだ」


フィオナの足が半歩遅れた。


「……飛行機には、乗らないのですか」


「ここからは乗らないよ」


「機内で、これを読むつもりでいたのですが」


葵は中央棟の奥へ曲がった。この廊下は昼でも人が少なく、突き当たりに重い扉がある。


「これで、近くまで行けるんだ」


扉に触れると冷たかった。


フィオナが数秒黙って扉を見上げ、それから手を打った。


「ビフレストのようなものですね」


「ビフレスト」


「天界にもございます。虹の橋です。わたくしの家の近くにもあります。駅近です」


「駅」


「ビフレストのことです」


「駅って電車の駅じゃないんだ」


「そう、虹の橋の駅です」


「……そうなんだ」


「朝は混みます。皆、同じ時間に渡りますから」


「渡るの、時間かかるの?」


「七歩です」


「七歩」


「下に街が見えます。落ちはしません」


葵は本で読んだ虹の橋のことを思い出した。人間界と天界を繋ぐ橋だったはずだった。


「ビフレストって、人間界に架かってる橋じゃなかった?」


フィオナが本を抱え直した。


「……そうなんですか」


「うん、多分」


「でも駅の方は皆がそう呼びますので」


ライラが胸ポケットの縁から顔を出した。


「知らないんだ」


「知らなくても渡れます!」


(渡れるなら、いいのかな。)


葵はもう一度、扉を見た。


「この扉の向こう、普段は開かないんだ。学園の外に繋がってるから」


「では、なぜ我々は」


「生徒会に入ってると、学園長に許可をもらって使わせてもらえるんだ。今回は実習だから」


「役得ですね」


「そうだね」


葵は上着の内ポケットから旅券を出し、名前と写真と日付を確かめた。


ライラが覗き込んだ。


「さっきも見た」


「うん」


旅券を戻し、上着の上から一度押さえてから、葵は扉を引いた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


石造りの小部屋だった。天井が低く、窓はない。


壁面に魔法陣が刻まれている。線が細く、上へ行くほど文字が小さくなっていく。四方の壁が全部そうだった。


部屋の中央で、光の膜が揺れていた。厚みがない。水を立てたまま止めたようなものが、呼吸に合わせて動いている。


その手前に、何かが浮いていた。


手のひらほどの大きさで、四つの羽根が音もなく回っている。葵が一歩入ると、それがこちらを向いた。


光が広がった。


「葵くんー」


イレムが立っていた。輪郭の縁が少し滲んでいて、背景は生徒会室ではなく、見たことのない机の前だった。


「録画だから、返事しなくていいよー」


フィオナが胸を張って一礼した。


「フィオナさん、それ録画だよ」


「……失礼いたしました」


「えっとねー、頑張ってる葵くんにプレゼントね」


ドローンの下部が開いて、白い小さな箱が落ちてきた。葵が片手で受けると、思ったより軽かった。


「開けてみて」


蓋を持ち上げると、綿の上に一センチほどの黒い部品が載っていた。端子が出ている。それだけだった。


「端末に挿してみてー」


葵は端末を出して、側面の口に押し込んだ。かちりと嵌まる。


画面の隅の数字が動いた。二十二、二十三、二十四。


「充電器なの。うちの試作品。向こう、こっちと規格が違うところがあるらしいから」


数字が上がっていく。


「一週間は持つから、安心してね」


イレムが髪を一房いじった。


「じゃ、いってらっしゃい」


光が畳まれ、ドローンが後ろへ下がって天井の近くで止まった。


ライラが端末を覗き込んだ。


「増えてる」


「うん」


「早い」


葵は指を動かした。


葵:プレゼントありがとうございます


葵:端末、ちゃんと充電されました


イレム:ふふー


イレム:そう言うと思った


葵:ノルウェーで何かお土産買ってきますね


イレム:楽しみにしてるー


イレム:無理はしないこと これ社長命令


葵は端末を戻した。


「社長は僕もなんだけどな」


「社長」


「二人とも社長なんだよ」


フィオナが本の付箋を一枚めくり直した。


「では、参りましょう。茶色のチーズが待っております」


「待っててくれるといいけど」


ライラが胸ポケットに沈んだ。


葵は膜の前に立った。


「フィオナさん、僕の後に来て」


「承知いたしました」


スーツケースを引いて、葵は膜を潜った。


輪郭が消えた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


足の裏に、冷たさが来た。


石の床だった。さっきまでの床より粗く、目地が深い。空気が動いていない。息を吸うと、乾いた石の匂いに、焦げた樹脂のような甘い匂いが混じっていた。香の残りだった。


天井が低く、窓はない。壁の窪みに嵌まった灯りが、蝋燭に似た色で燃えている。揺れてはいなかった。


背後で膜が揺れ、フィオナが出てきて本を抱え直した。膜はそれきり静かになった。


外へ出る扉は閉じている。継ぎ目が石と一続きになっていて、どこが扉なのか分からなかった。


黒い服の男が、机の向こうに座っていた。十字教の司祭だろうか。


年寄りだった。背中が丸い。机の上に紙の束と、四角い黒い板が置かれている。その両脇に、灰色の装甲を着けた者が二人立っていた。兜の額に細い十字が入っている。槍を持っているが、穂先の形が槍ではなかった。


「アカデミア・アルカナから」


司祭が紙をめくった。指の動きが遅かった。


葵は頭を下げて、旅券を差し出した。


「小春葵です。これからノルウェーへ行きます」


「通過ですね」


司祭は旅券を開き、机の黒い板の上に置いた。


「手を」


葵は言われた通り、板に手のひらを載せた。冷たかった。石より冷たい。


板の縁が灯った。灯りと同じ色だった。旅券の紙の上を細い線が一度だけ走って、消えた。


「はい」


司祭が旅券を取り上げ、それだけで終わりだった。


フィオナが前に出た。背筋を伸ばし、右手を左胸に当てる。


「アスガルズのヴァルキリー、フィオナと申します。此度は主の護衛として同道いたします」


司祭の手が止まった。


紙の上でペン先が浮いたまま、一秒か二秒動かなかった。衛兵の一人が兜の下でわずかに顔を動かした。


司祭は何も書かなかった。ペンを置き、フィオナに小さく会釈をした。それだけだった。


葵は壁を見た。祭壇はない。十字が一つ掛かっているだけで、その下には何も置かれていなかった。


司祭が金属の印章を持ち上げた。


紙に押す音が、部屋の中で二度跳ね返った。


「通過査証です」


旅券が戻ってきた。


司祭が立ち上がり、胸の前で手を動かした。上から下、左から右。


「良い旅を。道の上に、守りがありますように」


意味は分からなかった。それでも葵は、深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


石の継ぎ目を光の線が走り、扉が外側へ開いた。


冷たい風が入ってきた。


暗い。


空に星が出ていた。街の灯りが低く散っていて、その上の空だけが黒い。石畳が濡れている。丸い柱が二列、闇の中へ並んで消えていく。その向こうにある丸屋根の影は、輪郭だけがわずかに空より濃かった。


音がしなかった。


車の音も、人の声もない。葵は自分の呼吸が白くなるのを見た。


フィオナが口を開けたまま動かなかった。


「葵殿」


「うん」


「ここは、ノルウェーではありません」


「うん、ここはバチカンなんだ」


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


柱の下を、黒い法衣が二人分並んで歩いていた。


後ろから、光るものがついていく。人の形をしていた。背中から出ているものが、歩幅に合わせて畳まれたり開いたりする。地面から少し浮いていた。


葵は足を止めて、それが柱の間を過ぎるまで目で追った。


(天使様だ。)


胸ポケットでライラが動いたが、何も言わなかった。


(こういうの、この街では当たり前なのかな。)


柱の列を抜けた先に、車が一台停まっていた。


黒い。角が丸く、車体が長い。窓の下に細い光の帯が走っている。近づくと扉が上へ開いた。運転席はなかった。


葵はスーツケースを後ろに入れて乗り込んだ。座面が沈む。フィオナが隣に座って、本を膝に置いた。


扉が閉まると、外の音が完全に消えた。


車体が浮いて、石畳が下がっていく。


窓の外で、広場が回った。


上から見ると、光の球が面になっていた。等間隔に散って、縁のところだけ密になっている。噴水の水面で青い陣がゆっくり回っているのが、真上から見えた。円の中に、もう一つ小さい円がある。


石畳を、石像に似たものが掃いていた。膝から下が見えない。上からだと、掃いた跡だけが濡れて残っていくのが分かった。


車が高度を上げて、丸屋根と同じ高さに並んだ。


屋根を青い膜が下りていくところだった。上から順に薄くなって、石に吸い込まれて消える。膜の縁が水のように波打っていた。


フィオナが本の付箋を一枚めくった。


「屋根に草の生えた家は、こちらにはないようですね」


「イタリアは違うんだね」


「はい」


車が向きを変えた。


眼下に屋根が続いた。全部同じ色をしている。黄土色と、赤茶と、その間の色。窓の外側に木の板が下りていて、まだ全部閉まっていた。道が細く、まっすぐな道が一本もない。


一階の角に、灯りのついている店が一軒あった。上からでは中が見えず、歩道に光が四角く落ちているだけだった。


川が来た。


幅がある。水面が黒くて、街の灯りだけが細く伸びている。その上を細長いものが二艘、滑っていった。舟の形をしていたが、水に触れていない。腹の下の薄い光が水面を撫でながら進んでいく。


車がそれを追い越した。


「葵殿」


「うん」


「あちらの方が、遅うございます」


「そうだね」


対岸に、円い建物が見えてきた。


石が欠けている。上の方が崩れたまま直されていなくて、上から見ると内側が空だと分かった。屋根がない。壁だけが円く残って、中に段が並んでいる。段の間から草が生えていた。


葵は窓に手をついて、それが下を過ぎていくのを見た。


「壊れております」


「うん」


「直さないのでしょうか」


「直さないんじゃなくて、そのままにしてるんだと思う」


石の色が周りの建物と違っていた。ずっと古いのだと分かった。それだけが分かった。


ライラが胸ポケットから顔を出して、後ろを見た。


「街、終わった」


車がさらに高度を上げていた。


屋根の連なりが途切れ、間隔が空いていく。畑のような四角が現れた。灯りの数が減って、代わりに道の光が長く伸びている。


フィオナが座り直して、膝の上で本を開き直した。


「葵殿。到着まで、どれくらいでしょう」


「三十分もかからないと思う」


「では、屋根に草の生えた家の話をいたします」


「その前に、茶色のチーズなんだけど」


「はい」


「バターと一緒に食べるのが、向こうのやり方なんだよね」


「そうなのです」


フィオナが本を開き直した。


「薄く切って、上に載せるのです」


「うん」


「甘いそうです」


「うん」


「ノルウェーの方は、朝にこれを食べるのだとか」


葵は頷いた。同じ順番だった。


「明日の朝、食べられるかな」


「食べます」


フィオナが本を閉じて、膝の上で両手を重ねた。


「では、屋根に草の生えた家の話もいたします」


「うん」


葵は窓の外へ目を戻した。空の東側が、少しだけ紫になっていた。


フィオナの声が、続いていた。


前方に、白い光の列が見えてきた。

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