第178話 禁じられた輝き6
夜が更けていた。
木曜の遅い時間、リビングのテレビの前にライラが座っていた。目が輝いていた。
「葵、始まる」
「失われた魔法都市を探して」の時間だった。先週も同じ時間に、同じ目をしていた気がする。録画じゃダメなのかは、もう聞かなかった。聞いても、答えは決まっていた。
今夜は、いつもと違うことが一つあった。
アーデルがリビングに残っていた。本を一冊持って、ソファの葵の隣に座った。
「先生も、見るんですか」
「……ああ」
短い返事だった。先生も気になっていたのかな、と葵は思った。
番組が始まった。
ペトラの発掘は先週の続きだった。水路の先を辿って、専門家が土を掘り返していく。刷毛で土を払う手元をカメラがずっと映している。ナレーションが貯水槽の構造について淡々と説明していた。二千年前の水利技術が、と難しい言葉が続く。
ライラは前のめりになっていた。時々、小さく頷いている。
アーデルは、本を読んでいた。ページをめくる音がナレーションの合間に規則正しく挟まった。時々顔を上げて画面を見て、また本に戻る。
葵はソファに背をあずけて発掘を見ていた。
土。刷毛。土。破片。土。
まぶたが、重くなってきた。
ナレーションの声が、遠くなったり近くなったりする。貯水槽が、水利権が、と声が続いていた。言葉が頭の中で少しずつほどけていく。
葵の思考は、いつのまにか番組から離れていた。
隣で、ページをめくる音がした。
(先生は、五時起きなのに。)
こんな時間まで起きていて、大丈夫なのかな。明日も、新聞を読むのに。むにゃむにゃと、考えが溶けていく。まぶたの裏にテレビの淡い光が届いていた。
淡い光。
待機画面の、静かな音楽。光って見えた、綺麗な人。女神様、ですか——
葵は、はっと目を開けた。
眠気が、一度に引いた。あれは、夢ではなかった。先週の、この時間だった。
「アーデル先生」
「なんだ」
「先週……僕、先生に、変なことを言った気がします。女神、とか。寝ぼけて、失礼なことを……すみませんでした」
ページをめくる手が、止まった。
「……思い出したのか」
低い声だった。葵は頷いて、それから、まずい、と思った。謝り方を間違えたかもしれない。あの言い方では、まるで。
「あ、いえ、違うんです。綺麗じゃない、という意味では、なくてですね」
言葉が、勝手に続いた。
「先生が美しくないという意味ではなく、その、先生がとても美人なのは、客観的に見て、事実というか」
何を言っているんだろう、と自分でも思った。止まらなかった。
「つまり、寝ぼけて言ったことは失礼でしたが、内容は、間違っていないというか……」
沈黙があった。
テレビのナレーションだけが、貯水槽の容量について語っていた。
アーデルの肩が、小さく揺れた。
息の漏れる音がした。切れ長の目が細くなって、口元が緩んで、アーデルは声を立てずに笑っていた。
葵は、ぽかんとした。初めて見る顔だった。授業でも、食卓でも、テレビの前でも見たことのない顔だった。
「……客観的に、か」
アーデルは笑いの残った声で言った。それだけ言って、本に目を戻した。ページをめくる手つきはもういつも通りだった。口元だけが、まだ少しだけ緩んでいた。
なんで笑われたんだろう、と葵は思った。分からなかった。ただ、怒っていないことだけは分かった。
ライラは画面に夢中で、何も見ていなかった。
番組が終わった。ライラは満足そうに丸くなって、そのまま眠りの体勢に入った。葵はライラをそっと抱え上げた。
「おやすみなさい、アーデル先生」
「ああ。……小春」
「はい」
「今夜は、自分で歩けたな」
「? はい」
葵はライラを抱えて、リビングを出た。
アーデルはソファに残って、本を開いていた。テレビの消えた画面が部屋を少し暗くした。ページをめくる音が、一度鳴って、しばらく鳴らなかった。




