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第184話 一週間の支度

スーツケースの蓋を閉じたのは、二十三時を回った頃だった。


一つに収まった。机の上の三枚のプリントを、いちばん上に置いてから、膝で押さえて留め具を二回鳴らす。


帰りは送ればいい、と葵は思った。お土産も買うだろうし、そのぶんは入らない。


葵は部屋の真ん中に立って、タトゥーシールに意識を集中した。


散盟の陣が、床の上に薄く広がる。


光が集まって、形になった。


「さ、参上いたしました……」


フィオナは膝から崩れた。


床に手をついたまま動かない。低くまとめた赤銅色の髪が、肩から前へ落ちている。鎧の留め具が、いつもより緩んでいた。


「フィオナさん?」


「あ、葵殿……申し訳ありません、少し、その」


顔を上げた。目の下に薄く隈がある。


「どうしたの」


「一週間、こちらに滞在する許可をいただくために」


フィオナは息を吸って、姿勢を正そうとした。正しきれずに、また少し傾いた。


「地獄のような特訓を、乗り越えてまいりました」


「特訓」


「はい。連日でした。上の方々が、それはもう厳しく」


何の特訓なのかは言わなかった。


ただ、この人が一週間ぶん働いて、それでここに来たのだということは分かった。


「頑張ったんだね、フィオナさん」


葵は膝をついて、フィオナの頭に手を置いた。


髪は思ったより細かった。何度か撫でると、フィオナの肩から力が抜けていくのが分かった。


「……葵殿」


「うん」


「もっと」


「はい」


しばらくそうしていた。


やがてフィオナが顔を上げたとき、目の焦点が少し合っていなかった。


「あ、葵殿。今日は、その」


「うん」


「抱いて、寝てもよろしいでしょうか」


「いいよ」


フィオナが着替えたあと、葵は明かりを落とした。


腕の中に入れられると、息ができないほどではないが、身動きは取れなくなった。フィオナの腕は細く見えて、力があった。


「あ、葵殿」


「なに」


「一週間、ご一緒できます」


「うん」


「私は、その、とても」


そこで途切れた。


呼吸が深くなって、少し遅れて、寝息になった。


腕の中で、フィオナの手が一度動いて、葵の袖を掴んだ。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


六時に目が覚めた。


腕はまだ回っていた。抜けるまでに少しかかった。フィオナは仰向けになって、そのまま寝続けている。眉のあたりが緩んでいた。


葵は台所へ行った。


アーデルは既に席についていた。新聞を広げている。葵が皿を置くと、目だけ上げた。


「今日からか」


「はい。夕方に発ちます」


「一週間だな」


「はい」


アーデルはパンを一口食べた。それから、窓の外を見た。


「向こうは寒い」


「防寒具は持ちました」


「風邪を引くなよ」


「はい」


それだけだった。


食べ終わって皿を下げるとき、アーデルはもう新聞に戻っていた。


葵はもう一度フライパンを火にかけた。卵を焼いて、ベーコンを厚めに切る。盛り付けてから皿に蓋をして、テーブルに残しておく。


それから寝室に戻って、畳んだ服を枕元に置いた。


薄手のニットと、動きやすいパンツ。上に羽織るものを一枚。歩きやすい靴は、玄関に出しておいた。明るい色は葵が選んだ。この人の髪の色に、暗い色は重いような気がしたからだった。


「……葵殿」


フィオナが目を開けていた。開けてはいるが、こちらを見ている感じがしない。


「おはよう。朝ごはん、テーブルにあるから」


「あさ」


「うん。まだ寝てていいよ」


「はい……」


目が閉じた。


「フィオナさん」


「ん」


「十二時に、生徒会室に来てね」


「せいとかいしつ」


「うん」


「……はい。ま、参ります」


「服と靴、置いてあるから。それ着てきて」


「はい……」


分かっているのかどうか怪しかったが、多分大丈夫だと信じる。


葵は制服に着替えて、鞄を持った。それからスーツケースの取っ手を起こして、登校した。


それから生徒会室に向かい、葵はスーツケースを長いテーブルの隅に寄せて、扉を閉めた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


砂の上に木剣が並んでいた。


「整列」


ハルトマンの声で列ができた。号令に合わせて体を回し、伸ばし、屈める。外周を三周する頃には、周りの息が昨日より上がっていた。


「今日で最後だ。休みが明けるのは一週間後になる」


列がざわついた。


「言っておくが、一週間で体は鈍る。休み明けに、それが目に見えて分かる者が毎年出る。今日やることを覚えて帰れ」


返事が揃わなかった。誰かが小さく笑った。


「今日は昨日の続きだ。一歩を作る。二人一組」


葵はエリックの方を向いた。エリックも既にこちらを見ている。


そこへ姫川が割り込んできた。


「ちょっと待って」


木剣を担いだまま、手を上げている。


「昨日は決着つかなかったよね」


「ついていない」


「だから、今日の相手をどっちがするか、先に決めよう」


姫川は空いている方の手を、まっすぐ前に突き出した。


「じゃん! けん!」


声が砂の上に響いた。


エリックの手が上がった。指が握り込まれている。号令に体が動いたのだと、葵にも分かった。


「ぽん!」


姫川の手は、開いていた。


「やった! 私の勝ち!」


「待て。出していない」


「出てるじゃん」


「出したのではない。上がっただけだ」


「上がってたら出てるよ」


「意思がない」


「手には出てるでしょ」


エリックが口を開いて、閉じた。


砂の向こうで、ハルトマンがこちらを見ていた。何も言わない。ただ立っている。


エリックは一度、息を吐いた。


「……今日は譲ってやる」


「譲ってないよ、負けたんだよ」


「葵くん、行こう」


姫川はもう葵の腕を掴んでいた。


「え、あの」


「ハルトマン先生! 私、葵くんと組みます!」


ハルトマンは一度だけ頷いて、別の列の方へ歩いていった。


「葵」


エリックが言った。声は静かだった。


「昨日の話は、まだ終わっていない」


「うん」


姫川は振り返りもしなかった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「じゃあ、私が下がるね」


姫川は言うなり、後ろへ跳んだ。跳んでから、横へ回る。速い。


葵は前足を滑らせた。踵を上げず、肩を動かさずに詰める。届かない。姫川はもう別の角度にいた。


「昨日のやつ、ちゃんとやってるんだ」


「はい」


「私も見てたよ」


三歩目でようやく届いた。木剣の先が、姫川の袖に触れる。


「今の、あんまり嬉しくないな」


「え」


「見えなかったから。まあいいや、次いこ」


姫川は木剣を下ろして、砂を蹴った。切り替えは早かった。


離れたところで、エリックが別の生徒と組んでいた。相手の方が困った顔をしている。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


演習場に移ると、空気が変わっていた。


土曜の二限は、この授業で終わりになる。そこから一週間の休みが始まる。誰も口には出さないが、列の間隔が普段より広がっていて、私語が途切れなかった。


「並べ」


ハルトマンの声で、一度だけ静かになった。それからまたざわつき始めた。


「今日は、これまでのブロックの確認だ。相性の不利な相手をどう捌くか。先週から二回やった。それを一度、自分の手で確かめる」


護符が配られた。


葵の相手は、Bクラスの生徒だった。名前は知っていたが、話したことはない。


始まると同時に、相手が神魔を出した。犬の形をした獣で、術者の斜め前に立った。


葵は防壁を張りながら、間合いを見た。獣は前に出ようとしているのに、術者の詠唱がそれに追いついていない。獣が動き、少し遅れて魔法が来る。二つが別々に来るので、片方を捌けばもう片方が空く。


ミラのときとは違った。あのときは複製が三体に分かれて、どれが本命か分からなかった。三つが同じ意思で動いていた。


これは、獣と術者がそれぞれ勝手に動いている。


斜めに入って、また斜めに入った。三度目で獣の横をすり抜けたとき、術者の詠唱が途切れた。


そこで護符が砕けた。


「ありがとうございました」


「……速いですね」


相手は困った顔で笑っていた。


葵は列に戻った。


ミラが端の方で戦っていた。相手の陣を先に読んで、来る前に位置を変えている。葵は少しの間それを見ていた。昨日と同じ人が、演習の場では別人のように迷いがなかった。


「終わりだ」


ハルトマンが言った。


「一週間空く。休めとは言わん。だが、体は動かしておけ」


列が崩れた。ざわめきが一気に大きくなる。


「先生、良いお休みを!」


誰かが言った。


ハルトマンは振り返らずに、片手を上げた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


生徒会室の扉を開けると、長いテーブルの上に箱が二つ載っていた。


蒼玲が窓際に立っている。紅茶のカップを持ったまま、振り返った。


「時間ぴったりね」


「こんにちは。あの、その箱は」


「私と、フィオナが選んできた物よ」


葵がスーツケースを置いた隅には、まだ同じ位置にスーツケースがあった。その横に、小さな包みが一つ増えている。


「これは?」


「アリアから、届いたわ。あなた宛て」


包みには鍛冶部の判が押してあった。


扉が開いた。


「お待たせいたしました!」


フィオナが立っていた。薄手のニットに、動きやすいパンツ。羽織るものを腕にかけている。赤銅色の髪は低くまとめたままで、胸元に「来校者」と書かれた札が下がっていた。


「フィオナさん、その札」


「門のところで、いただきました。付けていれば校内を歩いてよいと」


フィオナは札を両手で持ち上げて見せた。少し嬉しそうだった。


「服、ありがとうございました。とても、その、動きやすくて」


「よかった」


「葵殿がお選びに?」


「うん」


フィオナが何か言いかけたところで、蒼玲がカップを置いた。


音が思ったより大きく響いた。


「さて。箱を開けましょうか」


蒼玲が自分の方の箱の蓋を持ち上げた。中から布を一枚つまみ上げる。


葵は少し目を細めた。


面積が、足りていない気がした。


「これ、なんですか」


「衣装よ」


「服の部分が」


「そういう衣装なの」


蒼玲は布を指に引っ掛けたまま、こちらを見ていた。笑ってはいない。笑っていないのが逆に落ち着かなかった。


「わ、私の方はこちらです!」


フィオナがもう一つの箱を開けた。


出てきたのは、白と淡い水色の、裾の広がったものだった。襟と袖に細かい飾りがついている。可愛い、という言葉が最初に浮かぶ種類のものだった。


「私は、その、葵殿にはこういうものが似合うのではないかと」


「あの、それ、誰が着るんですか」


「負けた方よ」と蒼玲が言った。


「今日の庶民遊戯も罰ゲームありでいくわ。負けた側が、これを着る」


「これ、をですか」


「これをよ」


葵は二つの箱を見た。


蒼玲先輩は本気だ、と思った。この人は冗談で衣装を用意したりしない。先週の時点で、もう決まっていたのだろう。


「……分かりました」


「あら、素直ね」


「言っても変わらないので」


「賢いわ」


胸のポケットの中で、何かが動いた。


「葵は私が守る!」


ライラが飛び出してきた。テーブルの上に降りて、腰に手を当てて立つ。


「そんなの着せさせない!」


「あら」


「絶対に守るから!」


ライラはそこで振り返った。


「葵。開けて」


「え」


「その箱。昨日の」


葵は鍛冶研究部の包みを開けた。


中には、小さなものが入っていた。人の手には小さすぎるが、握るための形をしている。スティックと、いくつかのボタン。全体が正規品をそのまま縮めた形をしていて、握りのところに滑り止めの筋まで入っていた。


「これ、コントローラーだ」


「ライラの」


ライラが両手で受け取った。持ち上げると、ちょうど胸の前に収まる大きさだった。ボタンを一つ押す。小さな音がして、指がすっと沈んだ。


「うん。いい」


「これを、頼んでたの」


「そう」


ライラは葵を見上げた。


「一緒に戦うから」


蒼玲が眉を上げた。


「参加するのね」


「する」


「二対二ということでいいのかしら。私とフィオナ、あなたと葵」


「いい」


「では、あなたが負けたときの罰はどうするの」


ライラの動きが止まった。


テーブルの上で、少しの間、何も言わなかった。


それから羽を一度大きく動かした。


体の輪郭が薄く光って、纏っているものの形が変わっていく。裾が広がり、襟に飾りがつき、色が白と淡い水色に染まった。


フィオナの箱の中にあるものと、同じ形だった。


「これでいい」


「……ライラ」


「私が負けたら、これ。」


蒼玲が口元に手を当てた。


「それ、罰になっていないのだけれど」


「なってる」


「可愛いだけよ」


「なってる」


ライラは譲らなかった。フィオナが横で口を押さえている。肩が揺れていた。


葵はテーブルの上のライラを見ていた。白と水色の裾が、羽の動きに合わせて小さく揺れている。似合っていた。


それから蒼玲の箱の方を見た。


負けたら、僕があっちなんだ。


「葵殿」


フィオナが手を上げた。


「もし葵殿が負けられましたら、私の持ってまいりました方も、着ていただけますか」


「両方ですか」


「はい!」


いい笑顔だった。


蒼玲がカップを持ち上げて、一口飲んだ。


「準備はいいかしら」


ライラがコントローラーを構え直した。ボタンの上で、小さな指が二度動く。


「いつでも」

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