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第183話 壁の向こう4

二十一時半、壁の穴から明かりが漏れた。


「し、失礼します」


オリビアはいつものカーディガンだった。耳元の銀のピアスが小さく光っている。


葵は四教科ぶんの答案を、机に並べておいた。自分で採点してある。丸とバツと、間違えたところには青で直しを入れた。


オリビアが一枚ずつ手に取った。


「では、始めます」


その一言で、声が変わった。


「先に、結果から言います。四教科とも、直すべき穴はありません」


「ほんとうですか」


「はい。数学は積分の定義域の処理で一問。物理は有効数字。世界史は年号を一つ。リンガは綴りが二つ。どれも知識の欠落ではなくて、注意の抜けです。中間試験のときとは、状態が違います」


オリビアはリンガの答案を指で押さえた。


「中間の前は、抜けているところを探して、そこを埋める勉強でした。二週間で追いつくための勉強です。あれは、そういうやり方をするしかなかった」


「はい」


「今は、埋める穴がありません」


葵は自分の答案を見た。赤が少ないのは分かっていたが、それが何を意味するのかは考えていなかった。


「だから、やり方を変えます」


オリビアは背筋を伸ばした。前髪の奥の目が、こちらを向いている。


「これからは、合っている答案を見ます」


「合っているのに、ですか」


「合っている答えの中にも、良いものと、そうでないものがあります。同じ正解でも、手数が違う。遠回りをして辿り着いた答えは、試験の時間内では間に合いません。」


「……なるほど」


「点にならないところを直す作業になるので、しばらくは成果が見えにくいと思います。それでも、やる意味はあります」


葵はノートを開いて、書いた。合っている答えにも良し悪しがある。


書いてから、顔を上げた。


「先生、それって、教えるのが難しくないですか」


オリビアの手が、一拍止まった。


「……難しいです」


それから、少しだけ声を落として続けた。


「正しく解いたものに、これでは駄目だと言うことになりますから」


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


オリビアは数学の答案を引き寄せた。


「では、具体的に見ます。ここ」


ペン先が、真ん中あたりの一問を指した。丸が付いている。葵が自分で丸を付けた問題だった。曲線に囲まれた部分を回した体積を求めるもので、計算が表の余白では足りずに、裏まで続いていた。


「これ、時間がかかったのではないですか」


葵は答案を覗き込んだ。


「はい。確かにそうです」


「どのくらい」


「時間は計ってないですけど、だいぶかかりました。途中で紙が足りなくなって」


オリビアは答案を裏返した。裏面の下の方は、字が少し乱れている。


「まず、言っておきます」


ペンを置いた。


「これは、解けています。裏まで使って、最後まで辿り着いている。この問題は、途中で手が止まる人の方が多いです」


「そうなんですか」


「体積の問題は、式を立てるところまでは全員できます。そこから先の計算で折れます。宿題ですし、誰も見ていない。やめてもいい問題です」


葵は自分の字を見た。


「やめようとは、思わなかったです」


「そうでしょうね」


オリビアはもう一度ペンを取った。


「そのうえで、直せるところがあります。ここ、置き換えを三回していますね」


「はい。一回だと、うまくいかなくて」


「どうして、この置き方を選んだんですか」


葵は最初の一行から順に思い出していった。何をしたかは思い出せたが、選んだ理由は出てこなかった。


「……教科書に、似た形が載っていたので。それでやってみたら、進んだので、そのまま」


「なるほど」


オリビアは新しい紙に式を書いた。同じ問題が、四行で終わっていた。


「置き方を変えると、一回で済みます。葵くんのやり方でも答えは出ます。ただ、一回置き換えるたびに式が膨らむので、三回だと最後は手に負えない大きさになります」


葵は四行の式を見た。それから、裏まで続いた自分の計算を見た。


「これ、同じ問題ですか」


「同じ問題です」


「……全然違いますね」


「計算量が違うだけで、やっていることは同じです。ただ、この差が試験だと点数の差になります」


オリビアは新しい紙を葵の方へ押した。


「どうして気づかなかったか、というと、気づかなくても解けたからです。解けている間は、別の置き方を探す理由がありません」


葵は四行の式に指を置いたまま、動かさなかった。


「ただ、この先は解けるだけでは足りなくなります。問題はもう少し複雑になりますし、試験には時間がありますから」


葵はノートに四行の式を写した。


「他にもありますか」


「あります」


オリビアは物理の答案を引き寄せた。


「ここも。それから、リンガのこの訳も」


赤いペンが入っていない場所に、次々と印が付いていった。全部、葵が丸を付けた問題だった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


一通り見終える頃には、二十二時半になっていた。


葵はノートを閉じた。丸を付けた問題ばかりを直した一時間だった。


「合っているところを見るなんて、思ってもみませんでした」


「そうですか」


「はい。今まで、間違えたところだけ直せばいいと思っていたので」


オリビアは答案を揃えて、端を机の上で軽く叩いた。


「間違いは、自分で見つけられます。解答があれば分かりますから。だから、それは葵くん一人でできます」


「私がやるのは、一人ではできない方です」


葵は何と言ったらいいのか、すぐには出てこなかった。


「……ありがとうございます」


オリビアは鞄から薄い紙を出した。三枚だった。


「それから、これを」


「宿題ですか」


「休みの分です。来週は感謝祭ですので」


葵は受け取って、めくった。数学が一枚、リンガが一枚、物理が一枚。解答が裏についている。


「三枚だけなんですね」


オリビアの指が、鞄の口のところで止まった。


「……出かけると、聞きましたので」


「はい。日曜から、一週間」


「毎日は、たぶん、できません。できる日だけで、いいです」


「分かりました」


葵は三枚を揃えて、机の引き出しに入れた。それから、荷物のことを思い出して、引き出しから出し直した。


「持っていきます」


「え」


「向こうでも、できるかもしれないので」


オリビアは葵の手元を見ていた。三枚の紙は薄くて、鞄に入れても厚みにならない。


「……はい」


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


壁の穴の向こうへ顔を出すと、床が見えていた。


服は籠に入っている。上の方が崩れているが、外には出ていない。


ゴミの箱の前で、葵は足を止めた。


袋の口が閉まらないところまで来ている。中身が上まで詰まっていて、表面が平らに潰れていた。菓子の袋が、空気の抜けた状態で重なっている。上から押した跡がついていた。


葵は袋の縁を持ち上げてみた。思ったより重い。


「先生、これ」


「あ、あの、それは」


オリビアはノートを胸に抱えたまま、半歩下がった。


「まだ、入ると、思って」


「はい」


葵は袋を箱から引き出した。持ち上げた瞬間、押さえつけられていた袋が下から膨らんでいった。箱の口より大きくなって、腕の中で音を立てる。


そして横腹が裂けた。


菓子の袋が二つ、床に落ちた。裂け目の高さに、缶の角が当たった跡が残っている。


「あ」


「破けちゃいましたね」


葵は落ちたものを拾って、裂け目を内側に折り込んだ。それから縛って、玄関の脇に置いた。


「新しいの、ありますか」


「し、下の、引き出しに」


葵は新しい袋を出した。広げてみると、箱の口よりかなり大きい。箱に敷いても、縁が余って外に垂れる。


「先生、この袋、箱より大きいですね」


「そ、そうですね」


「これだと、袋の方に余裕があるので、押し込めてしまいます」


葵は袋を敷き直しながら言った。


「箱と同じくらいの袋にしませんか。そうすると、いっぱいになったのが見えます」


「な、なるほど」


「小さいと、出しに行くのも軽くなるので」


葵は端末を出した。


「頼んでおきます」


「あ、あの、それは、私が」


「ついでなので」


袋の枚数を選んで、注文を確定した。数字を打ち間違えていないか、二度確かめてから送った。


窓の外で、低い羽音が近づいてきた。


オリビアが窓を開けると、ドローンが庇の下で止まった。荷を切り離して、また上がっていく。羽音が遠ざかると、部屋が急に静かになった。


葵は袋を一枚出して、箱に敷いた。今度は縁が外に垂れなかった。箱の口と袋の口が、ほとんど同じ高さで揃っている。


「これなら、いっぱいになったのが見えます」


「……はい」


「あと、いっぱいになったら、その日のうちに出してください」


「は、はい」


「僕から先生への、宿題ですね」


オリビアが顔を上げた。前髪の奥で、目が丸くなっている。


「し、宿題」


「はい。一週間、来られないので」


「……一週間」


オリビアは箱を見て、それから籠を見た。


「あの」


「はい」


「一週間、ですか」


「はい」


オリビアは何か言いかけて、やめた。


「……分かりました。やっておきます」


部屋の中で、まだ物が散っているのは机の周りだった。書類と本と、封の開いた郵便が積んである。仕組みを作っていない場所だった。


「その机は、休みが明けてからにしましょうか」


「は、はい」


「一回では終わらないと思うので」


「……はい」


「じゃあ、おやすみなさい、先生」


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


壁の穴が閉じて、隣の部屋の明かりが消えた。


オリビアは箱の前にしばらく立っていた。袋の口が、箱の縁と同じ高さで揃っている。押し込む隙間が、どこにもなかった。


それから棚の一段に手を伸ばした。


缶の蓋が、小さく鳴った。


一週間、来ない。そう聞いたときに何を言えばよかったのか、まだ分からなかった。気をつけて、と言ったような気もするし、言い損ねたような気もする。


チョコレートを一つ取って、口に入れた。


包み紙は、箱の方へ落とした。落としてから、少し考えて、拾い直した。それから、また箱に入れた。同じ場所に入っただけだった。


缶の蓋を閉めて、棚に戻す。位置を少しだけ直した。


机の上には、四枚目の紙が残っている。渡すつもりで作って、多いような気がして抜いた一枚だった。オリビアはもう一度それを見た。


明かりを消した。


箱の縁と袋の縁は、暗くなっても同じ高さで揃っていた。

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