第176話 戦技の型
道場に着いたのはいつもよりだいぶ早かった。
扉を開けると、床の匂いがした。
道場にはまだ誰もいなかった。誰もいないはずだった。奥の窓際に、袴の膝をついた背中が一つあった。
白羽だ。
高い位置で結んだ黒髪が動きに合わせて小さく揺れる。雑巾を両手で押さえ、板目に沿ってまっすぐ拭いては戻る。速くも遅くもない、同じ律の往復だった。バケツの水音だけが時々鳴った。
剣術部の部長で、風紀委員長だった。この道場で一番雑巾から遠いはずの人が、誰より先に来て、一番最初に床を拭いていた。
葵は壁際のバケツからもう一枚雑巾を取って絞り、白羽の隣の列に膝をついた。
「早いな」
白羽は手を止めずに言った。
「ダンジョン部が、早く終わったので」
「そうか」
それだけだった。二人分の雑巾の音が、板の上を往復した。
「先輩は、いつもこの時間なんですか」
「部に出られる日はな」
白羽は列の端まで拭き切って雑巾を返した。
「道場は使う者が磨く。それだけのことだ」
それだけのこと、と言う声に特別なことをしている響きは何もなかった。窓から差す夕方前の光の中で、拭き終えた床だけが順に色を深くしていった。
部員たちが集まり始め、稽古が始まった。
準備運動、素振り。磨かれた床の上で、木刀の音が揃っていく。揃った音の中に、一つだけ鋭い音が混ざっていた。
前に、チアリーダーの衣装を持ってきた生徒。名前は姫川陽菜、同じSクラスの、剣術部員だった。振りが速い。速いだけでなく、振り終わりがぶれない。素振りの列の中で、そこだけ音の質が違った。
型稽古で、葵は陽菜と組みになった。
「よろしくね、葵くん」
打ち込みを受けながら、陽菜はよく喋った。今日の献立の話、授業の話。喋りながらの打ち込みが、一本も浅くならなかった。
「姫川」
白羽の声が道場を渡った。
「型に無いものを足すな」
「はーい」
陽菜は悪びれずに返事をして、葵に小声で笑った。
「つい出ちゃうんだよね。私、才能あるから」
冗談の顔ではなかった。本気でそう思っている顔だった。
稽古の後半は、立ち合いだった。何組かが順に中央へ出て、寸止めの一本を取り合う。白羽は壁際に立ち、組み合わせを呼んでいった。三組目が終わったところで、白羽の目がこちらへ動いた。
「姫川。葵と立ち合え」
素振りの汗を拭いていた陽菜が、ぱっと顔を上げた。
「条件をつける。姫川は戦技を使ってよし。葵、お前は戦技を使うな」
道場が少しざわめいた。陽菜が目を丸くして、それからにっこりした。
「それ、私が有利すぎませんか。私、けっこう天才なので」
「知っている。だから組んだ」
道場の中央で、二人は木刀を提げて向かい合った。礼。陽菜の構えは綺麗だった。綺麗で、楽しそうだった。
「行くよ、葵くん」
先には、どちらも動かなかった。
木刀を提げたまま、摺り足で円を描く。間合いの縁を、互いの足がなぞっていく。道場の話し声が、いつの間にか消えていた。板の軋みと、二人分の足の音だけが残った。
先に間合いを破ったのは陽菜だった。
速い。摺り足の音がほとんどしないまま、距離が一気に消えた。振り下ろしを木刀で受ける。乾いた音が天井へ抜け、手の中まで痺れが走った。受けた木刀を押し返す前に、二撃目が反対から来ていた。弾く。三撃目は下から。払う。四撃目は肩口へ。半身で外し、返しの一刀を陽菜の胴へ送る。初めてこちらから打った一本を、陽菜は木刀を立てて受けた。
「やるじゃん!」
受けたまま押してくる。鍔迫りの形になった。力比べは分が悪い。葵は押し返さず、体を斜めに開いて力を流した。陽菜がつんのめる——かに見えて、そのまま前へ転がり、立ち上がりざまに距離を取った。崩れ方まで、稽古が入っていた。
「今の、いなしたね? いいね、そういうの」
楽しそうだった。楽しそうなまま、遠間で剣先をすっと引いた。
「エアスラッシュ!」
風の刃が飛んだ。
見えたのは、空気の歪みだけだった。葵は横に跳んだ。遅れた。左の袖口が、風の刃の端に裂かれて鳴った。刃はそのまま床を渡り、壁の防護幕が鈍く波打った。
道場の空気が変わった。素振りを終えた部員たちが、手を止めてこちらを見ていた。
飛ぶ斬撃。初級とはいえ、一年でそれが撃てる部員は多くない。才能は、本物だった。
「まだまだ!」
二射目が来た。今度は見えた。かわす。三射目。かわす。陽菜は遠間を保ったまま、こちらが動く先へ風の刃を置いてくる。当たらなくても、削れる。かわす方の呼吸は乱れ、撃つ方は乗ってくる。飛び道具を持つ側の戦い方だった。
このままでは削られる。葵は左右に振れながら距離を詰めにかかった。斜めに走り、風の刃を一枚、二枚とやり過ごし、間合いの内側へ滑り込む。
詰めさせるのも、陽菜の計算だった。
四射目が、足元へ来た。跳んでかわす。跳ばされたのだと、空中で気づいた。着地の瞬間、体は止まる。その一点に合わせて、陽菜はもう踏み込んでいた。腰が回る。
「スラッシュ!」
全身の回転を乗せた水平斬りが、着地際の葵を薙いだ。木刀を割り込ませて受ける。受けきれなかった。体ごと横へ吹かされ、二歩、三歩、床を滑って壁際まで下がった。
追撃が来た。吹かされた体勢の戻らないうちに、二の太刀の振り下ろし。葵は受けずに床を転がった。頭のあった場所を木刀が抜け、立ち上がる出鼻へ三の太刀。これは受けた。受けて、押し合わず、また体を開いて外へ流す。二度目のいなしで、ようやく仕切り直しの間合いが戻った。
受けた左手の痺れが、まだ抜けなかった。
飛ぶ刃で足を縫い、跳ばせて、着地を本命で刈る。二枚の型を、一つの狩りに組んでいた。教わった技を、教わった通りでなく使っている。それは確かに、才能と呼ぶものだった。
「どう? 私、強いでしょ」
陽菜は木刀を担いで笑った。息は、まだほとんど乱れていなかった。
葵は呼吸を整えた。整えながら、ここまでの太刀筋を頭の中で巻き戻した。
エアスラッシュの前には、剣先が必ず一度、深く引かれる。引きの深さも、そこからの太刀筋も、四射とも同じだった。スラッシュの前には、右の腰が先に入る。そして——どちらの技も、撃つ直前に、口元がわずかに緩む。得意なものを出す時の、無邪気な顔。
型が二枚。癖が一つ。
確かめることにした。
葵はまっすぐ間合いへ入った。打ち合いになる。一合、二合。打ち合いの呼吸の中で、陽菜の右腰が、ふっと深く入った。
葵は打ち込みをやめて、後ろへ跳んだ。
水平斬りが、誰もいない空間を薙いだ。
「……あれ?」
陽菜の目が、初めて丸くなった。当たるはずの一刀が空を切った。なぜ下がられたのか分からない、という顔だった。
腰で、分かる。読みは、合っていた。
(あとは、出際。)
葵は間合いを切って、わざと遠間に足を止めた。飛び道具の間合い。誘いだった。
陽菜は空振りの戸惑いを二秒で捨てて、また笑った。切り替えの早さも才能だった。遠間に立つ葵を見て、口元が、緩んだ。
剣先が、引かれた。
その引きの瞬間に、葵は床を蹴った。
風の刃は、引いて、溜めて、振り出して、初めて飛ぶ。三拍かかる。踏み込みは一拍で届く。一射目からずっと、同じ三拍だった。技の出際——木刀を振り出す途中の、止まれも変えられもしない一点に、葵の剣先が先に届いた。
寸止めの切っ先が、陽菜の喉元で止まった。
引かれたままの陽菜の木刀が、行き場を失って空中で止まっていた。
道場が、静かになった。誰かの息を呑む音が、静けさの中で聞こえた。
「……一本」
白羽の声が落ちた。
陽菜は切っ先を見下ろしたまま二秒ほど固まっていた。それから、大きく息を吐いた。
「読まれてたかー!」
悔しがり方まで明るかった。
「二人とも、そこへ」
白羽の前に並んで座った。白羽は陽菜を見た。
「姫川。なぜ負けたか分かるか」
「えっと……葵くんが強かった、から?」
「葵は今日、戦技を一度も使っていない。使ったのはお前だけだ。それで、負けた」
陽菜の眉が寄った。白羽は続けた。
「戦技は型だ。型は強い。強く——そして、読まれる。剣先を引けば風の刃、腰が入れば水平斬り。お前は同じ手順を四度見せた。五度目には、相手はお前の次を知っている」
「…………」
「お前は才がある。才があるから、技がすぐ入る。すぐ入るから、頼る。頼った分だけ、読まれる」
白羽の声は、叱る調子ではなかった。ただの事実の並びだった。
「お前の師範が戦技を教えなかった訳が、今日分かっただろう」
陽菜が、初めて固まった。
「……知ってたんですか」
「見れば分かる。基礎は正しく積んである。技だけが、後から急に載っている」
陽菜はしばらく黙って自分の木刀を見ていた。それから顔を上げた。目はもう笑っていた。
「じゃあ、読まれない使い方を覚えたら、私、もっと強いってことですよね」
「そういうことだ」
「よし」
陽菜は立ち上がって葵に向き直った。
「決めた。葵くん、今日から私のライバルだから」
「……うん? うん。よろしく」
「次は勝つから。戦技ありでもなしでも」
言い切って、陽菜は素振りの列へ戻っていった。負けた直後とは思えない足取りだった。ああいう強さもあるのだと葵は思った。
「葵」
白羽が声を落とした。
「言っておくが、いまの話はお前にも向けている」
「はい」
「虎爪も、型だ。強い型ほど、いずれ必ず読まれる。覚えておけ」
葵は頷いた。それから、報告することを思い出した。
「あの、そういえば、虎爪を実戦で使いました。……ダンジョンの強敵に、通りました」
白羽の目がわずかに見開かれた。それから、口の端が一瞬だけ動いた。笑ったのだと分かるより先に、いつもの顔に戻っていた。
「……そうか」
短い声だった。短い声の底に、確かな温度があった。
「次の稽古で、見せてもらう」
「はい」
稽古は日暮れ前に終わった。部員たちが順に道場を出て行き、最後の一人の足音が廊下の向こうへ消えると、白羽は竹刀掛けを直しながら声を落とした。
「今夜も、頼む」
「はい。待ってます」
白羽は頷いて、それきり何も言わずに道場の戸を確かめに行った。




