第179話 手で描く魔法
「一つ言っておく。お前たちは社会に出て十年もすれば、ここで習ったことの大半を忘れる。式も、順番も、私の顔もだ」
リースが袖をまくったまま、教壇の端に腰を預けた。
誰かが笑った。
「ところが妙なもので、こういう日のことは覚えている奴が多い。自分で手を動かして、それで何かが出た日は、残る」
黒板には何も書かれていない。
「今日は魔法陣を紙に描く」
リースは指の先を窓の外へ向けた。
「そして、撃つ」
ざわめきが起きた。前の席が身を乗り出している。
「お前たちが描いたものが、そのまま出る。初級の魔法陣なら、今日中に何発でも撃てる」
教壇の脇のパネルが、青白く細かく揺れた。
「本日使用する魔法道具について説明します」
オルタの声は、いつもの通りに平らだった。
「スクリプトルと言います。紙に描かれた魔法陣を写し取り、そのまま発動させる機械です。陣盤と呼ぶ場合もあります」
黒板に図が浮かんだ。腰の高さの台で、上面に浅い窪みがあり、脇にパネルが立っている。
「手順を申し上げます。描き終えた紙は、窪みに載せてください。機械が図を写し取り、線の太さと軽微な歪みは補正します。書き間違いは補正されません。魔力は縁を握り、充填しようと思うことで充填できます」
「続いて注意事項です。魔法実戦演習と同様に、保護具を装着してください。陣盤は的に向けて固定されています。射線上に人がいないことを確認してから起動してください。起動後、紙に手を伸ばさないでください。以上が守られない場合、演習を中止します」
「はーい」
返事が間延びして重なった。
「返事が軽いな」とリースが言った。「怪我をすると私が書類を書く。私は書類が嫌いだ」
笑い声がした。
「移動するぞ」
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中庭の隣の練習場には、白い台が等間隔に並んでいた。どれも同じ方を向いている。二十歩ほど先に、土を盛った的が横一列に据えられていた。
朝の光はまだ低い。芝の露が乾ききっていなくて、歩くと靴の先が濡れた。腕の保護具を留めると、体の輪郭のすぐ外側で空気が少し重くなる。
黒板で見たものが、そのまま並んでいた。窪みの脇のパネルが、どれも同じ角度で朝の光を返している。その上を掌に乗るくらいの機械が低く飛んでいて、下に人の形に近い光が浮かんでいた。
「四人ずつ組め」
葵の左右に茜とセレンが並んだ。あと一人、という顔で三人が見合わせていると、リースが人を一人連れて戻ってきた。
「小春。こいつを入れてやれ」
「あの……よろしく、お願いします」
ミラが頭を下げると、低い位置で結んだプラチナブロンドが肩から落ちた。声は相変わらず、聞き取るのに一拍かかるくらいの大きさだった。
「うん、よろしく」と葵は言いかけて、「はい、よろしくお願いします」と言い直した。
茜が葵の右側に立った。それから、ミラの方をちらりと見た。
配られたのは、プリントが三種類と道具一式だった。完全な陣が刷られたもの、ところどころ空白になっているもの、何も刷られていない白紙。膝に載る大きさの製図板に、留め具でプリントを挟む。製図用のシャープペンと字消し板、円定規、自在定規、それにディバイダ。
「まず完全なやつを撃て」とリースが全体に声を張った。「正しいものが何をするか見ておかんと、狂ったものを見ても狂っていることが分からん」
葵は完全な陣を窪みに載せた。縁は思ったより冷たかった。握って、入れる、と思う。手のひらの真ん中から、指先とは逆の方向に何かが抜けていく感じがあった。
パネルに数字が並んだ。必要 2.4 Pn、消費 2.5 Pn、誤差 0%。
窪みの上に白い球が浮かんで、的へ音もなく飛んでいった。土の面に当たって、ほどけるように消える。
「おおー」
隣の陣盤から声が上がった。似たような球が、あちこちで的に向かって飛んでいる。
「次は穴埋めだ。空いているところを自分で描け」
葵は白いところを見た。三つ空いている。属性紋は迷わなかった。二つ目の象徴文字で、手が止まった。
「葵」
セレンが横から自分のプリントを見せてきた。もう埋まっている。埋まってはいたが、線が太く、円弧の端が揃っていなかった。円定規は膝の横に置いたままになっている。
「ここ、こう」
得意気だった。
「……えっと」
「こう」
セレンは同じことをもう一度言った。それで説明は終わりだった。
「あの」
ミラだった。プリントを持つ手が、少しだけ前に出ている。
「その、二画目なんですけど、それだと下の線と繋がらないですよね。繋がらない形は、たしか別の意味に……なると思うんですけど」
セレンが自分の紙を見た。それから、ミラを見た。
「……そう?」
「はい。あの、たぶん」
「読めるから、いいと思ってた」
「読むのと、描くのは、別だと思います」
セレンが一度だけ瞬きをした。
「……直す」
字消し板を使わずに消したので、隣の線まで薄くなった。引き直した線は、やはり太かった。
ミラが黙った。何か言われるのを待っているみたいに、一度だけ肩が上がって、それから下りた。
「ミラさん、僕のも見てもらっていいですか」
葵が自分のプリントを差し出すと、ミラは受け取ってから顔を上げた。淡い色の目が、まっすぐこちらを向いている。
「私で、いいんですか」
「はい」
「あ……はい」
ミラの説明は、途中から速くなった。この文字は上から書き始める、この曲がりは角にしないと隣と読み違える、ここは繋げる。ディバイダの針で円周に等間隔の点を打っていく手つきに、迷いがなかった。声は小さいままだったが、言葉が途切れなくなった。
葵は言われた通りに描き直して、陣盤に載せた。
パネルの表示が変わった。照合できません。
「え」
理由は何も出なかった。数字も出ない。窪みの上の空気は動かないままだった。
「なんで駄目なんだろう」
「先生、これ、何が悪いか見ていただけますか?」とミラが顔を上げた。
「教えん。教えたら、つまらないだろう」
リースは面白そうにそう言って、次の陣盤へ行ってしまった。
四人でプリントを覗き込んだ。茜が葵の肩越しに紙を見て、それから葵の袖を軽く引いた。
「葵、これ……ここの線、長くない?」
三つ目の空欄の、下から二本目。ほんの少しだけ、右に出ていた。
「あ、本当ですね」とミラが言った。「これだと、閉じていないことになります」
消して、短くして、もう一度載せた。
必要 3.1 Pn、消費 3.2 Pn、誤差 1%。
青い球が上がって、的の手前でほどけた。
「やった」
葵が言うと、茜が少しだけ胸を張った。ミラは下を向いた。耳が赤かった。
穴埋めが一通り終わった頃、リースが全体に声をかけた。
「残りは好きにしろ。魔法の性質の記号は以前にやったな。思うままに足していい。ただし射線は変えるな。的の方だけだ。それと、必要な分が跳ね上がったら陣盤が受け付けん。そこは自分で考えろ」
練習場の空気が変わった。
拡散を足した光が、的の手前で球にならずに開いた。開いたところからさらに散る。誰かの陣盤から黄色い粒が斜めに噴き上がって、的の上で風に流れて消えた。歓声と、笑い声。
「あー! 切れた!」
隣の班が縁を叩いていた。ドローンがそちらへ滑っていって、光の像が窪みの上に立った。
「供給を中断しました。手を離してください。要求量が想定範囲を超えています」
「もうちょっとだったのに」
「もうちょっとではありません」
セレンも一枚描いた。載せて、握る。誤差 8%。
光は上がった。上がったが、片側だけが大きく開いて、反対側は開かないまま的の向こうへ落ちていった。
「……当たればいい」
「当てるものじゃないですよ、これ」とミラが言った。
葵も一つ描いた。拡散と、断続を両方足してみた。陣盤は受け付けた。誤差 4%。
光は上がらなかった。窪みを出たところから地面すれすれに広がって、芝の上を的まで走った。露が一斉に光を返して、白い線が扇のように伸びていく。
「わあ」
四人が同時に身を乗り出した。光は土の面に届いて、そこで消えた。
「なにこれ」
「なんだろう」
茜が笑っていた。ミラも笑っていた。笑ってから、口を押さえた。
「今の、もう一回できませんか」
「たぶん、できます」
葵はプリントを一枚もらいに走った。
最後の一枚は、ミラが中心になって描いた。どこに何を足すかで三人が好きなことを言って、そのたびにミラが「それは意味が変わります」「それだと跳ねます」と止めた。茜が余白に細かい線を入れようとしたのも止められた。
「そうなの?」
「はい。……たぶん」
「じゃあ、やめておくわ」
陣盤に載せた。四人で縁を握った。
必要 9.6 Pn、消費 9.9 Pn、誤差 1%。
光が的の上へ斜めに伸びて、高いところで開いた。開いた先からもう一度開いて、粒が流れながら落ちてくる。落ちきる前に消えた。
「きれい……ですね」
ミラが上を向いたまま言った。
「はい」
葵も上を向いていた。楽しい、と思った。
「片付けろ。次の授業がある」
リースの声がして、誰かが「えー」と言った。




