第174話 泥濘の産声
木曜の四限、部室に入ると、葵はまず端末を開いた。
「颯。振り込んだから、確認して」
颯の端末が短く鳴った。画面を見た颯の眉が、ゆっくり上がった。
「……百万クレド」
「颯とリオの戦闘服代。いいのを買ってね。命を守るものだから」
部室が一瞬静かになり、それから蒼嵐が身を乗り出した。
「おい、いいこと思いついたぜ。ダンジョン部やめて投資部にしようぜ。この百万を元手に増やして、遊ぶ金に——」
「却下だ」
エリックが一瞥もくれずに言った。蒼嵐は懲りずににやにやしていた。
颯は端末をしばらく見ていた。それから鞄を開けて、紙の束を出した。
「契約書、作ってきた」
差し出された紙には、金額と、返済の期日と、署名欄があった。期日の欄には「稼げるようになり次第」と書いてあった。契約書の体裁をした、決意表明だった。
「読み上げる。俺、夏目颯は、小春葵より借り受けた百万クレドを、いつか必ず、利子をつけて返す」
「利子はいらないよ」
「つけるんだよ。こっちの気持ちの問題だ」
颯が署名しようとした時、リオが静かに手を上げた。
「颯。待って」
リオは契約書を覗き込み、それから葵を見た。
「僕の戦闘服の分は、僕の借金だ。……僕も、五十万返す」
短い言葉だった。決意の温度だけが、まっすぐだった。
颯がリオを見た。それから葵を見た。颯の目が、見る間に潤んでいった。
「お前ら……!」
颯は両腕を広げて、リオと葵をまとめて抱きしめた。骨の軋む力だった。
「絶対返すからな! 俺たち、絶対でかくなるからな!」
「うん。楽しみにしてる」
「く、苦しい……」
リオが颯の腕の中で呻いた。茜とセレンは、部室の隅から冷ややかにそれを眺めていた。熱いのは男子の側だけだった。
颯は二人を解放すると、拳を突き上げた。
「よし——戦闘服を買いに行くぞ! 蒼嵐、エリック、付き合え!」
「買い物なら任せろ。値切りは得意だぜ」
「値切るな。装備は正価で買うものだ」
四人がぞろぞろと出口へ向かう。颯が戸口で振り返った。
「葵、今日の臨時部長は任せた!」
嵐のように、四人は出て行った。
部室が静かになった。葵は臨時部長として、何をすべきか考えた。
考えて、気づいた。この部には、点呼がなかった。帰還時刻の決まりもなかった。誰がどの層に居るかは、本人しか知らなかった。ダンジョンは人が死ぬ場所なのに、安全管理と呼べるものが、何一つなかった。
今まで何もなかったのは、結果に過ぎない。ずっと何もないと、人は大丈夫だと思い始める。
(大丈夫、が一番危ない。)
葵は端末にダンジョン部の名簿を出した。
「じゃあ、今日から点呼を取ります。マルコ」
「……お、おう?」
「タヴィタ」
「いるけど。何それ」
「カイ。ジャック。ユースフ。ダニエル」
順に返事が返ってきた。全員、戸惑いの混じった返事だった。
「茜。セレン」
「はーい」
「いる」
「全員いるね。今日の目標を確認します。二班と三班は50層で鍛錬。無理はしないで、時間には必ず戻ってきてください。僕たちは80層のボスに挑みます」
タヴィタが小さく笑った。
「颯、点呼なんてやらないぜ」
「うん。今まで大丈夫だったから、これからも大丈夫とは限らないから。安全管理だよ。帰る時間と集合場所も決めよう。過ぎたら、探しに行けるように」
タヴィタは肩をすくめたが、悪い気はしなさそうだった。葵は名簿を閉じた。
「みんな、行こうか」
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八十層への階段を降りきる前から、匂いは変わっていた。
甘い腐臭だった。花の匂いと肉の腐る匂いが、同じ空気の中に混ざっていた。
階段の出口の先に、盆地が広がっていた。
一面の沼だった。水面は濁った緑で、ところどころに大きな毒花が開いている。花弁の縁から紫の液が糸を引いて垂れていた。沼の間を縫うように腐った蔓が地面を這っている。乾いた足場は盆地の縁に沿って、細く残っているだけだった。
空気そのものが薄い毒だった。戦闘服の環境表示が常時の警告を示す薄い黄色に変わる。茜の白銀の聖装が淡く光り、毒を膜の外へ押し返していた。
「足場、少ない」
セレンが盆地を見渡して言った。
「沼には入らない。それが最初のルール」
葵は頷いた。それから、盆地の奥を見た。
見て、気づいた。
沼が、動いていた。
一箇所ではない。盆地のあちこちで、濁った水面の下を太いものがゆっくり移動している。右の沼で鱗が光り、左の沼で水面が盛り上がり、正面の毒花の群れが順に揺れた。別々の生き物が何匹もいるのだと、最初は思った。
違った。
全部、繋がっていた。
盆地の中央で、水面が割れた。
女が立ち上がった。
美しい女だった。濡れた黒髪が背に貼りつき、白い肌が緑の水を弾いている。人の二倍はある背丈の、整った上半身。その腰から下が鱗に覆われた太い蛇の胴になり、水面の下へ沈み込んでいた。盆地中の沼で動いていた太いものは、すべてこの女の尾の続きだった。
盆地全体が、彼女のとぐろの中だった。
(エキドナ)
視界の隅に文字が出た。
ヘシオドスがそれを記した。上半身は美しき妖女、下半身は斑の大蛇。地の下の洞に棲み、神々にも人にも似ぬもの。ヒュドラを産んだ。キマイラを産んだ。ケルベロスを産んだ。この世の怪物という怪物の、母である。そして——嵐の巨人テューポーンの、妻である。
(70層と、対なのか。)
葵は堕星の黒翼杖を握り直した。十層下の夫は、見上げても頭の届かない縦の壁だった。目の前の妻は、盆地全体に横たわる床だった。大きさの種類が、違っていた。
エキドナが三人を見た。
整った顔に表情らしい表情はなかった。ただ、値踏みをするような間があった。それから、女の唇がわずかに開いた。
歌ではなかった。低い、水の中で鳴るような声だった。
沼が、応えた。
盆地のあちこちで水面が割れ、中から這い上がってくるものがあった。ドラウグルが三体。ワイバーンが二体、濡れた翼を広げる。ヒュドラの幼体が一体、三本の首をもたげた。どの個体も体表に薄緑の膜をまとっていた。膜の下に、傷が付くそばから塞がりそうな嫌な艶があった。
「産んだ……?」
茜が小さく言った。
生まれたばかりの子たちが、一斉にこちらを向いた。
「茜、膜を。セレン、ワイバーン」
葵は言いながら、視界の隅に契約陣のリストを呼び出した。端末の表示が視界の右下に展開する。ゴーレムを選んだ。青い光が渦を巻き、岩の巨人が足場の上に立ち上がる。
「ゴーレム。茜を守って」
ゴーレムが茜の前に、壁のように立った。石は腐らない。それは昨日、確かめてある。キマイラとズメイと火車が毒の中で戦えるかは、確かめていない。確かめていない札は、切らない。
「ありがと、ゴーレムさん!」
茜が光の膜を張り、ドミニオンが聖なる杖を構えた。セレンのボーガンが最初のワイバーンの翼の付け根を射抜き、葵は駆け出した。
ドラウグルは、壁だった。それは71層から変わらない。だが今日の壁は、斬った先から塞がった。葵の剣が一体目の胴を裂き、裂け目が薄緑の膜の下で見る間に閉じていく。
「再生持ち。膜の色、覚えて」
セレンの声が飛んだ。二体目のワイバーンが落ち、それでも羽ばたきを取り戻そうとしていた。
葵は斬った裂け目に、返す刃で火を送り込んだ。イグニスの炎が傷の中で燃え、裂け目が黒く固まる。塞がらない。ドラウグルが崩れた。
焼けば、止まる。それも、確かめてある。
その間も、茜の光はエキドナ本体を撃っていた。光の槍が女の肩を貫き、白い肌に黒い孔を穿つ。手応えはあった。あったはずだった。
「……ねえ、葵」
茜の声が硬くなった。
「傷、塞がってる」
葵は本体を見た。さっき穿たれた肩の孔が、もうなかった。白い肌は傷のあった場所さえ分からないほど滑らかだった。
セレンがヒュドラの幼体の首を一本射抜いた。それから、視線が子たちと本体の間を往復した。
「……子供。子供が生きてる間、母親が治ってる」
言われて、葵にも見えた。子たちの薄緑の膜とエキドナの肌の艶は、同じ色をしていた。母から子へ守りが流れ、子から母へ回復が流れている。繋がっているのは尾だけではなかった。
「子から倒す」
三人の動きが変わった。葵が斬り、焼く。セレンが射抜き、葵が焼く。茜の光が仕留め損ないを潰す。ゴーレムは動かない壁として、茜に迫るものだけを岩の拳で叩き落とした。
最後の一体が沼に沈むと、エキドナの肌から艶が引いた。
エキドナの唇が、また開いた。低い声が水を渡り、沼が応え、次の子たちが這い上がってくる。今度は五体ではなかった。八体いた。
産んで、守らせて、治る。倒せば、また産む。二巡目を潰し、三巡目を潰した。三巡目は十体いた。処理の型はできていた。型ができても、消耗は積もった。毒の空気は装備の膜の外から体温を奪い続け、茜の回復は毒の分だけ余計に働き続けた。
強い一撃は一度も来ていなかった。それなのに、確実に削られていた。
四巡目の子たちを沼へ返した時、エキドナが初めて声以外の動きを見せた。
尾の一本が水面から持ち上がり、盆地の縁の足場を薙いだ。葵たちのいる場所ではなかった。ただ、乾いた足場が一つ、沼に崩れて消えた。立てる場所が一つ減った。
それから、霧が来た。
エキドナの口から吐き出された緑の霧が水面を這って広がり、盆地を白く濁らせた。視界が閉じる。毒花の輪郭が溶け、仲間の姿が滲んだ。茜の膜の光と、ゴーレムの影だけが、白の中にぼんやり残った。
「左。二体」
ライラが胸元から言った。霧はライラの感覚を遮らなかった。葵は見えない左へ剣を構え、霧を裂いて出てきたドラウグルの首を落とし、火で焼いた。
霧の向こうで低い声が続いていた。産む声だった。何巡目かは、もう数えていなかった。
不意に、声が止んだ。
霧が、ゆっくり晴れていく。
盆地の中央で、エキドナが両腕を自分の体に回していた。抱きしめるような姿勢だった。伏せられた目。腹部の鱗の下で光が脈打ち始めている。
「……何か、来る」
セレンがボーガンを向けた。茜の膜が厚くなった。
エキドナの腹部の光が、沼へ流れ出した。光は水脈のように水面下を走り、盆地中に枝分かれして広がっていく。
沼のあちこちが、盛り上がった。
一つや二つではなかった。数えるのをやめるほどの数の水面が同時に膨らみ、破れ、中から小さな影が頭をもたげた。
女の上半身と、蛇の下半身。
母を、そのまま小さくした姿だった。
小さなエキドナたちが、盆地中の沼から一斉に産声を上げた。
産声は、揃っていた。




