第172話 壁の向こう3
二十一時半、机にノートが二冊並んだ。
「こ、今夜は、リンガを、やります。再開してから、リンガは、今日が、最初ですね」
壁の穴をくぐってきたオリビアは、いつものカーディガン姿だった。耳元で銀のピアスが小さく光っていた。それだけだった。
「では、始めます」
その一言で、声が変わった。
「いま、動詞の時制でしたね。ここから揃えていきます。ラテン語の過去には、線の過去と、点の過去があります。続いていたことと、起きて終わったこと。形が違います。ここは、つまずく人が一番多いところです。曖昧なまま進むと、講読で全部崩れます。今夜はここを固めます」
低く静かで、迷いのない声だった。ノートの上に活用の形が並んでいく。歩いていた。歩いた。愛していた。愛した。同じ動詞の、違う顔。
「では、講読です。読みます」
オリビアが教本の短文を読み上げた。
流れるような音だった。硬い活用表の中の言葉が、声に乗ると急に古い歌のように聞こえた。切る場所、伸ばす音、子音の立て方。教本の付属音声とは何かが違った。
「当然かもしれないですが、先生って、とってもラテン語がお上手ですよね」
オリビアの手が、一拍止まった。
「……ありがとう、ございます」
小さな声だった。授業モードの声ではなかった。それから咳払いをして、声を戻した。
「つ、続けます。訳してみてください」
時制の練習が一区切りついたところで、オリビアは鞄から薄い紙の束を出した。
「あ、あの、それから。……これを、渡しておきます」
数学、物理、世界史、リンガ。教科ごとに一枚ずつのテストだった。
「あ、明日、時間のあるときに、解いてください。それを見て、金曜日に、やる科目を決めます。それと、金曜日からは、宿題も渡します。私が来ない日の分です。一日一枚、解答付きで」
「解答も、くれるんですか」
「じ、自分で、間違いを見られる人だと、思っているので」
オリビアは束の端を、指で揃えた。
「せ、先週から、作っていました。……か、家庭教師は週に二回ですが、勉強は、毎日できた方がいいので」
葵は紙の束を受け取った。週に二回の家庭教師が、束の厚みのぶんだけ、毎日になろうとしていた。
授業は二十二時半に終わった。オリビアがノートを抱えて壁の穴をくぐり、葵は挨拶のために穴の向こうへ顔を出した。
服の海が、戻っていた。
床の見えない絨毯。椅子の背の層。部屋の隅にはカップ麺の容器と菓子袋。五日前に片付けた部屋は五日分だけ戻っていた。ただ、ゴミの山はこの前より袋一つぶん低い気がした。気がしただけかもしれなかった。
「あ、あの、これは、その」
オリビアがノートを盾のように抱えた。
葵は考えた。
フィオナさんのときは、全部やってあげた。ラム肉を焼いて、シチューをよそって、シーツを整えた。でもあれは、フィオナさんが僕の契約神魔だったからだ。先生は違う。先生は大人で、これから先も一人で暮らしていく人だ。全部やってあげたら、僕がいない日に困るのは先生だ。自分でできるようにしてあげなくてはいけない。
心を鬼にしよう。
(甘やかさない。)
「先生。今日は、仕組みを作ります」
「し、仕組み……?」
「片付けるんじゃなくて、置く場所を作ります。場所さえあれば、片付けは要らなくなるので」
葵は部屋を見渡して段取りを組んだ。服は籠。ゴミは箱。本は棚の一段。まず籠を空にするため、中の雑多なものを引き上げ、床の服を拾い、皺を伸ばして畳んでいく。カーディガン、ブラウス、ワンピース。畳んだものを積み、ゴミを袋にまとめて縛り、床を拭いた。
それから畳んだカーディガンを一枚、オリビアに渡した。
「先生の仕事はこれです。籠に、入れてください」
「え、あ……は、はい」
オリビアはカーディガンを両手で受け取り、籠にそっと入れた。
「上手です」
オリビアの目が、前髪の下で丸くなった。
「じ、じょうず……?」
「はい。じゃあ、次はこれを」
ブラウスを渡す。籠に入る。
「上手です」
「あ、あの、葵くん、これは、私、入れているだけ、なのでは」
「入れる場所が分かっている、ということです。大事なことです」
葵は大真面目だった。甘やかしてはいけないのだ。だから畳むのは自分でやり、運ぶのも自分でやり、先生には籠に入れる一動作だけを任せて一枚ごとに褒めた。厳しくしているつもりだった。
籠の底でライラが服に埋もれていた。
「ここ、ライラの」
「ライラ、そこは先生の服の場所」
ライラは最後のワンピースを頭に被ったまま、渋々ポケットに戻った。
ゴミの箱を置く段になってオリビアが急に動いた。部屋の隅の缶を、背中に隠すように抱えたのだった。丸い、菓子の缶だった。
「そ、それは、あの、これは……」
「大事なものですか」
「…………は、はい」
「じゃあ、棚のこの段を、先生の大事なもの置き場にしましょう」
葵は棚の一段を空けて缶の場所を作った。オリビアは缶を抱えたまましばらく動かなかった。それから、そっと棚に置いた。缶は置き場を得て、隠すものではなくなった。
部屋が終わったのは二十三時半だった。床が見えて、籠と箱と棚の一段にそれぞれの居場所ができていた。
「これで、脱いだら籠、ゴミは箱、です。片付けなくても、散らからなくなります」
「は、はい……」
「じゃあ、おやすみなさい、先生。今日のラテン語、面白かったです」
葵は壁の穴をくぐって自分の部屋に戻った。
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オリビアは、籠の前に立っていた。
着ていたカーディガンを脱いで、籠に入れてみた。
誰も、上手ですとは言わなかった。
それでも、しばらく籠を見下ろしてから、オリビアは棚の缶の位置を少しだけ直して明かりを消した。




