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第180話 人の引いた枠

練習場から中央棟へ戻る道は、制服の列になっていた。一限が終わったばかりで、みんな同じ方向へ歩いている。中庭を横切る石畳が、朝より乾いていた。


「あの」


後ろから声がした。振り返ると、ミラが半歩下がったところに立っていた。


「次の時間、近くに座ってもいいですか」


「いいですけど、どうしたんですか」


「次、討論だと思うので……私、たぶん、組む相手がいなくて」


語尾が下がって、最後は聞き取れなかった。


「わかった。大丈夫」


セレンだった。前を歩いていたのに、いつのまにか横に並んでいる。


「なんであなたが決めるのよ」


茜が言った。声は尖っていなかったが、目はミラを見ていた。


「茜、いじわるだよ」


葵が言うと、茜は口を閉じた。それから、少しだけ息を吐いた。


「……確かに、さっきは助かったわ。ありがとう」


「い、いえ」


ミラの首から上が赤くなった。


「これから普通に喋ろう」と葵は言った。「同じクラスだし」


「え」


「友達になろう。今日みたいなグループワークのとき、一緒にやろうね」


ミラは足を止めた。それから、こくりと頷いた。


「……はい。あ、いえ。うん」


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


ホールは階段状になっていて、後ろの席ほど高い。葵はいつもの列に座った。左に茜、右にセレンが来て、その隣にミラが腰を下ろす。


アーデルは一番下の演壇に立ったまま、生徒が座り終わるのを待っていた。


「第四章を終える。まず、通しで確認する」


黒板に四つの見出しが並んだ。契約の種類、神魔が契約する理由、代償、社会的な扱い。


そこから先は、十一月に習ったことがもう一度だった。契約は結び方によって分かれること。神魔の側にも動機があること。代償は格によって重さが変わること。契約神魔の種類が、契約者の社会での扱いを決めてしまうこと。


葵のノートには書き足すところがなかった。四つ目は一昨日に聞いたばかりで、その日に書いたものがそのまま残っている。前の列で、誰かがしきりに手を動かしていた。


四つ目の見出しの下が埋まったところで、アーデルはチョークを置いた。


「ここまでが四章だ」


黒板は端から端まで白かった。


「残りの時間は討論に使う。四人ずつで話せ。この四つから一つ選んで、話したことを最後に発表してもらう」


紙の配られる音がした。


「教科書に書いてあることを、言い直す必要はない。それは私がもう話した」


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「じゃあ、どれにする」


葵が言うと、茜が真っ先に手帳を開いた。


「決まってるじゃない。神魔が契約する理由よ」


「早いね」


「私のところに天使様が来てくださったのは、私の目的を神様が祝福してくださっているからなの」


茜は手帳の同じ行を指で押さえた。


「つまり、私と葵が結婚するのは運命なのよ」


「そう」とセレンが言った。


「そうなの。相性がいいとか、そういう次元の話じゃないの。運命なの」


葵は少し考えた。


「うん、とっても素敵な話だと思うんだけど」


「でしょう」


「契約説法の話になってない気がするから、発表は別の人にしようね」


「なんでよ」


「なんでかな」


ミラが口元を押さえた。押さえてから、押さえた自分に気づいたみたいに手を下ろした。


「あの……私は」


三人が同じ方を向いた。


「学園契約って、相性のいい神魔が来るって、習いましたよね。でも私、そうは思えなくて」


「相性、悪いの?」


「はい。……うん」


ミラは膝の上で指を組んだ。


「喧嘩ばかりしています。毎日」


「毎日?」


「毎日です」


葵は少し考えた。


「でも、この前の演習ではあんなにすごい連携してたよね。あれで相性が悪いの?」


複製が三体に分かれて、そのうちの一体だけが本命だった。あの手順は、片方だけでは組み立てられない。


「あれは……」


ミラが言葉を探した。


「あの子は、根拠のないことを平気で言い切るんです。作戦を立てているとき、私が迷っていると、いける、って。何の根拠もないのに」


「へえ」


「私、そういうの、できないので」


「じゃあ、二人でちょうどいいんじゃないかな」


葵が言うと、ミラは黙った。


「教科書だと、三つよね」


茜が手帳のページをめくった。


「好奇心、信仰、感情。神魔が契約する理由は、だいたいこのどれか」


「じゃあ、ミラさんのところは?」


「……分かりません。好奇心ではないと思います。信仰も違うと思います」


「感情?」


「感情なら、あんなに怒らないと思うんですけど」


「怒るのも感情だよ」


「そうですけど……そうかな」


三人が同時に黙った。


「茜のところは」


「私は信仰よ。決まってるじゃない」


「毎朝お祈りしてるの?」


「してないわ」


「じゃあ違うんじゃないかな」


「失礼ね。心の中でしてるの」


セレンが小さく息を吐いた。笑ったのかもしれない。


葵も自分のところを考えてみた。八年前のあの日、向こうから来た。理由を三つのどれかに当てはめようとして、うまくいかなかった。好奇心だったのかもしれないし、そうでないのかもしれない。


「僕のところも、よく分からないんだ」


「小春くんも?」


「うん。木曜の夜に、遺跡の発掘番組を必ず見るんだよ。録画じゃだめで、その時間に見ないと納得しない。何がそんなにいいのか、何回聞いても分からない」


ミラが少し笑った。


「でも、大切な家族みたいな存在なんだ。仲がいいからって、全部分かるわけじゃないんだと思う」


紙にはまだ何も書いていなかった。ホールのあちこちで似たような声がしている。前の班が、悪魔と契約する人間の動機がどうとかで揉めていた。


「三つに入らないのって、私たちだけなのかしら」


茜が言った。


「入らないんじゃなくて」


ミラだった。


「入るけど、それだけじゃない、っていうことかもしれません」


「どういうこと」


「人と人の関係も、友達とか、家族とか、名前は付きますよね。でも、名前が付いたからって、その人との関係が全部説明できるわけじゃないです」


ミラは一度そこで止まった。止まってから、続けた。


「神魔との関係も、たぶん同じで。好奇心とか信仰とか、そういう入口はあるけど、入ったあとのことは、もっと複雑なんじゃないかと思います」


誰も何も言わなかった。


「……すみません。まとまってないですよね」


「まとまってるよ」と葵は言った。「それでいいと思う」


「そうね。少なくとも運命よりは学問っぽいわ」


「茜が言うと嫌味に聞こえるよ」


「褒めてるのよ」


葵は紙にペンを置いた。


「じゃあ、これで。発表、僕がやっていいかな」


茜は手帳を閉じたし、セレンは前を向いたままだった。ミラは人前で話すのが苦手だと言っていた。


「あの」


ミラが顔を上げた。


「これ、私が言い出したことなので」


「え」


「私が、やります」


葵はミラを見た。


「大丈夫?」


ミラは膝の上の手を一度握って、開いた。


「……はい。大丈夫です」


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「そこまで」


アーデルの声がホールの上まで届いた。話し声が波が引くように収まっていく。


「前の列から順に、一班ずつ。選んだ見出しと、話したことを言え」


最初の班が立った。代償を選んだらしく、格の高い神魔ほど代償が重いという話をしていた。教科書の通りだった。次の班は社会的な扱いで、天使の契約者は就職に有利だという話から、それは不公平ではないかという話になっていた。


葵は自分の紙を見た。


四つの分類のどこにも、ライラは入らない。天使でも悪魔でもなく、精霊でも土着の神でもない。教科書に載っている枠のどれとも違う。


入るけど、それだけじゃない。ミラはそう言った。葵の場合は、入りもしない。


言えないな、と思った。


「次」


隣の列が終わって、こちらの番になった。ミラが立ち上がる。紙を持つ手が、少し高い位置にあった。


「あの」


声が小さくて、後ろの席から「聞こえない」と言う声がした。ミラの肩が上がった。


「もう一度」とアーデルが言った。


咎める調子ではなかった。ミラが息を吸うのが、隣にいると分かった。


「神魔が契約する理由を、選びました」


さっきより大きかった。


「教科書には、好奇心と、信仰と、感情と書いてあります。でも、私たちの班では、どれにも当てはまらない人が多かったです」


茜が小さく頷いた。


「それで、入らないのではなくて、入るけれどそれだけではない、という話になりました。人と人の関係にも、友達とか家族とか名前は付きますけど、名前が付いたからといって、その関係が全部説明できるわけではないので。神魔との関係も、たぶん同じだと思います」


ミラは一度紙を見た。何も書いていないのを、葵は知っている。


「以上です」


座るときに、椅子が少し鳴った。


アーデルはしばらく黙っていた。


「この章で扱ったのは、分類と制度だ。種類があり、理由があり、代償があり、扱いが決まっている。全て正しい。試験にも出る」


チョークを置いた。


「だが、これは人間が神魔を扱うために作った枠だ。神魔の側が、この枠に合わせて生きているわけではない」


ホールが静かになっていた。


「力が大きいから敬う。従わせられるから軽く扱う。どちらも同じことをしている。相手ではなく、力の大きさを見ているだけだ」


アーデルは黒板を見なかった。


「均衡と言ってきたな。差し出すものと、得るものの釣り合いだ。あれは契約の話だが、契約が終わってからも続く」


そこで一度切れた。


「畏れすぎるな。侮るな。……当たり前のことに聞こえるだろう。人に対しても、同じことが言える」


次の班が立ち上がった。


ミラは前を向いたまま、耳まで赤くしていた。葵は何も言わなかった。言わない方がいい気がした。

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