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第175話 怪物たちの母

小さなエキドナたちが、沼から這い出してきた。


一体一体は人の腰ほどの背丈だった。女の上半身に、蛇の下半身。母と同じ形をそのまま縮めた姿。それが盆地中の沼から、数えきれない数で足場へ上がってくる。


「茜、ゴーレムのそばから離れないで」


「わかったわ」


葵は駆けながら群れの動きを見た。小さなエキドナたちは、まっすぐ来なかった。足場の縁に沿って回り込み、三方向から挟むように広がってくる。産まれたばかりの動きではなかった。


先頭の一体が口を開け、紫の液を吐いた。葵は横に跳ぶ。液の落ちた足場の岩が音を立てて溶けた。


「酸。かわして」


セレンの声と同時に、ボーガンの矢が先頭の一体の眉間を射抜いた。小さな体が沼へ落ちる。落ちた場所の水面が、すぐ次の一体を吐き出した。


数で来る敵に、一体ずつの処理は追いつかない。


「茜、光を広く。僕が焼く」


茜の光が扇状に広がり、群れの先頭をまとめて怯ませた。葵は足場を蹴って群れの正面に立ち、杖を横に構えた。


「炎よ、広がれ——イグニス・スパルサ」


火の散弾が扇の形に走った。怯んでいた十数体がまとめて炎に包まれる。小さな体は母ほどの再生を持たなかった。焼かれたそばから、動きが止まっていった。


それでも、数は減らなかった。


沼が産み続けていた。倒す速さと産む速さがちょうど釣り合っていた。釣り合っているあいだ、母の傷は塞がり続ける。


蔓が足首に絡んだのは、その時だった。


腐った蔓が足場の裂け目から伸びて葵の右足を掴んでいた。引き倒される前に剣で断つ。断った先から、別の蔓が左足に来た。足元の妨害と、正面の群れと、頭上からの毒針。盆地全体が少しずつ、三人を沼へ引きずり込もうとしていた。


「葵。このままだと、削り負ける」


セレンが矢を放ちながら言った。声はまだ冷静だった。ただ、ボーガンを支える左腕に疲労の揺れが出始めていた。


葵は本体を見た。


エキドナは盆地の中央で産み続けていた。伏せられた目。抱きしめる腕。傷のない白い肌。


(子供の速さより、速く倒す。)


削り合いでは勝てない。なら、削り合いを終わらせるしかなかった。


「茜、セレン。次の群れを焼いたら、三人で本体に行く。子供は無視する」


「後ろから来るわよ?」


「来る前に終わらせる。ゴーレムに茜の背中を任せて、茜の光で道を作って。セレンは僕の左」


「……わかった」


次の群れが足場に上がった瞬間、葵の火の散弾がそれを薙いだ。炎が消えるより先に、三人は走り出していた。


茜の光が正面の沼の上に、光の足場を細く渡した。ドミニオンが頭上を守り、ゴーレムが茜のすぐ後ろを地響きを立てて走った。セレンの矢が、進路に頭を出す小さな影を順に沼へ戻していく。


エキドナが目を開けた。


尾が来た。水面下から三本、別々の角度で。一本目は光の足場の手前を薙ぎ、二本目を葵が跳んで越え、三本目はセレンの矢が鱗の継ぎ目を射抜いて逸らした。


葵は本体の懐に入った。


白い肌の胸元へ、火を纏った剣を振り上げる。エキドナの腕がそれを受けた。細い女の腕が剣を受けて火花を散らした。鱗のない肌に刃が浅く入り、火が傷を焼く。


エキドナが初めて、それまでと違う声を出した。


低く、長く、水の底から盆地の隅々まで届く声だった。痛みの声ではなかった。呼ぶ声だった。言葉はなかった。それでも、何を命じたのかは、次の瞬間に分かった。


盆地中の沼が、一斉に沸いた。


産み残されていた全ての子が水面を破って立ち上がった。小さなエキドナ、ドラウグル、ワイバーン、蠍の群れ。数えることに意味のない数が、盆地の縁から中央へ、三人の背中へ向かって殺到してくる。


同時に、エキドナの下半身が動いた。


盆地中に広がっていたとぐろが水を割って持ち上がり、中央へ集まってくる。何本もの太い尾が絡み合い、積み上がり、女の上半身を高く高く押し上げていった。


横たわっていた床が、塔になった。


見上げる高さに、エキドナがいた。濡れた黒髪が逆巻き、白い上半身が毒の空の下で反り返る。盆地に横たわっていた時の倍の圧が、垂直に立っていた。


エキドナの口が開いた。


波動が来た。


音でも風でもなかった。頭の芯を直接撫でるような冷たい圧だった。それは獣の本能に直接ねじ込んでくる、死の予感の形をしていた。


茜の膝が揺れた。セレンの呼吸が一拍乱れた。


葵は、歩を緩めなかった。


撫でられた場所に、何もなかった。波動は葵の中の触るべきものを探して、見つけられずに通り抜けた。


「二人とも、下がって。ゴーレムの後ろに」


葵の声はいつもと同じだった。その声で、茜の膝が戻った。セレンの呼吸が戻った。


「……平気なの、あれ」


「うん。急ごう」


殺到する子らの先頭が、もう近かった。時間は数えるほどしかなかった。


「茜。あの人の腕を、止めて」


「セレンは?」


「胸。僕が開ける」


三人は同時に動いた。


天使の杖が高く掲げられ、光の鎖が三本、塔の上のエキドナへ駆け上った。鎖が両腕と胴に巻きつき、白い体を一瞬、縛り上げる。


葵は積み上がった尾の鱗を蹴って駆け上がった。ライラの魔力が足を支える。火を纏った剣が、縛られた胸の中央を深く裂いた。


裂いた傷を、火が焼いた。塞がらない傷が白い胸に初めて開いた。


「セレン!」


裂け目の奥へ、矢が飛んだ。


霧の中でも逸れない一矢が、焼かれて開いたままの傷の奥、心臓のあるべき場所を貫いた。


エキドナの動きが、止まった。


呼びかけに応えて殺到していた子らが、足場の途中で一斉に動きを止めた。


塔が、崩れ始めた。


積み上がっていた尾が一本、また一本とほどけて、水面へ帰っていく。それは崩壊というより、長い就寝のようだった。白い上半身が傾き、黒髪が水に広がり、盆地中の子らが母の沈む方を向いたまま、砂のように崩れて沼に溶けた。最後に、母の顔が水面の下へ沈んだ。抱きしめる形のまま組まれていた腕がほどけて、水だけが残った。


盆地が、静かになった。


毒の霧が薄れていく。毒花が、ゆっくり花弁を閉じた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


エキドナの沈んだ場所に、素材が浮いていた。


長い毒針が数本。それから、薄緑に光る小さな塊がひとつ。触れると、傷の塞がる力の残り香のようなものが指先に伝わった。


「再生の、素材かな」


「高く売れる。たぶん、装備にも使える」


セレンが素材を検分しながら言った。


三人は足場に座り込んだ。誰からともなく水筒が回った。


「強かったわね」


茜が息を吐いた。


「強かった」


セレンが頷いた。それから、少しだけ間を置いた。


「でも、昨日のが、おかしかった」


葵は水を飲みながらその言葉を反芻した。今日の敵は八十層のボスで、昨日の敵は七十九層のただの徘徊者だった。順序が、どこかで狂っている。


「そういえば」


葵は思い出した。


「50層のボスの歌が、エリサ先輩に少しだけ効いたことがあった。あの時は、不思議だなって思っただけだったけど」


「ローレライね。覚えてるわ。私が、自分に回復魔法かけてくださいって言ったもの」


茜は膝を抱えて少し黙った。


「先輩、50層までは大したことないって言ってたのに、変だなって思ってたの。……エリサ先輩がチョロかった訳じゃなくて、ボスの方が強くなってたのね」


あの時から、もう始まっていたのかもしれなかった。誰も、それ以上は言わなかった。言えるだけの材料がまだなかった。


葵は話を変えた。


「セレンは、今日も契約神魔を出さなかったね」


セレンは水筒の蓋を閉めながら、当然のように答えた。


「最小限の力。ダンジョン部の合言葉でしょ」


真顔だった。


葵は少し驚いた。その言葉は、男子組がエリックをからかう時のネタのはずだった。それをセレンは、大真面目な流儀として使っていた。ただ、セレンは実際に最小限の力で戦って、それで通用していた。いざという時のために、いつも余力を残しているのかもしれない。昨日のレラジェの時のように。


「そっか。……いい合言葉だよね」


「うん」


セレンは頷いて、立ち上がった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


転移で戻ると、部室には二班と三班が揃っていた。決めた帰還時刻より十分早かった。


「全員いるね」


葵が名簿を開くと、タヴィタがにやりと笑った。


「点呼だろ。並んでてやったぜ」


一人ずつ名前を呼び、一人ずつ返事が返った。誰も欠けていなかった。当たり前のことを、初めて確かめられる形にした一日だった。


窓の外はもう夕方の色だった。

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