第182話 ソウルチューニング3
階段を下りると、地下の廊下に出た。金属の振動のような気配がする。音ではなく、魔力の残滓のような何かだった。
突き当たりの扉に「鍛冶研究部」の板が掛かっている。板の端の手書きの文字も、そのままだった。
「葵」
肩の上でライラが言った。
「お金ちょうだい」
「いいよ、いくらくらい?」
葵は端末を出しかけた。ライラは腕を組んだまま、扉の方を見ている。
「……後で」
「後で?」
「後で」
それきり何も言わなかった。
聞き返してもいいのだろうが、ライラの背中には言う気がないという形が出ていた。葵は端末を仕舞った。
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扉を開けると、アリアは作業台についていた。
「こんにちは」
「来た」
顔は上げなかった。手元の刀身に細い工具を当てている。区切りがついたところで、ようやくこちらを見た。
葵は棚から作業着を出した。濃い灰色の、体に合うもの。置き場所は先週から変わっていない。ゴーグルも同じ棚にあった。
袖を通しながら、ふと思い出したことがあった。
「アリア先輩、そういえば」
「ん」
「ホームカミングのとき、鍛冶部のブースに部員の方がけっこういましたよね」
「うん」
「今日は、いないんですね」
アリアは工具を置いた。
「新しい方の部室にいる。」
「新しい部室があるんですか」
「誘導加熱の炉。温度が数字で出る。煙も灰も出ない。涼しい」
言いながら、部屋の奥の炉を顎で示した。煉瓦を積んだ古い炉で、いまは火が入っていない。
「こっちは火を焚くと暑い。灰も出る」
「先輩は、こっちなんですね」
「向こうは楽」
アリアはそこで一度切った。
「ここは正確」
それ以上は言わなかった。葵はゴーグルを首にかけた。理由を聞いてもよかったが、聞いたところで同じ長さの答えが返ってくる気がした。
肩からライラが飛んだ。
まっすぐ扉の方へ戻っていって、板の前で止まる。「鍛冶研究部」と書かれた板を、指で示した。
「依頼したい」
アリアが立ち上がった。
「内容は」
ライラが作業台の上に降りて、手振りを始めた。アリアがその前に腰を下ろす。百八十センチの人が、十五センチの相手に合わせて背を丸めている。
葵の位置からは、ライラの声が半分しか届かなかった。
「これくらいの」
「持てる方」
「押すやつが、こう」
アリアが引き出しから薄い板を何枚か出した。並べて、ライラの前に置く。ライラが一枚ずつ押していった。押しては首を傾げ、次を押す。
三枚目のところで、何度か続けて押した。
「うん。大丈夫」
アリアがその一枚を取り分けた。残りを引き出しに戻す。
「振動は」
「入れる」
「体に合わせる。それでいい?」
「うん」
それから寸法を測り始めた。ライラが両手を広げて、アリアが目盛りを読む。細い金属の物差しが、ライラの手のひらの上に置かれていた。
葵は少し離れたところで見ていた。何を作るのかは分からなかったが、ライラが真剣なのは分かった。
「葵」
アリアが顔を上げた。
「五百クレド」
「あ、はい」
端末を出しながら、葵は聞いた。
「アリア先輩、何を依頼されたんですか」
「言えない」
「え」
「クライアントの秘密は守るもの」
アリアは物差しを仕舞った。ライラが作業台の上で腕を組んで、うんうんと頷いている。
僕がお金を出すんだけどな、と葵は思った。
思ったが、ライラの背中が浮かれていた。羽の動きが、いつもより速い。
まあ、いいか。
葵は五百クレドを送った。
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「杖、出して」
アリアが手を出した。
葵は魂から堕星の黒翼杖を呼び出して、渡した。水曜に七十九層で使ったきり、そのままになっている。
アリアが杖を作業台に横たえた。ソウル・ゲージを中ほどに当てる。針が動いて、止まった。
「同調度は、上がってる」
「あ、よかったです」
「使ってるから」
アリアは手袋の指で杖を一往復撫でた。それから結晶板を出して、杖の中央に置いた。手のひらをかざす。
低い唸りが工房に増えた。魔力炉の音とは違う、もう少し近い音だった。
杖の表面が薄く光って、中から色のついた糸が出てきた。
葵はノートを開いたまま、それを見ていた。前に見たときは、細い糸が何本も重なって板の上に積もっていった。今日は違った。
出てきたのは、二本だけだった。
一本は緑がかった黒で、板の上でとぐろを巻くように溜まっていく。もう一本は黄色に近い。
「少ないですね」
「本数は」
アリアは板を見たままだった。
「その代わり、太い」
葵はもう一度見た。確かに、前の糸より太かった。指ほどの太さがある。
「これ、一体からですか」
「たぶん。何体もいれば、細いのが絡み合う。これは絡んでない」
アリアは黒緑の糸を指した。
「量でいえば、前に抜いた分を全部足したより多い」
葵は書こうとして、ペンを止めた。
「あの、どのくらいの相手だったかって、分かるんですか」
「魔力の量しか出ない。何と戦ったかまでは分からない。ただ、量から深さは出る。七十層より下」
「七十九層です」
アリアの手が止まった。
止まってから、糸を板の上に戻した。
「そう」
それだけだった。
「先週は、七十層」
「はい」
「九層」
「はい」
アリアは結晶板の位置を直した。手つきは変わらなかったが、直す必要のない位置だった気がした。
「混ぜる」
手のひらを板の上にかざした。工房の音が急に静かになった。
葵は息を止めて見ていた。手のひらの下で、黒緑と黄色が混ざっていく。黒緑の方が濃いのに、飲み込まれずに残っている。二色が譲らないまま、少しずつ一つの筋になっていった。
「ふぅ」
アリアが息を吐いて、手を退けた。
板の中央に、細い光が一筋だけ残っていた。
「硬い方だった」
「硬い、ですか」
「混ざりにくい魔力。素直じゃない」
アリアは光を指のあいだで持ち上げて、杖の中ほどに押し当てた。杖が一度だけ脈打って、また黒に戻る。
ソウル・ゲージを当て直すと、針がさっきより上で止まった。
「悪くない」
杖を返された。手の中の重さが、来たときと変わっていた。軽くはなっていない。芯の通った重さになっていた。
「ありがとうございます」
葵はノートに書いた。混ざりにくい魔力は、素直じゃない。
書いてから、アリアがまだ結晶板を見ているのに気づいた。板の上には、もう何も残っていない。
「先輩?」
「ん」
アリアは布で板を拭いて、引き出しに仕舞った。
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杖を魂に戻してから、葵はポーチの奥を探った。
「あの、先輩。ダンジョンで、これを拾いまして」
布に包んだものを開いて、作業台に置いた。黒緑の光を湛えた鏃だった。
アリアが顔を上げた。
「これ、結構強いと思うんですけど。最強の武器として、どうですか」
言ってから、葵は扉の板のことを思い出していた。鍛冶研究部、と書かれた板の端の手書きの文字。誰が書いたのかは知らない。
アリアは手袋を外してから、鏃を持ち上げた。指先で縁をなぞって、光にかざす。角度を変えて、二度。
「これで付けた傷は、治らない」
葵はペンを落としそうになった。
「分かるんですか」
「分かる」
「触っただけで」
「一度きり。使えば、ただの鏃になる」
答えになっていなかった。
「……多分そうだと思います」
アリアは鏃を布の上に戻した。
「強い」
「ですよね」
「でも、最強じゃない」
葵は顔を上げた。
「治らない傷は、切れば済む。腕なら腕、尾なら尾。再生できる相手ほど、切る判断が速い。傷ごと捨てられる」
「なるほど」
「それに、当たらなければ何も起きない」
葵はレラジェの矢を思い出した。掠っただけで、倒木が黒く腐っていた。あれは当たらなかったから、何も起きなかった。当たっていたら、いま自分はここにいない。
「たとえば」
アリアが続けた。
「これが使い捨てじゃなかったとする。治らない傷を付ける剣があって、何度でも使える。それでも最強じゃない」
「え、使い捨てじゃなくてもですか」
「性能が、当たった後にしか働かない。当てるところまでは、ただの剣。当てられない相手には、何の意味もない」
葵はノートに書いた。当たった後にしか働かない。
「じゃあ、最強の武器って、何なんですか」
アリアはしばらく答えなかった。作業台の上の鏃を、指で少し回した。
「まだ無い」
「無い」
「あったら、うちの部は看板を下ろしてる」
葵は思わず笑った。アリアは笑わなかったが、葵の方をちらりと見た。
「これ、矢にする?」
「え、いいんですか」
「柄と羽根を付けるだけ」
「ありがとうございます。お代は」
「さっきの分に含めておく」
「いえ、それは別なので、僕が」
「いい。ついでだから」
アリアは鏃を布ごと持ち上げて、引き出しの中の浅い箱に移した。箱には他に何も入っていなかった。
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「今日は熱処理を教える」
アリアが炉の前へ歩いていった。火口の蓋を開けて、中を覗く。
葵は作業台の端にノートを開いた。前のページには金属の名前と、磨きは往復の数、と書いてある。
「金属は、熱してから冷ますと性質が変わる。冷まし方で、硬くも柔らかくもなる」
「冷まし方で、ですか」
「急に冷やせば硬くなる。ゆっくりなら柔らかい。それだけのことだけど、ここが刃物の全部」
葵は書いた。冷まし方で硬さが変わる。
炉に火が入った。最初は音がしなかった。しばらくして、空気が動く音が低く回り始める。
「じゃあ、硬い方がいいですよね。刃物なら」
アリアが振り返った。
「硬いものは、欠ける」
「欠ける」
「硬さだけを上げると、ぶつかったときに割れる。曲がる代わりに、折れる。だから粘りがいる」
「粘り」
「硬さと粘りは、逆に動く。片方を上げれば、片方が下がる。両方は取れない」
アリアは炭を掻き分けて、鉄の小片を埋めた。
「だから、その間を作る。刃物を作るというのは、そういうこと」
その一言だけ、いつもより間があった気がした。アリアは炉に目を戻している。
葵は書いた。硬さと粘りは逆。間を作る。
「二回に分けてやる。まず焼き入れ。熱してから急に冷やして、硬くする。それから焼き戻し。もう一度、低い温度で熱して、粘りを戻す」
「一回だと駄目なんですか」
「焼き入れだけの刃は、使い物にならない。硬すぎて、落としただけで割れる」
葵は炉の前に立った。顔の正面が熱い。目の下と鼻の頭に、じわじわと温度が来る。手のひらを向けると、火から離れているのに押されるような感触があった。
「近い」
襟を引かれて、半歩下がった。
「熱は目に見えない。距離で覚えるしかない。ここまでなら平気、ここからは駄目という線を、体に入れる」
「はい」
葵はノートに書いた。熱は距離で覚える。
炭の中の鉄が、色を変え始めていた。暗い赤から、明るい赤へ。それから橙に近づいていく。境目のない変化だった。ずっと見ていると、どこで変わったのか分からなくなる。
「今、何度くらいか分かる?」
「分かりません」
「色で読む。向こうの炉なら数字が出るけど、こっちは自分で読む」
「先輩は、読めるんですか」
「読める。今は七百五十くらい」
アリアは炉の中から目を離さなかった。
「もう少し」
赤が橙になり、橙の中が明るくなった。
「今」
火箸で鉄を掴み出して、脇の水槽に沈めた。音が跳ねて、白い湯気が上がる。
湯気が消えるまで、二人とも黙っていた。
「触ってみて」
引き上げられた鉄片は、まだ温かかった。
「硬くなってる、と思います」
「爪を立ててみて。前のは傷がついた」
葵は爪を当てた。滑る。
「本当だ。全然つかない」
「その代わり、いま落とすと割れる。硬いだけの状態だから」
アリアは鉄片を炉の脇に置いた。今度は火から離れた場所だった。
「焼き戻しは、低い温度で長く。二百から三百くらい。急ぐと意味がなくなる」
「そんなに低いんですか」
「熱すと、表面に色が出る。薄い黄色から始まって、茶、紫、青の順に変わる。刃物は、その途中で止める」
葵はノートに色の順番を書いた。
アリアが椅子を二つ引いてきた。一つに座って、もう一つを葵の方へ押す。
「待つ時間。座って」
「はい」
葵は座った。膝の上にノートを置く。鉄片には、まだ何の色も出ていない。
「先輩」
「ん」
「間を作るのって、難しいですか」
アリアは炉の方を向いたままだった。
「難しい」
それから、少しして付け足した。
「片方に寄せる方が、ずっと簡単。硬いだけとか、柔らかいだけなら、失敗しない」
葵はノートに書こうとして、書く場所を探した。手順の話ではないので、余白に書いた。
鉄片の表面に、薄い黄色が出始めた。
「出ました」
「藁色という。まだ止めない」
黄色が濃くなって、端の方が茶色に変わった。境目が動いていく。生き物のようだと思ったが、生きてはいないのだと先週教わったので、口には出さなかった。
「次で止める」
紫が差した瞬間、アリアの手が動いた。火箸ごと引いて、鉄片を台の上に置く。
「これで終わり」
「早いですね、止めるの」
「一秒遅れると、別のものになる」
葵は台の上の鉄片を覗き込んだ。黄色と茶色と紫が、細い帯になって並んでいる。
「これ、色が全部残ってるんですね」
「残る。消えない。どこまで熱したか、後から見れば全部分かる」
アリアは鉄片を指で回した。
「失敗も残る。だから記録を取る必要がない」
「あ、ごまかせないんですね」
「ごまかす必要がない。次に直せばいい」
葵は少し考えてから、書いた。色は残る。
書き終えてノートを閉じると、アリアがこちらを見ていた。目が合うと、すぐに手元へ戻った。
「次は研磨。それで基礎編は終わり」
作業台の隅で、ライラが薄い板を押していた。さっき選んだ一枚を、まだ何度も押している。押しては止め、また押す。
炉の音が低く続いていた。
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片付けを始める頃には、炉の火は落ちていた。
葵は作業着を畳んだ。畳んでから、端を揃え直した。棚に置いて、ゴーグルを上に重ねる。
「明日、昼までに取りに来て」
アリアが言った。
「明日、部活ないですよね」
「作るから、いる」
「あ、じゃあ、わざわざ」
「ついでだと言った」
アリアは引き出しから小さな紙を出して、作業台の端に置いた。何か書いてある。
横から手が伸びた。ライラだった。両手で紙を掴んで、抱え込む。ライラの体の半分ほどの大きさがあった。
「これ、私の」
「あ、うん」
「葵は見ちゃだめ」
「見てないよ」
ライラは紙を折り畳んで、さらに小さくしてから、葵の胸ポケットに突っ込んだ。自分では持てないので、預けるということらしかった。
「入れるんだ」
「見ちゃだめ」
「見ないよ」
扉のところでアリアが待っていた。葵が出ると、後ろで鍵をかける。
「気をつけて」
「はい。ありがとうございました」
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階段を上がると、地上の空気が冷たかった。十一月の夕方の匂いがして、地下との差で顔の表面がすっと乾いた。
胸ポケットの中で、紙が小さく音を立てた。
「葵」
肩の上でライラが言った。
「炉のとこ。葵が動く前に、アリアの手が出てた」
「え」
「近づく前に、もう掴んでた」
葵は思い返してみた。確かに、襟を引かれたのは近づいた直後だった気がする。近づいてから引かれたのだと思っていたが、順番が逆だったのかもしれない。
「危ないと思われてたのかな」
「……違う」
ライラはそれだけ言って、葵の肩に座り直した。
「ねえ、ライラ」
「なに」
「何を頼んだの」
「明日、分かる」
「今日じゃだめ?」
「だめ」
「そっか」
ライラは寮に着くまで、何も言わなかった。




