第173話 描き得て、御し得ず
木曜の三限、クラスホールの黒板には、もう表が書いてあった。
空中に描く。物理的に刻む。端末で生成する。三つの行の先に、精度と速度の欄が並んでいる。
「四章の四、描き方と精度。……以前軽く触れたな」
リースはチョークで表を叩いた。
「だから今日は、これらを詳しく見ていく」
右隣で茜がノートを開いた。左隣のセレンは、もう黒板を写し終えていた。
「まず、普段のお前たちの魔法だ。撃つとき、陣が浮かぶだろう。あれは前に言った通り、イメージが出ているだけだ。演算も魔力も、体の中で完結している。浮かぶ陣は、家で言えば表札だ。表札を外しても、家は建っている」
チョークが、表の一行目に移った。
「空中に描く陣は、別物だ。術式を体の外に描き出し、そこに魔力を流して発動する。演算の一部を、外に出す行為だ」
「なんでそんなことをするんですか」
前の方の生徒が聞いた。体の中で済むなら、その方が早いのではないか、という顔だった。
「いい質問だ。理由は一つ。イメージできないものが、撃てるからだ」
ホールが、少し静かになった。
「体の中の発動は、理解が要る。回路が術式を組むんだからな。分かっていないものは組めん。だが外に描くなら、話が違う。術式は図として目の前にある。お前の仕事は、形を正確に写すことと、魔力を流すことだけだ。形さえ正確に再現して、魔力さえ足りれば、自分の力量を超えた陣でも発動する」
ざわめきが走った。強い魔法が使える、という方向のざわめきだった。
リースは、それが広がりきる前に続けた。
「喜ぶな。制約が三つある。一つ、魔力の下限。陣が要求する量を賄えなければ、不発だ。二つ、使い捨て。空中の陣は一度流せば散る。三つ。これが一番大事だが、一線でも狂えば、別物になる。不発ならまだいい。狂った術式が、狂ったまま起動することもある。理解して描いた者は途中で誤りに気づく。写しただけの者は、気づけん」
チョークを置いて、リースは教壇に手をついた。
「描けることと、御せることは、別だ。覚えておけ」
葵はノートに、その一行を書いた。
「次。三行目の端末生成を、先に片付けておこう。これは出力が三通りある。空中への投影。人間が手で描くより速くて、線が狂わない。シールや素材への物理出力。それから、端末自体を発動体にする内部保持だ。速くて、正確で、狂わない。戦闘の道具としては、人間より優秀かもしれんな」
生徒たちの何人かが、身を乗り出した。
「ただし、だ。端末に任せるということは、演算をAIがやるということだ。お前は魔力を流すだけ。術式を理解しないまま撃つ。理解しないものは、育たん。十年端末で撃ち続けた奴の回路は、十年前のままだ」
リースはチョークを置いて、教壇に寄りかかった。
「私が言うのもなんだが——若いうちは、杖を使え」
薄い笑いが起きた。魔法工学の教師の言うことではなかった。言うことではないから、本気だと分かった。
「それにな。任せるということは、中身を確かめないまま信じるということだ。……まあ、この話はまたいずれな」
最後の一言だけ、笑いに紛れて流れていった。
「さて、二行目に戻る。物理的に刻む。こっちは器の話だ」
リースは教卓の下から、木箱を出した。
「空中の陣に素材はない。魔力の線だけだ。だが刻む陣は違う。何に、何で刻むかで、同じ図形でも効果が変わる。器の質が、流した魔力の通りと保ちを決めるからだ」
箱から、道具が順に取り出されていった。
白いチョーク。「演習用。安い。消える。それでいい用途がある」。黒っぽい墨壺。「エーテライトの粉を練った墨。紙と布への定番だ。お前たちが将来、護符の一枚も作るならこれからだな」。銀色に光る細いペン先。「魔銀。魔力の通りは最上。武器と恒久結界の刻印用。……値段は聞くな」。
最後に、小さな硝子瓶がいくつか並んだ。中の粉は、瓶ごとに色が違った。
「神魔素材の顔料。神魔の素材を挽いたものだ。ダンジョンの拾い物でも、異界の産でも、現実に出てきた奴の討伐素材でもいい。その神魔の属性と相性のいい陣に、よく通る。お前たちがダンジョンで拾う羽根や鱗は、換金所で潰される前に、こういう形で生き残ることもある」
葵は、マジックバッグの中の羽根と欠片を思った。
ここまでが、教科書の先だった。ここからが、リースの脱線だった。
「ところで。刻む素材の話をすると、必ず古い話がしたくなる。……魔法は、七百年頃まであった。世界史でやったな。それから千三百年、途絶えて、三十年前に戻ってきた」
リースは黒板の端に、横線を一本引いた。線の左端と右端に印をつけ、間を長く空けた。
「この空白の間も、書物だけは残った。グリモワール、魔術書だ。中世の写本者たちが、意味も分からず書き写して伝えた。有名なのは『ソロモンの鍵』。七十二柱の悪魔を使役したという、ソロモン王の書だ」
葵の手が、止まった。
七十二柱。昨日、更地の中央に立っていた緑の衣を思い出した。弦の音と、咲き終えるように散っていった花弁と、最後に残った声を。
(あの人の名前も、載っているのだろうか。)
「面白いのは、素材の記述だ。コウモリの血を清めて作るインク。処女羊皮紙。言っておくが、人間の話じゃないぞ。処女とは未使用という意味で、若い獣の皮のことだ。乳香。アロエの木。没薬とシナモンとオリーブ油を調合した聖油。……もっと過激な、臓器だの脳だのを使う系統の書もあるが、それは省く」
前の席の誰かが、小さく呻いた。
「で、だ。ここからが本題だ。三十年前に魔法が戻ってきて、こういう古い記述が検証できるようになった。結果を言うぞ。一部は、本当に効く」
ホールが静まった。
「乳香は魔力の通りが検証済みだ。聖油の調合も、配合によっては効く。魔法の時代の知識の残滓が、写本の中に生き残っていたわけだ。本物の部分は、ソロモン王本人まで遡るのかもしれんな」
リースは、そこで指を一本立てた。
「だが、喜んで写すなよ。古書は玉石混淆だ。効く記述と、まったくの出鱈目が、同じ頁に並んでいる。時代なりの迷信。権威付けの飾り。それから——弟子以外に使わせないための、わざとの嘘。どれもある。さっきの空中描画の話を思い出せ。理解せずに形だけで使える体系だからこそ、出鱈目を写せば、出鱈目が起動する」
描けることと、御せることは、別だ。同じ一行が、別の角度からもう一度立っていた。
「それに、効くと分かったところで、困ったことがある。なぜ効くのか、誰にも導けん。なぜ乳香で、隣の似た香料では駄目なのか。規則性がない。理屈から次を予測できん。測れて、再現できて、導ける——それが工学だ。この知識は、工学にならん。だから教科書に載らん」
「じゃあ、確かめる方法はないんですか」
「一つだけある」
リースは、教壇の縁に腰を預けた。
「神魔に聞くことだ。彼らは向こう側の住人だからな。古い書を見せると、頁を指して、これは正しい、これは出鱈目だ、と言うことがある。魔術の知識は、神魔から得られることがある。……では聞くが、七百年より前の書き手たちは、誰から聞いた? そして、なぜ魔法は七百年に消え——」
教卓のパネルが、青白く明滅した。
「その議題は、本講義の範囲外です。契約説法、または神魔魔法陣の範囲です」
オルタの声は、いつも通り平坦だった。どこかで「神魔魔法陣って何だ」と囁く声がして、オルタが事務的に答えた。
「二年次以降の選択科目です。神魔由来の魔法陣を学び、法則の有無を考察します」
リースは肩をすくめた。
「……だそうだ。魔法工学でする話ではなかったな」
チャイムが鳴った。オルタが付け加えた。
「なお、グリモワールの内容は、期末試験には出題されません」
安堵の息が、あちこちで漏れた。リースはチョークの粉を払いながら言った。
「出んがな。覚えておけば、何かの役に立つかもしれんぞ」
葵はノートを閉じた。閉じる前に、一行だけ読み返した。
描けることと、御せることは、別だ。




