第177話 花嫁修業2
道場からの帰り道、ライラが胸元から言った。
「今夜、麻婆豆腐。あと、お味噌汁」
「麻婆豆腐と、お味噌汁?」
「うん」
献立は、いつも二人で決める。今夜はライラのリクエストだった。悪くない組み合わせだと葵は思った。白羽の練習には味噌汁がちょうどいいし、麻婆豆腐なら横で並行して作れる。ネットスーパーで豆腐を三丁と、ひき肉と野菜を買った。
キッチンに白羽が来た。
「今夜も、世話になる」
白羽は葵の渡した無地のエプロンを着け、後ろ手に紐を結んだ。結び目は、曲がっていなかった。
葵は龍のエプロンを締めた。胸の真ん中で、金色の龍が今日も光っていた。何度着けても、龍は金色だった。
「今夜は、何を作る」
「先輩は、お味噌汁をやります。僕は横で麻婆豆腐を作るので、夕食はその二つと、ご飯です」
「味噌汁か」
「お味噌汁には、この前のメモが全部入ってるので。火加減と、ひとつまみと、包丁。全部です」
「……なるほど。基本稽古か」
道場の言葉に置き換わった途端、白羽の背筋が伸びた。
調理台には、豆腐が三丁並んだ。
最初は、だしだった。
昆布を水から入れて火にかける。鍋の底から小さな泡が立ち上がり始めたところで昆布を引き上げ、沸いたところで火を止めて鰹節を入れた。薄く削られた鰹節が湯を吸って沈んでいく。
「工程は、知っていますか?」
白羽は鍋を覗き込んで言った。
「中学の家庭科で、習った。……作るのは、初めてだ」
習ったのに初めて、という言い方に、葵は引っかからなかった。そういうこともあるのだろうと思った。だしが引き上がり、白羽は小皿で一口飲んだ。飲んで、少し黙った。
「……この味だ」
「知ってる味ですか」
「ああ。……知っている」
それ以上は言わなかった。琥珀色の小皿を、白羽は両手で持ったままもう一口飲んだ。
葵はその間に麻婆の下ごしらえを始めていた。フライパンにひき肉を落とすと、脂の弾ける音が上がった。豆板醤とにんにくと生姜。赤い油が回り、辛い香りが湯気に乗ってキッチンに広がった。白羽の鼻が少し動いた。
「次は、包丁です。まず、手本を見せます」
葵は一丁目の豆腐を左の手のひらに載せた。
「手の上で、か」
「まな板より崩れないので。刃は、豆腐の底で止めます」
縦に四本。向きを変えて四本。それから刃を水平に寝かせ、豆腐の厚みを二回に分けて通した。手のひらの上で、賽の目が三段に揃う。葵はそれをそのまま、麻婆用のボウルへ滑らせた。
「この一丁は、麻婆豆腐の分です。じゃあ先輩、次の一丁を。それはお味噌汁の分になります」
白羽は二丁目を手のひらに載せて包丁を構えた。自分の手に向かって刃を下ろす動作に、ためらいは一切なかった。刃がすっと沈み、豆腐の底で髪の毛一本分の余白を残して止まった。二本目。三本目。等間隔の切り込みが豆腐に並んでいった。
止める精度なら、この人は誰にも負けないのだった。
「縦は、いいですね。次は横です。二回に分けて通します」
白羽は刃を水平に寝かせた。
寝かせた構えのまま、慎重に刃を入れた。
刃が、途中で進まなくなった。
豆腐の柔らかさが刃を受け止めていた。白羽の手首に、わずかに力が入った。押す力だった。
豆腐が、刃の下で潰れ始めた。
切り口が分かれる代わりに、ぐちゃりと沈む。押された豆腐から水気が滲み出し、表面がねっとりと光った。刃が抜けた時、手のひらの上に残っていたのは賽の目でも切れ端でもなかった。四角い形をほとんど失った、崩れた豆腐の塊と小さな破片だった。
白羽は、手のひらの上の残骸を見下ろした。敵を睨む目だった。
「……切ったのではなく、潰したのか、これは」
「押してしまったのですね」
「刃が、進まなかった。だから」
「豆腐は、押すと切れる前に潰れるんです。力は、いりません。刃は、置くだけです」
置くだけ、と白羽は繰り返した。斬るために積んできた年月のどこにもない言葉だった。
「すまん。一丁、駄目にした」
「駄目になりません」
葵は崩れた豆腐を集めて麻婆用のボウルへ移した。
「崩れた豆腐は、麻婆豆腐が引き受けてくれるので。麻婆は崩れてた方がおいしい、っていう人もいるくらいです」
白羽は、ボウルの自分の残骸をしばらく見ていた。
「……そうか」
短い声だった。
葵はふと思った。麻婆豆腐と味噌汁。豆腐の練習に失敗が出ても、受け皿のある組み合わせだった。
(ライラ、そこまで考えてたのかな。)
胸のポケットを見下ろすと、ライラは素知らぬ顔で麻婆のフライパンの方を見ていた。
「じゃあ、三丁目。力を入れないで、それと、切り口を見ないでください」
「見ずに、どう切る」
葵は自分の左手を開いて見せた。
「手のひらで、刃の高さを聞いてください。豆腐越しに、刃がどこを通ってるか伝わってくるので」
「聞く……」
白羽は三丁目を手のひらに載せて目を細めた。縦を刻み、刃を寝かせる。刃が入る。今度は、白羽は切り口を見ていなかった。視線は手元から外れてどこか宙にあった。手のひらだけが、聞いていた。刃は押されず、豆腐の柔らかさに載ったままゆっくりと滑った。
出てきた刃は、水平だった。二段目も、通った。
「……通った」
「はい。綺麗です」
白羽は自分の手のひらと賽の目の揃った豆腐を、交互に見た。何か言いかけて、やめた。
次は、ネギだった。猫の手は、先週より丸くなっていた。構えは、完璧だった。
ザンッ。
まな板が鳴った。
ザンッ。ザンッ。
一太刀ごとにまな板が鳴った。道場の音だった。打ち込みの正確さで、包丁が等間隔に振り下ろされていく。小口切りの輪が、みるみる並んだ。
「切れた」
白羽は満足げに、ネギの端をつまんで持ち上げた。
ネギが、全部ついてきた。
輪切りのはずのネギが、底の皮一枚で全部繋がったまま菜箸の先からビロビロと長く垂れ下がった。蛇腹のように伸びて、揺れた。
白羽は、繋がったネギを目の高さに掲げたまましばらく動かなかった。
「…………」
「押し切りだと、最後の皮一枚が残るんです」
葵は繋がったネギを受け取って、まな板に戻した。
「上から打たないで、切っ先から入れて、手前に引いてください。まな板も、鳴らさなくて大丈夫です」
「……引く」
引くなら、体にあった。二本目のネギは静かだった。ザンという音の代わりにトントン、と軽い音が続き、持ち上げた輪は一枚ずつ、ばらばらと離れて落ちた。
「……離れたな」
白羽は落ちた輪を見て小さく頷いた。
葵は麻婆のフライパンに戻った。甜麺醤と醤油、それからスープを注いで一度煮立たせる。赤い表面に油が輪を描いた。あとは豆腐を入れてとろみをつけるだけの状態にして、火を止めた。
「こっちは豆腐を待つだけです。先輩、味噌をやりましょう」
味噌を溶く段になった。
「火を弱くして。味噌は、沸かすと香りが飛びます」
葵がお玉に味噌を取って渡す。白羽はお玉を鍋のだしに半分沈め、菜箸で味噌を少しずつ延ばし始めた。
その手つきが、ふっと滑らかに流れた。
お玉の縁に沿って、円を描くように。味噌の塊が縁で潰され、だしに溶け、また潰される。教えていない動きだった。淀みのない、何百回も繰り返した者の速さで手だけが動いていた。
白羽の手が、止まった。
白羽は、自分の手のひらを見た。菜箸を持ったまましばらく見ていた。
「先輩?」
「……いや」
白羽は首を振って続きを溶いた。続きの手つきは、ぎこちない初心者のものに戻っていた。
葵は麻婆のフライパンに火を入れ直し、賽の目の豆腐を滑らせた。木べらで底から返し、水溶き片栗粉を回し入れる。とろみが赤い餡になって豆腐に絡んでいく。
その間に、細切りにした人参ともやしを耐熱の器に入れ、レンジにかけた。蒸し上がったところへ、ごま油と塩と白ごま。和えると、ごまの香りが立った。ナムルが小鉢に山になった。
その間、味噌の鍋から目が離れていた。
離れたのが、悪かった。
鍋が、鳴っていた。
「先輩、火が」
「む」
味噌汁が煮立っていた。表面がぼこぼこと沸き、湯気の匂いからさっきまでの丸みが消えていた。白羽が慌てて火を落としたが、遅かった。
「……どうなったんだ」
「お味噌の香りが飛びました」
白羽は鍋を見下ろした。悔しさを噛む横顔だった。
「でも、直せます。追い味噌といって、少しだけ味噌を足すんです。香りだけ、戻ってくるので」
「私がやる」
即答だった。
「修行のうちだ」
白羽はお玉に味噌を小さく取り、弱火の鍋の中で延ばした。手つきは慎重で、ぎこちなくて、それでも縁に沿って円を描いていた。湯気の匂いに、丸みが戻った。
「……戻ったな」
「戻りました。もう火は上げないでください」
「うむ」
白羽は鍋の前から動かなくなった。番人の立ち姿だった。
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赤い餡の照る麻婆豆腐と、もやしと人参のナムルと、炊いた飯と、白羽の味噌汁。椀から立つ湯気にだしと味噌の匂いが混ざり、その上を麻婆の辛い香りとごま油の香りが渡った。
アーデルが食卓を見渡した。
「……日本と、中国と、韓国か。賑やかな卓だな」
「あ。ほんとですね」
言われるまで、気づかなかった。
アーデルが最初に味噌汁の椀を取った。一口すすって、椀の中を見た。
「……豆腐の大きさが、揃っているな」
「切りました」
白羽が言った。それだけ言って、口を結んだ。
オリビアは麻婆豆腐を一口食べて目を白黒させ、慌てて味噌汁の椀を両手で包んだ。ゆっくり一口飲んで、息を吐いた。
「……おいしい、です。辛くなくて」
「お味噌汁は、白羽先輩が作りました。だしから、全部」
葵が言うと、白羽の背筋がわずかに伸びた。不本意そうな顔を作ろうとして、作りきれていなかった。作りきれない時間は先週より短かった。
「……基本を、やっただけだ」
麻婆豆腐の中には、形の揃った賽の目と崩れた豆腐が混ざっていた。どちらにも同じ餡が絡んで、区別はもうつかなかった。白羽は麻婆を一口食べ、それから自分の味噌汁を飲んだ。飲んで、少しの間、黙った。何かを確かめる間だった。それから、何も言わずに二口目を飲んだ。
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片付けが終わると、葵はメモを渡した。改善点の書かれた二枚目のメモだった。
「火加減。目を離さない。それだけです。包丁とひとつまみは、もう大丈夫です」
「一つか」
白羽はメモを見た。先週は三つあった課題が、一つになっていた。
「次こそ、完璧にやる」
「先輩」
葵はエプロンの紐を解きながら言った。
「お料理は、完璧じゃなくていいんです。今日の豆腐みたいに、崩れても引き受けてくれる料理があるので。力を抜いて、やりましょう」
白羽は、メモから顔を上げた。少しの間、何も言わなかった。完璧でなくていい、という言葉の置き場所を、探している間に見えた。
「……善処する」
出てきたのは、いつもの声だった。それでも、メモを畳む手つきは、いつもより一拍ゆっくりだった。几帳面に畳んで袴の帯に挟む。それから、財布を出した。
「材料費だ」
「豆腐三丁と味噌なので、安いですよ」
「額の問題ではない」
きっちり払って、白羽はエプロンを畳んだ。畳み終えて、戸口で振り返った。
「再来週も、頼む」
来週が休暇であることは、二人とも分かっていた。白羽の方から、次を口にしていた。
「はい。再来週に」
白羽は頷いて、廊下の向こうへ消えた。足音が、道場の摺り足のように静かだった。




